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左利きとしての人生

皆さんこんにちは。
最近『左利きのエレン』という漫画と出会い、心を揺さぶられ、また共感の気持ちが溢れ、そして自分でも言語化できていなかった自分の特性をこの漫画を通して、見つめることができ、未だ少し混乱しているサリーです。

今日はその特性について、みなさんと一緒に考察、内相していきたいなと思います。

また今回は漫画の前説明をせずに、この漫画を読んだことがあることを前提に話を進めるので、まだみてない人は、ネタバレにご注意ください。
もし漫画の概要、キャラクターの説明が読みたい方は、こちらのサイトを参照ください。


山岸エレンから内相した精神的繊細さ

まず第一章で、エレンが父の死から大好きだった絵を描かなくなり、自分の殻に閉じこもってしまう描写があります。これは私も似たようなことを経験したことがあります。私の場合は、とある事件があり、直感的に行動すること、人と本音でこころを通わすことをやめてしまったことがあります。

また小さい頃から人一倍感受性がつよくて、よく小さなことで泣いて、笑って、喜んで、傷ついて、だからこそ人一倍疲れやすかったです。

そして、その自分の中に渦巻く感覚を言葉で表すことも難しく、言葉にしてもその内容の本当の深さが伝わらず、絶望し、苛立ち、あまり自分の本当の感覚を人に話すことも、自分の中でも言葉に変換しなくなったこともあります。

それが影響し、高校までの学生時代、読書感想文なるものは大の苦手で、なぜ他人に説明しないといけないの?、どうやって言葉で表現すればいいの?
無理、と拗らし提出したことはありませんでした。

途中余談を挟みましたが、それらの感情をエレンが得ていた様子を見る中で、自分もその感覚に見覚えがあると自覚し、またその感覚がとても普通のことに思いました。

けど育った環境的に、その繊細さは弱点になり、生きていくためにはその繊細さは封印するしかなく、無意識に自分自身でその繊細さを悪とし、繊細な自分を否定し、強くあろうとしていました。

けどその行動は徐々に自分を蝕み、高校時代は精神的にとても荒れました。
けど、その荒れている本当の原因を自覚してなく、また周りにも指摘されず、とりあえずこの状況から抜け出したい、田舎に行きたいと直感的に思い、台湾の田舎に導かれるまま向かいました。

そしてそこで多くの人とのびのびと交流し、自分とじっくり向き合った結果、自分はとても繊細の人であり、そしてそれを環境がために、抑圧していたことを自覚しました。またそこで、自分が生きやすいと感じる環境は、都会の殺伐と人が多い環境ではなく、自然豊かで、のびのびと過ごせる環境だということを体感することができました。

ここまでエレンへの洞察から得た、自分の繊細さについての気づきを書いていきましたが、左利きとの関連性はどこにあるのでしょうか?

私はこれまで、数々の左利きについて述べられた書籍や記事を読んできましたが、その内容のほとんどで共通するのが、「左利きは身体の左側をよく使うことで、右脳を日常的に刺激している。また右脳は非言語能力を主に担っており、その部位を刺激した影響で、感受性能力が活性化され、繊細になりやすい。だから左利きの人には繊細な方が多い。」という説です。

この説を見る前、私は自身の感受性がどこからきているのか不思議でなりませんでした。周りには左利きの人がほとんどいなく、観察対象はいつも右利きの人だったので、自分より感受性が高い人にも出会えていませんでした。

そんな疑問を長年抱えてましたが、左利きの書籍をよみ、そういう説を知り、今回他の人が洞察し描いた左利きの女性を客観的に見ることができて、初めてその説は正しい、そして繊細であることは、自分のありのままの姿なんだ、その繊細さを受け入れ、それを磨き上げ、より精度の高い感受性をみにつけたい、そう感じている自分が居てました。

クリエイティブに惹かれている自分

「左利きのエレン」にはさまざまなクリエイティブの仕事に従事している人たちが描かれます。
画家、広告代理店のクリエイター、コピーライター、フォトグラファー、ファッションデザイナー、映画監督、モデル等。

これらの仕事は、一度自分も夢見たけど、忙しいや競争率が高い、自分には才能がないと決めつけ、周りにも言わずに選択肢から除外してきた仕事です。

けどやはり、さまざまなクリエイターの生きる様をみれば、とても惹かれるし、憧れている自分がいてました。
またこの漫画を通し、自分の感受性という能力を一度信じ突き進んでみようという気持ちにもなっています。
そこで、私は改めてどのクリエイティブを極めたいかと考えた時、自然と口にしてたのは、「言葉を創りたい」でした。

「言葉を創り、文章を創り、そこにある情景、思いを伝えたい。
そしてその創作活動を通して、その人が自身のうちなる声と向き合い、進んでいく手助けができたら、本望だ。」

頭を空にし、赴くまま文字を連ねていると、そうやって書いている自分がいました。

なら次に大切なのは行動です。
まず言葉を創り、磨き上げるには、日々の鍛錬が欠かせません。
だから私は時間が許す限り、いろんなテーマでありのままに文章を書いていきます。

そして最終目標は、出会ってきた人たちのノンフィクション小説を生涯かけて書いていくこと。

すでに書きたい友人が1人いているので、そうだな短編小説として書いていこうと思います。

そして私の人生も”小説よりも奇なり”なことが多いので、それらもありのままの文章にしていきます。

これから文章創作と生きる生活が待っていると思うと、とても楽しみです。

左利きとして生きる道

去年「すごい左利き」という本に出会ってから、改めて「自分は左利き」ということを意識して生きてきました。その中で、左利きであるゆえに、日常で苦手なこと、不便なこと、逆に得意なこと、そして左利きにあった道具などを調べては、日常で検証することを繰り返してきました。

その一つ例を挙げるとするなら、「左利き万年筆」との出会い。
最近バイト先でや、日記を書く時、ボールペンを使うことが多々あります。
ただ左利きが普通のボールペンを使うと、ボールペンの特性上、ペン先がすぐ壊れ、インクは残ってるにもかかわらず、インクが擦れたり、出なくなって、すぐに使えなくなることがあります。

そんな悩み、苛立ちを抱えていた時、出会ったのが「左利きの道具店」という左利きの道具を扱うオンラインショップ。

そこで「左利き万年筆」なるものを見つけ、即購入。
購入し、約1ヶ月が経ちましたが、インクが掠れることもなく、ずっとスラスラかけるので、書くことがとても楽しく、自分が思うがままに気が済むまで自分の言葉や考えを書きつづけられます。

これはあくまで一例ですが、こんな風に自分の特徴と向き合っていた中で、出会った今回の漫画。
その漫画を通して、目には見えない、自分の才能と向き合うことができ、これまで人生の迷子になっていましたが、たとえこれから自分がなにもになろうとも、自分の左利きという特性を惜しみなく使い、その先で力尽きてこの世を去るという”道”、言葉をかえるなら、”覚悟”ができました。

これまで、世に多数いて、普通と言われる右利きの人生を送ろうとして、失敗し、自分を欠陥品と思ってた時期もあるけど、それはただ選ぶ道を間違っていただけ。ありのままの自分の人生を送る、それが天から与えられた命である。
これからその天命をこの同時期にこの世を過ごし、そして同じ言語を操るみんなに共有していきます。

これからも改めてサリーをよろしくお願いします。
では今日はここまでにしようと思います。
また次のありのままで会いましょう。





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