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データを信じない中国人

俺に言われても困る

日本政府が4月13日に「福島第一原発の処理水を海洋放出する」と発表して以来、中国の友人たちから多くのメッセージを受け取ることとなった。

(本当は関わりたくないのだが)無視するわけにもいかず、仕方なく日本政府の主張をそのまま伝える羽目になった。俺に言われても困るんだが。

それに対する反応はというと、中にはトチ狂ったようなメッセージもあったが、

それを除けば「日本政府の言うことが信用できない」という反応が最も多かった。それならばと数字付きであれこれ説明しても「そんなものは信じられない」と聞く耳を持ってくれなかったことが多く、結局「ほんなら何を言っても無駄やんけ」と諦めることになってしまった。

(この件については色々と思うことがありnoteに恨みつらみを書き綴ったが、最終的に出力されたのがただの闇だったため封印した😌)

合理的に客観的に事実だけを見れば理解してもらえるだろうという甘い考えは見事に打ち砕かれ、言葉にできないモヤモヤとしたもの悲しさが未だに心の中に残っている。

新型コロナウイルス騒動で世界中から非難が集中したときは「データや事実に基づいて判断する必要がある」と繰り返し主張していたのに、逆の立場になるとその「データ」に聞く耳を持たなくなる見事な手のひら返しがいかにもステレオタイプ的中国人だなぁと思った。

が、よくよく考えてみると多くの中国人がそういう反応をするのにもそれなりの理由があるような気がしてきた。

データを信じない中国人

(コロナに限った話ではなく)中国政府が都合の悪い情報を隠蔽するなど強い情報統制をしていることは自明の理だが、

当の中国国民もそれを知らないわけがなく、政府が発表する数字を鵜呑みにせず「疑ってかかる」ことが根付いているのは想像に難くない。基本的に他人の言っていることを信じない人たちだ。

更に身近な例を挙げると、中国の製品(特に電化製品)を買ったことがある人なら一度は経験があると思うのだが、商品説明に書いてある性能が嘘八百(いわゆるスペック詐欺)であったり、そこに書かれている認証や付属している証明書が偽物だったり、ということが散見される。これも「データが信用できない」に繋がる。

本来データとは科学的で客観的な数値であるべきものだが、中国においてはそうではない例が多く、「誰かが都合のいいようにでっちあげている可能性がある」と懐疑的になってしまうのだろう。

また製品の評価を数値化する「レビュー」についても、サクラレビューが横行しておりそのまま信じる人はまずいない。では何を信じるのかというと、友達やインフルエンサーなどの「信用できる人」の情報や口コミを重視する傾向がある。

「誰の発言か」を重要視する中国人

データや事実が信用できない以上、自分の目で見た「人」を判断基準にせざるを得ないわけだ(その人が背負っている「信用」といった方がより正確か)。

「昔からよく知っている友人の言葉だから」とか「その道で評価されているインフルエンサーだから」とか「テレビで見た専門家っぽい人だから」などといったように、自分が見知っている情報だけを材料に判断することになる。

となると、各大臣の顔を見たことすらない外国の、しかも「政府」が言っていることを信じる中国人がいるだろうか。いるわけがない。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

上述した内容を整理していくうちに頭に思い浮かんだのがドイツの初代宰相ビスマルクの言葉。

自分の経験の範囲内で主観的にしか物事を見られない愚者と、過去から積み上げてきたデータ(歴史)をもとに客観的に判断ができる賢者。

どちらが良い悪いという話をする気はないが、経験上前者は端から自分の意見ばかり主張して他人の意見を聞くつもりがない場合が多いため、話すだけ無駄だというのが最近行き着いてしまった答えである。

末注

当記事の「中国人」という表記は「筆者が見知っている非常に狭い範囲の中国人」を指す。多種多様な文化を持つ中国や中国人に対して「中国は」「中国人は」などといったクソデカ主語を使うと大抵碌なことにならないのだが、毎回「筆者が見知っている非常に狭い範囲の中国人」と長々と書いていると日が暮れてしまうため省略して表記している。ご了承の上閲覧願いたい。


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