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20歳女の高熱録音記

39.5度の熱に5日ぐらい魘されてた(結局インフルAだったんですが、生理と直接バッティングしたのでここ5年で一番体調的に辛かった)際に、あまりにも熱がひどくて寝れない時、唐突にnote書くか、でもタイピングできないな(体調悪すぎて)、、、と思い立った中村がその際に録音した25分弱の独白を文章化しました。悪趣味ナルシストは健在です、どうも。最後の方は熱が酷かったのでひどい出来ですが、それもまたリアルな味ということで。私は人の世話ばかりして自分が困った時にいつも一人なのですが、一人は最高です、「スカッとMy Heart」聞いてください。大抵の嫌なことはハロプロとジャニーズのトンチキソングが解決してくれますよ。おすすめは太陽とシスコムーンです、昭和でもガンを飛ばしていくTHEつんくソングの節々にフェミニズムを感じて私は機嫌がいいです。結構長いですが、読んでくださいな。(また友達が減りそうなことばかり書いてます)


BERSHKAの無い渋谷を愛せと言われても

渋谷のBERSHKAの荘厳な外装は、実は緑色だったらしい。乃木坂の夏のFree & EasyのMVのサムネイルが、自身のYoutubeのおすすめ欄に上がってきたことを契機に、そう知った。

「いや、あの赤い建物はBERSHKAじゃなきゃダメなんだよ」と、“BERSHKAの日本撤退後に様変わりし、KOMEHYOになり変わった渋谷の過去のシンボル”に対し、知ったかのように『あるべき姿』と『そうでない今』を語った先日の自分のことを思い出し、とてつもなく私は反省した。

渋谷に来る田舎者と高校生は、BERSHKAの三階にある、ストロボと音が鳴り続ける派手な仕様で著名だった鏡の前で、写真を撮りたがる。上京して2〜3年経ったら、どんなことがあっても、絶対にそんな写真の撮り方や、それを個人の公開インスタのアカウントに乗せるなんてことはしなくなる。いわゆる“『#上京しました』のような遊び”は絶対に個人的な友達との遊び方ランキングの中では衰退の一途を辿っていくのに。当時はあの鏡に映った自分たちをSNSに載せ『やっぱり、渋谷が世界の中心』とキャプション欄に書き仰ることは、何かしらの意味合いで同年代の中で一歩先をイケていると思っていた。

BERSHKAの鏡での自撮りも。
渋谷PARCOのマークジェイコブスの鏡で何も買わずに自撮りだけしていた私と友達も。
渋谷スカイとりあえず男と行く場所に困ったら出向くという習慣も。

全部、今はなかったことになって、Valentraのミニイジィデを持って、アマン東京かWosakaのアフタヌーンティーに行くのが、今の『イケている』遊びらしい。知らんけど。

今なら絶対に渋谷にはわざわざ下車しない。銀座、恵比寿、東京。洒落込み過ぎない日は新橋、赤坂。大人のふりをして違う階層の駅名らを知り始めたけれど、おそらく『本当に大人な人たち』はもっとニッチで、私が「えここって東京なんだ」と思うような、“テラスハウスの出演者が友人との外食シーンによく利用していそうな場所”で飲んでいるんだろう。「え?どこでそんなお店見つけたの」とでも言いたくなるような、インスタの#駅名ランチ#駅名ディナー#駅名グルメでは、全く検索結果にすら出てこないような、食べログに上位表示されて四以上の評価がついているわけでもないような、そんな店をなぜか知っていたりする。

風情がある内装とそれらしいメニュー、綺麗なトイレに多彩な日本酒のラインナップ。そういう店に平気でお金をかけられるようになって、取引先というほどでもないが、仲良くもない、同業者の友達、なんて関係性の人たちと、あたかも昔からの大親友で、もう15年来の付き合いだというかのノリで写真を撮り、親しい友達のストーリーにあげる。そういう人生を送ることができたら、おそらく私はこの東京という街に馴染めるんだろう。

カラフルな絵の具も全部混ぜると黒になるから

様々な葛藤を脱ぎ捨てて、ただ比較的優秀な22歳として、自身のアイデンティティをスーツカンパニーのフルセットの安い黒スーツの裏地に詰め込んで均一化してみたら、どうなるだろう。

ストーリーに「就活だからネイルできない。ぴえん。」「スカルプやめた。髪も茶色だったけど、就活だから黒染めしなくてもいいアッシュグレーにしてもらう予定」とかって投稿する。はい。

「どう?私、就活生っぽいかな。頑張る。」「正直、結局顔選抜ってあるよね。やっぱりかわいい子が受かりやすい。この現実って何だろう。」「私は頑張ってガクチカも用意して部活にも励んできたのに、ITパスポートだって取ったのに」「よかった。やっとメガベンには受かった」なんてことを言う。はい。

就活情報収集アカウントの本物かどうかもわからない、“マッキン内定者らしき人物の、実家の太さPRと論理的思考らしきフレームワーク”を公式マーク(課金)付きのXアカウントが解説しているツイートを傍目に見て、内心は奥歯をかみ殺しつつも「なんだかんだ安定して福利厚生のいい会社に入れた!」「企業分析も頑張って良かった」と言う。はい。

そういう未来を選ぶ方が良いのだろうか。

企業というのは、一つの社会だ。しかしながら、自分がどの社会に属するべきかを、好き嫌いや趣味嗜好ではなく、初任給の額面や家賃補助の金額、社内への福利厚生、女性の管理職割合、障害者への福祉制度、SDG・CSR活動の企業レポートを読みながら判断し、OB訪問で口のいい話を聞くのが良いらしいじゃないか。

時折リアルそうな話を混ぜ込んで、感情的に「やっぱりね。この時期にこうやってOB訪問に来れる行動力があるだけ。〇〇さんは違うと思うよ。ESも早めに添削してあげるから出してみたら」と言ってくる“今はもっとカンニングが楽になったSPFテスト”をやり続ける企業が大多数なことに“何の疑問も抱いていない社会人の先輩”に唆され、「よかった。大手中堅に受かったけど、やっぱり自分のマインドと情熱が捧げられるのはこのベンチャーだから。ここで頑張る」「ベンチャーに内定が決まったから、とりあえず今はインターンをしながら、ちゃんと副業でフリーランスとして自立していけるように頑張るんだ」と行って〇〇@〇〇株式会社新人広報、『趣味:サウナと日本酒、〇〇大学出身、もともとチアリーダー部でした、DMと1on1はいつでも待ってます』というBIOを書きながら、Xという大海に身を委ねて、インプ稼ぎするのがいいらしいじゃないか。

比較的優秀でガッツがあり、やりがい搾取をされることを厭わない学生労働力の候補者をかき集めるための鴨になるのがいいらしいじゃないか。ただの雑用を『インターン』と呼ぶのが、流行っているらしいじゃないか。なんでもかんでも『マーケティング』と呼ぶのがかっこいいらしいじゃないか。

それも一種の幸せだと思う。思いたい。お願いだ、思わせてくれ。

だって、それを幸せだと是認できない私は多分ひねくれているし、この『多様性の時代』に幸せや自己決定のあり方を、他人にあれやこれやいうことは私の趣味ではない。

ただ、よく聞く「〇〇社の経営理念にすごく強く共感しているんです」という学生の言葉の裏には、強い宗教性を感じざるを得ない。自身の人生や経験やスキルを双方向的に考えた時に、企業のミッションビジョンバリューに真剣に共感できる人間が何割程度いるのだろう。そして、どうやって共感させられるように、その言葉らが作られたのかを、彼らは知っているのだろうか、余計に皮肉なものである。その『学生ら』は『MVV策定という名前で、“事業を加速させる社内理念プランニング”』のようなものを、若めの起業家がリファラル営業を駆使して、『コンサルティング』という事業名で受注をとっているところを見ているのだろうか。

創造者と模倣者をひとまとめにクリエイターって呼ぶなよ

今宵の私は39度弱、の高熱に魘されている。わざわざ『Uber 薬局』と調べて、自分の最寄り駅に位置してすらない薬局商品郵送対応のコンビニを調べ、そこから泣けなしであまりにも効力のないバファリンと2500円の体温計と大きな二Lの水三本を買ったのに、そのあまりにも高価だったスペックの低い体温計を、ベッド上でも家の隅々まで探しても、もう見つけられなくなった。

私の整理整頓性のなさ、いわゆるADHDの強さが何らかの呪いとなって、この皮肉かつ大多数の同級生を敵に回すような文章を今、わざわざ五時九分の朝に録音させている。

私だって、こんなにも活字チックな言葉が自分の口からすらすらと出てくることに内心驚いている。一日中、Youtube Shortやインスタグラム、ツイッターで寿司炎上事件について見続け、そろそろ教養もない罵詈荘厳が飛び、どこかしら端々に女性軽視の目線が覗かれるSNSの洞窟を閲覧し続けることをするとさすがに飽きがくる。私は何か別の知的刺激や、この久しぶりに高熱で魘された脳内から私の精神的な救難信号を伝って生みだされている頭痛や関節痛といった痛覚刺激たちに対して、何か大きな変化を加えたいと思っていた。

ふと思い出して。そういえば、私はベッドの上に寝転んでも捲りやすい文庫本をたくさん買ったはずだと思い、自分の寝室の目の前にある本棚を久しぶりに開けてみた。が、友達に貸し出し、その友達がまた私の別の友達に返すために持っていっていた本たちばかりで、お気に入りの、おそらく、一軍で、“私が今のタイミングに読むべきだろう本たち”は全て貸し出し中だった。残っていたのは、大森聖子の超歌手と、ピンクと男尊女卑社会や射精責任といった“私が再三実感を持っており、当事者性を最も強く感じている女性性やフェミニズムへの捉え方に関するアンサーついて書いたような本”ばかりで、今のこの高熱の最中に読みたいようなものではなかった。自分の思想がよりマイルドに、クリアに、大衆に伝わりやすいように、別の筆者の語り口で書かれている何百ページもする文章を反駁する気にはなれなかった。かといって、物語性のありそうな本たちのストックを覗いてみると、中学生の時に買ったような、小学生たちが殺し合うサスペンスものや、間違った回答をしたら殺される安直な推理小説などしかなくて、私が純粋に『言葉とはなんたるか』について考えながら、ブルーライトなどの頭痛を悪化させるるであろう何らかの分泌成分から逃れるための本はそこにはなかった。仕方なく『n/a』と題された芥川賞候補で、最近何かの文芸なんちゃら賞を受賞した本を手に取った。半年ぐらい前に購入したものの、冒頭の三ページの文章を見て、これぐらいなら私にも書けるんじゃないかと謎の対抗心を燃やし、そこから先に読み進めることができなかった本だ。ページ数は200ページ弱程度で、そこまで長い本ではない。ハンチバッグを1時間弱で読み切った私にとっては、同じぐらいの時間をかければ読むことができるライトな文芸と言えるだろう。

女子の生理に関して、LGBTQへの配慮に関して、言葉というものがマイノリティというものを一つの枠に押しとどめ、その枠に対して大衆の人々がどのようにセンシティブに接しようとするのか、そのセンシティブ性がいかに当事者や第三者の目線からメタ的に見て加害をしているのかといったことについて語られた、その小説は、案外、興味深かった。

全編を通じて第三者視点で綴られたその本は、いつも私に関することを止めどなく主語で書き続ける私の、エッセイの端くれで、小説にはなり得ない言葉の詰め合わせからしたら、何ランクも上の書物に見えた。ああいいな、こんなに大衆的な表現を多用していても、全ての文章描写が繊細で、リアルでSNSやLGBTQなど現代的な問題に対して多角的に触れていて、素晴らしいライジングスターだという風に評価してもらえるのか、羨ましいな。私も、三人称として扱うに値する『誰か』に関してだったり、自分以外のことについて、流暢に、コンスタントに、何か作品を生み出し続けることができる人間だったら。もしかして、今、手に取ってブルーライトから逃走するために、さっきまで読んでいた本の著者ぐらいなら、リプレイスできるかもしれないのに。と、まあそもそもこのようなことを考えてるだけ、かなり傲慢であるが。

ナルシシズムの奴隷で何が悪い

熱に魘され、三十分か四十分に一度血流が悪く、あらゆる首とつく部位が痛む。重度末端冷え性の私は、仕方なく靴下を履くことを決めた。四日か三日前に、ストッキングと共に脱ぎ捨ててベッドの脇に置かれたままだったそのストッキングの内側で、もうくたびれているハイソックスを手に取り、裏返す。最低限の人間的尊厳を保つための行為すらしないままに、その死にかけの靴下を履く。今、私にとって足を温めて、なるべくこの頭痛と発熱を軽減するという目的の達成以外で、私の中の高貴なマナーや、“第三者の目線が介在した時にはいつも気にしてる美的感覚”などは存在していなかった。とりあえず靴下を履き、ベッドに戻りながら氷枕を抱いてみたり、枕やベッド自体を動かしてみたり、毛布と敷き布団の間に何かが挟まっていないだろうかと先ほど無くした体温計に対して様々な探索を試みてみるが、それも虚しく、どこにも見つからなかった。自分が今どれぐらい辛い思いをしているのかということを定量的にすることができなければ、いつこの熱が、どの薬の効果によって、どの程度下がったのかという客観的事実が得られず、ただずっと苦しみ続けるだけ、ゴールがないだけという状態になってしまう。それだけは絶対に嫌だ。

ただ、今ここで体温計を探し続ける体力すらも私にはなかった。おとなしく水を飲もうとしながらベッドに戻り、靴下を履いたばかりのさっきよりは、比較的寒気が軽減された足を布団に入れ込んで、横たわる。徐に水を飲もうとした。その瞬間、横着をして二リットルの天然水(高すぎるウーバーイーツで一本二百五十円もした水)を私は盛大にこぼした。しっかり上体を起こした状態で飲むのではなく、ペットボトル自体を傾けて三分の一程度しか残ってないのだから、おそらく大丈夫だろう、逆流はしないだろうという謎の予見で、ペットボトルを大幅に傾けた結果、“もう二週間は洗濯をしていないあったかいからという理由だけで手放せないユニクロのフリース”と、“周囲が質が悪いといっているのになんとなく適当に買ってしまったFrancFrancの寝具たち”がべとべとになった。

ああ、最悪だ。水を飲むにも、こんなに手こずるのなんて、本当に。先ほどブルーライトが辛かったから本を読み始めたという風に言ったが、その嘘が、自分への虚言が、この意図しなかった水の暴挙によって、顕になってしまった。

事実としては読むのが怖いから。ずっとこう言ってきた。「高校で海外に留学に行ったから、日本語の活字はまともに読んでないんだよね。」「塾で解いた問題とか、新聞とかネットニュースとか、そういうの以外、あんまりしっかり文芸は読まなくなったんだよね」と。

それまでも幼少期からずっと「東野圭吾が一番好きな小説家です」と言いながら図書館に本をとりあえず沢山借りたという記録を残し、本の後ろに、たくさん署名を書き込むことが何らかの優越感に当たると勘違いしていた。私は「被害者の警護は実は阪大出身だから、理系のトリックや殺人方法をよく思いつくし、それを実際、自分で小さな模型で検証したりしているそうだよ。」なんていう文芸業界の人であれば、おそらくみんな知っているだろうことを、あたかもニッチな蘊蓄のように語ったり、自分の学校に通っているサブバックが図書館から借りた、やたらでかい本でパンパンになり、「どうしたの?その荷物」「いや、本借りたんだよね。週末に全部読もうと思って」と借りたはずなのに、半分しか読まない本たちを自分のアイデンティティであるかのように丁重に持ち帰っていた。その頃のいきった若気の至りとしか言えないような読書に対する私の執着や、読書をする女でありたいという願望が、私の今のなけなしの語彙力や文章、表現の基礎を支えていた。

アンチ・多様性社会の自己肯定

元々、小学校の頃から作文はうまかった。「思ってもないことを思ってるかのように書くのがすごくうまいんだよね」と小学生の頃から周囲にそれがあったかも自慢であるかのように言っていた。象が死んで、動物園でその死んだ象に対して涙を流す主人公の気持ちを、全く会ったこともない家庭でのエピソードに重ねながら、小学生にしては若干大人びた口調で心情を語る。そうすれば、最優秀賞はもらえないものの、ひねくれた少し面白い読書感想文ということに対し、優秀賞はもらえる。もちろん、三年連続優秀賞をもらったことを私は、今でも大層誇りに思っている。

正直、小論文講師として今、生計を立てられていることよりも、三年連続で後から母校においてはなくなった作文コンクールでの実績の方が、鼻が高い。

『みんなの作文はみんな大事だから、評価するのは良くない』という『かけっこをやめましょうね』的なクソルールに従い、社会的な“コンプライアンス”の目線に迎合して亡くなった、“私の大好きだった、語り継がれていくはずだった作文コンクール”がなくなったことをすごく根に持っているし、その作文コンクールで三年連続入賞したことは、私が“文章を書くに値する人間として生まれてきたのだと信じ込めるための小さな小さな自尊心”をギリギリ保たせる、いつもの最後の感情の防波堤だ。

そうやって「読書を最近してないんだよね」と言いながら、「そんなにも本を読んでいないのに、こんな文章表現を思いつく。京香さんはすごい」だったりとか、「こんなに色々な語彙力が備わってる大学生はなかなかいない。君は言語化がうまいんだね」って言われて仕事をもらったりとか、そういうことをかなり鼻にかけていた。でも私は知っている。いい文章をこれ以上、今の自分の知能で読んでしまったら、私は抱えきれない。こんなにも自分とは一線を隠す才能で、芸術を生み出し続け、それにお金という対価をもらい続ける彼らの足元にも、私は及ばない。真のアーティストとは、頭がいいことや、作品をうまく書けることや、面白くキャッチーな作品を書くことだけではなく、『それを書き続け、それで生計を立てて、それが自分の評価の主軸に、自分という人間の世間からの評価の主軸になることに、腹を決めた人間であること』だと思う。私には、そんな覚悟なんて毛頭ない。

ちょっと文章がうまくて、それが本業に何かしらいい影響を与えている二十歳の女。それ以上でもそれ以下でもないのに。今も、自分がこうやって口から出している言葉の履歴を後から書き起こし、書き起こした文章を見て、「まあ悪くない」と、誰かと比べてるのか分からないけども、中央値的な二十歳の女が書くノートや、そこら辺のSNSにポロポロと落ちている文章と勝手に自分の中で自著を比べて、「うん、中央値よりはかなり高い水準だよね」と納得する作業を、またやろうとしている。

ただ生憎、今日はこういった気色の悪いナルシズムの象徴としか言えないようなこの行為を正当化できる理由を、ただ一つだけ有している。

だって、高熱なんだもの。39度だもん。

免罪符、贖罪、禊。なんでもいいけど女を売るな。

“男尊女卑の精神が人になって生まれてきたような、お笑い芸人たち”の品のないいじりやつまらないトークをYoutubeで聞くことや、港区女子(港区って言ってるだけの脱税売春文化の申し子)の整形事情と駐妻の愚痴。そんなことに関してしか流れてこない“私の性格の悪さが詰まったXのタイムライン”を見るよりは、おそらくこういった形で自分の性根の悪さを何かしらの形にして残し、それを振り返るといったことをした方が、何かしらの内省にこれが当たるような気がして、少し免罪されるような気がする。

本当はこの前、“久しぶりに会った一年半以上前に別れたはずの男の顔”は、日本人男の平均値よりも相当に高い、かもしれない、ということに甘んじて雌になりたかった。でもそういう“一回捨てたゴミ”に適当な慢心で会ったせいで、インフルエンザになった気がする。私の持っている大いなる豪運と幸福が、全てあいつに吸い取られ、この体調不良を引き起こした。そうに違いない。歌舞伎で女の精神を吸い取って、女を馬鹿にして、女を堕落させ、女からかき集めた金で身の丈に合わないハイブランドを買い、そのハイブランドを、着飾った女どもが男の商品価値の賜物だと思い、また金を落とす。そういう最悪な歌舞伎町経済圏に属している奴は、絶対に、精神的に私を鬱屈な気持ちにさせるという病気だけは常に持っているだろう。いくら性病テストが常時ネガティブだったとしても。

今、自分は“健康という自分で最終最後にコントロールできないもの”に操られて熱に浮かされ、それによって若干感傷的になり、こうして、社会に対する罵詈荘厳と、自分という人間に対して思っている悪どい部分について、文章にするという行為をとっている。それすらも、全て熱のせいだ。そういうことにしておこう。きっとそうだ。私は悪くない。私はきっと悪くない。


「それぐらいの自己肯定感の方がうまく生きていきやすいよ」と、どこかのインフルエンサーが言っていた。でも、ごめん。私は、「私は悪くない」と言わない人を増やし、それによって“心にもっと大きな傷を負う人を減らすため”に働こうとしている。だから、私自身が「私は悪くない。私は熱に浮かされているだけだ。私の女をむき出しにして、自傷するような行動の数々は自分を保護するためのものだ。正当化されるべきだ」という主張は絶対に罷り通ってはいけない。

だからあと一日か二日か三日か、高熱が完治するまでの時間的経過は分からないけれど。しっかりと自分が自分という人間の一部を、誰かに売り払ったことに対する禊を、自分自身に対してさっさと返し終わりたい。

プライドは売っぱらってもいいけれど、女だけは売るな。
女を慈しみ通せ、私。
その方が、きっと、いいもの<文章>が書ける。


fin.(いつのまにか寝落ちてボイレコが止まっていたので)

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