見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(28)2008.12.2

プライマリ・ヘルス・ケア30周年
 - 振り返りと21世紀の新たな課題に向かって(その2)

 

1.PHCをめぐる世界と日本の対比

 前々回の「ひとりごと#26」では、アルマ・アタ宣言から30周年を迎えたプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)の<源流>をめぐって、お話させていただきましたが、今回は、(1)PHC誕生にいたる歴史的な動きの中で、あるキリスト教系NGOが果たした役割、(2)そして保健格差や貧困問題の深刻化という世界全体を悩ます今日の状況のもとで、いかにPHCが見直し・再評価を受け、復興の機運にあるかを書かせていただきます。
「その1」からの繰り返しになりますが、PHCは現代の日本人や日本社会にとっても切実な課題であることを止めません。その意味で、厚生労働行政も、日本医師会も、マスメディアも、プライマリ・ヘルス・ケア30周年の意義深いこの2008年に、21世紀におけるPHCの新たな課題について伝えたり、取り組んだりする意欲や関心が極めて弱いのは、世界の活発な潮流と比べて、情けないというか、あきれることと言えるでしょう。

PHCの立役者 Halfdan T. Mahler(マーラー)WHO事務局長(当時)

 2.PHCを生んだWHOの内部事情とChristian Medical Commission

 2004年11月、アメリカ公衆衛生学会誌(American Journal of Public Health)は、プライマリ・ヘルス・ケアの特集を組み、重要な振り返りの論文(Review Articles)をいくつか掲載しています。その中でとくに私が関心を掻き立てられたのは、Socrates Litsios氏の執筆になる、”The Christian Medical Commission and the Development of the WHO’s Primary Health Care Approach”(キリスト教医療委員会とWHOのPHCアプローチの発展)と題する論文でした。ソクラテス氏は1967年から97年までWHOに在籍して、マラリアを中心とする感染症対策分野で働いてきた人です。彼はマーラー事務局長時代を通し、さらにはそれ以前からWHO本部の内部事情に非常に詳しい人であったと言えます。その彼が言うには、1973年7月にマーラー氏がWHO事務局長に就任したことをきっかけに、途上国の医療保健問題に長年取り組んできた、あるキリスト教系NGOとWHOとの間に戦略的な同盟関係が生まれ、78年のアルマ・アタ宣言に向かう流れが決定的に形成されたというのです。そのNGOこそが、The Christian Medical Commission(CMC)です。CMCに行く前に、もう少し当時のWHO内部のダイナミックスについて触れておきます。

 WHOの中で、もともとマーラーさんは、結核対策など感染症分野で活躍してきた人でした。もう一人、WHOによるPHC政策形成の立役者と言える、Kenneth N. Newell氏もまた感染症疫学の専門家として出発し、のち保健人材養成やコミュニケーション部門の責任者となっていきます。1950年代を通して、アメリカとWHOの音頭取りのもと、世界中で取り組まれてきたマラリア対策は、(1)病原体の媒介動物である蚊に対するDDT散布と、(2)クロロキンを中心とする抗マラリア薬治療を2つの柱にして、病気の征服(Eradication)を目指したものでしたが、DDTによる環境・生態系汚染や、蚊やマラリア原虫の薬剤耐性化によって失敗していきます。たぶん、そうした感染症対策の行き詰まりの中で、新しい途上国の保健医療政策が求められてきたと言えます。つまり、WHOにおいて、1970年代にPHCのヴィジョンや政策を形づくっていく人々は、途上国の何億もの人々が苦しむマラリアや結核などの感染症をなんとか克服しようと、医学的・技術的な解決法を10年20年に渡って試み、どうしてもそれだけでは乗り越えられない壁に突き当たったため、真摯な反省に立って、新しい、革命的な方法を見出したいと願ったように思えるのです。この革命的な理念や方法こそがプライマリ・ヘルス・ケアだったというわけです。

 一方、The Christian Medical Commission (CMC)はキリスト教、とくにプロテスタント系のエキュメニカル(教会統一運動的)な組織である、世界教会協議会(The World Council of Churches)に属する医療者の組織として1968年に発足。世界中の途上国を含め、1200にも及ぶ病院を中心とする医療プロジェクトを長年にわたり手がけてきました。しかし、内部的な評価では、(1)余りに治療偏重で、人々の真の保健ニーズに合致していない。(2)入院患者の半分は予防可能な疾病なのに、予防や教育のための有効な取り組みがなされていない。(3)コスト的にも過大で、持続可能なプロジェクトになっていない、といった反省が生まれてきたと言います。

 こうして、CMCの中で、コミュニティにおける予防や初期治療を重視した全体的アプローチ(Holistic Approach)の活動への見直し・転換が行われ、1960年代後半から70年代前半にかけて、インドネシアやインドやグアテマラなどの国々でのそうした活動の成果が、CMCの機関誌「Contact」に掲載されるようになります。このようなCMCの世界的な動きを鋭敏に察知し、現場を訪れ、こうした活動の指導者をWHO本部に招いたりして、積極的な交流を図ったのが、Newell氏でした。マーラー事務局長の命で彼は1972年に新設された”Division of Strengthening of Health Services”(保健サービス強化部)の部長に就任し、その立場からPHCの構想を現実的なものにしていきます。彼が1975年にまとめた”Health by the People”と題するWHOの出版物は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの9つの途上国での保健活動の具体的な成功事例を紹介したもので、中国の有名な「はだしの医者」(赤脚医生:Bare-foot doctors)という名の農村保健ボランティアの例と並んで、CMCの3つの事例も含んでいます。プライマリ・ヘルス・ケアという言葉自体、1970年に創刊された「Contact」が当時初めて使った用語と言われています。

Contact誌1990年12月エイズ特集号:「教会はどう取り組んでいるの

 余談ですが、ジュネーブにあるWHO本部とCMCの事務所とは歩いていけるくらい互いに近いところにあり、地理的にも密接な関係を作りやすかったようです。いずれにしてもこうしたCMC側の現場での革新的(Innovative)で、住民中心の保健活動がWHOに大きなインスピレーションを与え、アルマ・アタ宣言を導いていったことは間違いないようです。その意味で、CMCの果たした歴史的に重要な役割は、改めて見直されなければならないのでしょう。

 もう一つ、先進国側からのメッセージでPHC形成に大きな影響を与えたと思われるのが、カナダの保健福祉大臣マルク・ラロンド(Marc LaLonde)氏が1974年に発表した、いわゆるラロンド報告(「カナダ国民の健康に関する新しい考え方(A New Perspective on the Health of Canadians)」でした。この報告では、人間の健康を規定する要因として、病院などの提供する医療保健サービス以外に、生物学的(遺伝的)要因、環境要因、そして個人のライフ・スタイルの重要性が指摘され、医療サービスの改善だけを重視する従来のアプローチに対する見直しを促す結果となりました。ラロンド報告は、プライマリ・ヘルス・ケア、さらには1986年のヘルス・プロモーションに関するオタワ憲章の誕生を導くものになったとされます。
 
#26で述べた 、David Wernerがはじめてスペイン語で”Donde No Hay Doctor”(医者のいないところで)を出版してWHOに送った1970年ころ、ジュネーブ本部からは叱責を買ったというエピソードをご紹介しましたが、ちょうどこれは、マーラー体制ができ、CMCとのアライアンス(同盟)のもとで、WHOのPHC戦略が生まれてくる前夜に当たっていたわけです。その意味で、Davidにとっては残念なことであったけれど、彼の仕事の先駆性を当時のWHOが察知できずに拒んだことは、この本の価値に一層の輝きを添えるものになったとも言えます。

3.1980年代以降、逆境に置かれたPHC

 さてこうして生まれた、PHCは残念ながら、幸福な出発・成長を遂げていきませんでした。いくつか不幸な出来事が重なりました。世界の経済成長が1980年代に入ると停滞し、PHCを支えるはずであった国際経済新秩序(New International Economic Order)が、イラン革命を機に起きた第二次石油ショック(1979年)を背景に瓦解し、途上国に極めて不利な状況が生まれたこと。それに伴って、世界銀行やIMF(国際通貨基金)による途上国の経済に対する支配権が大きくなり、構造調整策の名のもとに、「南」の国々の保健や教育予算が大幅に削減されるようになったこと。また、途上国自体の中に、PHCを、貧者のための程度の低い医療を押し付けたもの、といった受け取り方があったこと。さらには、アルマ・アタ宣言の翌年に、ロックフェラー財団を中心に、技術的、医学的な介入による途上国の保健問題解決への強力な影響が入り始め、「New England Journal of Medicine」(ニューイングランド医学雑誌)にJulia Walshらによる「選択的プライマリ・ヘルス・ケア」(Selective Primary Health Care)と題する論文が発表され(NEJM vol.301:p967-974,1979)、”Interim Strategy”(当面の戦略)と形容しつつも、PHCの重大な改変が提唱されました。これを受けて、WHOやUNICEFも、拡大予防接種計画(EPI)、経口補水療法(ORT)、家族計画、母乳栄養促進など、それ自体反対しにくい活動項目に特化した活動が世界的規模で行われるようになっていきます。また、1993年に出された世銀の年次報告書「保健への投資」”Investing in Health”に象徴されるような、経済的な指標・定量的分析に基づく、保健医療政策の方向付けが主流となっていく中で、PHCは本来の輝きと影響力を失っていきます。

4.ミレニアムのPHC再生

しかし、中南米のPAHO(汎アメリカ保健機構)加盟諸国、とくにブラジルやキューバなどの国々ではPHCはしぶとく生き続けます。WHOの地域事務所(Regional Office)という側面をもちつつも、WHOを優に凌ぐ、100年の歴史を有するPAHOは、独自の考え方と戦略を持ってPHCに取り組んできたと思わせるところがあります。キューバは、社会主義という枠の中で、自国民の健康達成と保健人材養成に高い優先順位を置き、アメリカ合衆国による経済封鎖にもかかわらず、途上国におけるPHCのすぐれた役割モデル(Role model)となっていきます。そのことの一端は、アフリカや東ティモールのような国々にまで、保健人材派遣などの協力を大規模に展開してきたり、映画「Sicco」でマイケル・ムーア監督に、USAとの対比でキューバの医療制度が肯定的に取り上げられたりしたことにも現れています。メキシコやニカラグアに依拠した、デビッド・ワーナーたちの保健アドボカシー活動も、PAHO諸国の動きに影響を与えたと思われます。さらに、1997年に本格的に開始されたブラジルでのエイズ治療薬(ARV)の、公共医療政策による無料配布は、自国の製薬技術の高さに対する自信や、WTO(世界貿易機関)のTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)に例外を設けることの道義的正当性を根拠に、多国籍製薬企業と対峙(たいじ)してでも、医療に対する普遍的アクセス(Universal Access)を保障するという、政府の強い姿勢を示し、南ア、タイ、インドなどの途上国をも励まし、同様の動きを引き起こしていくことになりました。これもPAHO諸国に流れるPHCの伝統が生み出したものと言えるでしょう。
 更に2000年の国連ミレニアム・サミットで採択されたMDGs(ミレニアム開発目標)は、2015年までのその達成のためにPHCを必要とする、という認識を世界の国々が共有する中で、PHCの再評価は決定的に加速されていきます。2003年のPAHOの地域会議で出されたBrasilia Declaration(ブラジリア宣言)では、MDGsとPHCとの相互補完の関係が強調されています。
 つい先日発表された2008年のWHOの年次報告書「The World Health Report 2008」は、”Primary Health Care - Now More Than Ever”と題され、医療保健サービスにおける公平性(Equity)やアクセスの普遍性(Universal Access)を達成するため、保健サービス・システムの構築や人材養成の面で、プライマリ・ヘルス・ケアが21世紀に持つ新たな意義を詳述しています。

MDGsとPHCの相互補完性
WHO年次報告書2008年: PHC - Now More Than Ever

こうした、PHCを今日的な地球規模の課題・文脈の中で捉えなおしたWHOの考え方が、どこまで受け入れられ、各国の実際の保健政策に反映され、実現していくのかは、未知のことですが、世界一の速度で高齢化が進み、急速に保健医療制度の質的劣化や財政基盤・持続性が脅かされてきている日本にとって無縁のことではありえません。
 次回では、PHCが日本の地域医療にとって持つ意味や、私自身のささやかな経験などをご報告したいと思います。

(2008年11月29日)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?