見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(23)2007.9.18

君の名はプロヒモ(PROJIMO) 
 -メキシコの地域リハビリテーション(CBR)と今日の課題


1.プロヒモ - CBRの「揺籃(ようらん)の地」に入る 

 9月1日に日本を飛び出して、一種のサバティカル(長期休暇)ないしモラトリアム(執行猶予)を約3ヶ月余りいただき、あちこちの国・地域の保健や医療の実情を視察・学習したり、旧友たちと再会したり、デビッド・ワーナーやバイオエシックスの専門家と話し合ったりする旅行の途次にあります。皮切りは、メキシコ。

 このブログでも、ほかの場所でもこれまで何度となく紹介し、引用させていただいたデビッド・ワーナーの何冊ものすぐれた本の生まれる母胎となったのが、このシエラマドレ山脈西側の、シナロア州を中心に広がる山麓地帯なのです。1964年、当時生物学の青年教師だったデビッドが、メキシコ山地の植生に興味をもち、初めてこの地域を訪れたところ、純朴な村の人たちが、心から親切にもてなしてくれ、しかも日々の生活の大変な困難さの中で、なんとか自分たちの健康の改善に努めている姿に感銘を受け、お手伝いをするようになったと聞きます。両者の出会いがきっかけとなり、後に、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)や地域リハビリテーション(Community-based Rehabilitation:CBR)に関する「世界的古典」と呼ばれるに足る著作が次々と生み出されるようになったというわけです。ここを訪れることは、私にとってある意味で長年の夢でした。それがかなったことについて、連れ合いの美保子さんや、そのほかいろいろお世話になった方々に感謝したいと思います。

 9月3日午後、ロサンジェルス経由で西部メキシコの都市、マサトラン(Mazatlan)の空港に降り立った私を、車椅子に座り、’Toru Honda’と書かれたボードを掲げ、すばらしい笑顔で迎えてくれたのがコンチータ・ララ(Conchita Lala)さんでした。彼女は、プロヒモの中心人物の一人で、デビッドの1998年刊行の本、「Nothing About Us Without Us」(私たちに関わることは、勝手に決めないで)でも、とくに1章が捧げられている人です。彼女のことは後でもっと詳しく触れることになるでしょう。私のなごやかで、のんびりした(スペイン語の勉強の大変だったことを除いて)プロヒモでの2週間は、こうして始まりました。

2.プライマリ・ヘルス・ケア活動としてのピアクスラ、そしてマリアの悲劇

 さて、プロヒモがどのように生まれ、今に至ったかについては、まず、その歴史に深く関わったデビッド自身の本や、彼が長年書き続けてきた、「シエラマドレからの手紙」(Newsletter from the Sierra Madre)に徴してみるのが一番よいでしょう。プロヒモの前身として、PHCのプロジェクトとしてのピアクスラ(Piaxtla)がありました。

 シナロア州を流れるピアクスラという川の名前に因(ちな)んでつけられたプロジェクトが、デビッドたち、‘Gringos’(グリンゴウ=白人ども)の援助で開始されたのは、1965年のことでした。ある村人の家の軒先を借りて、わずかな必須医薬品の箱を備えただけの、ごく小ぢんまりしたヘルス・ポストが、出発点だったようです。それが、何年かのうちに、各村から募った保健ボランティア(promotores de salud)を養成することを通じて、アホヤ(Ajoya)村のクリニックを中心に、15,000平方kmに及ぶ広大な地域を結ぶヘルスポストのネットワークとなり、住民の健康改善を実現していくとともに、まったく新しい学びの仕方、参加型保健教育といわれるものの、世界的なモデルを作っていくことになったのです。

 デビッドの中には、医療の専門家に対する根強い不信感があります。一つには、医療技術の専門家の本能に属することで、自分たちの技術や知識を「神秘化」(mystify)して、患者に対して優位に立ちたい、敬(うやま)われたいという気持ちを捨てられない人種だと彼が思っているらしいこと。(これは相当程度根拠のある申し立てです)。

 もう一つは、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)に関わる問題です。医師を中心とする医療専門家集団は、多くの場合、PHC本来の包括的なアプローチ、あるいは、人びと自身が決定権を持てるような保健や医療の活動のあり方に、否定的な役割を果たしてきたと彼は評価しており、実際そういう歴史的経過・事実があったことです。これには二つの側面があり、一つはいわゆるパターナリズム(温情的家父長主義)の問題、もう一つは医療技術への信仰(あえて過信とは言わないとしも)です。後者については、実例があります。途上国において特に重要ないくつかの病気の中には、下痢や麻疹(はしか)のように、ORS(経口的補水液)の投与や予防接種など、有効と考えられる治療方法の確立しているものがあります。損益分析法を使って、こうした介入方法の経済的効果を比較検討し、疾病管理を中心とした「選択的PHC」を推進する考え方を、早くもアルマ・アタ宣言の翌79年には、WalshとWarrenというアメリカの2人の医学研究者が、ニューイングランド医学雑誌に発表して、一躍脚光を浴びました。その後、WHO、UNICEFもこの考え方に追随していき、世界を巻き込んだEPI(拡大予防接種計画)につながっていったのです。EPIの功罪についてもいろいろ議論がありますが、ここでは触れません。

 実は、Davidのアホヤ診療所ですら当初は、この地域では最も先端的な医療を行っていました。1970年代半ばにおいて、僻地の診療所にしては極めて珍しい、レントゲン設備、心電計、臨床検査の設備まで備えていたのです。彼の呼びかけで、カリフォルニアを中心に、医者のグループの間でも、デビッドたちを支える運動がかなり盛んだったようです。大学病院の専門医師らが入れ替わり立ち代り、セスナ機でこの山岳地域に入って、現地スタッフへの臨床指導、検査、診療などに携わっていたのです。それが、ある悲劇的事件をきっかけに、デビッドの中で何かが決定的に変わったのです。

 マリア・ソッコロ(Maria Socorro)という名の、前年のクリスマスイブに夫を殺されたばかりの若く美しい母親が、小さな男の子を残してアホヤの診療所で、原因不明の病気のため亡くなります。彼女が死ぬまでの間に、たまたま来ていたアメリカ人の医師たちが、それこそ寄ってたかって、当時最新鋭の診断機器と治療技術を駆使して、救おうと努力します。しかし、結果は最悪のものとなります。「最悪」というのは、単に彼女が最新の医学でも助からなかったと言うに止まらず、「マリアは精神を病んでいるとしても、すぐ命を脅かすような内臓疾患は認められず、これ以上クリニックに置くべきでない」という医師団のかたくなな判断の結果、強制退院となり、脇を抱えられ病院の玄関先を一歩踏み出したところで、突然心肺停止となり、自らの汚物にまみれて亡くなるという悲劇を生んだからです。デビッドには一種不吉な予感が働いて、この退院に心から賛成することはできなかったのですが、やむを得ないと思い、医師たちの判断を受け入れます。結果として、患者さんの命の尊厳を守れなかったことについて、彼は強く自身を責めます。医師たちも、良心を持った人たちではあったので、自分たちの判断ミスと不明を深く恥じます。

 先を急がねばなりませんので、このマリアの悲劇についてはこれ以上触れませんが、もっと詳しく知りたい方は、デビッドたちの「HealthWrights」というNGOのサイトで英語の全文をごらんください。この文献は、すべての医師や看護師に、専門職としての驕りを捨て、謙虚に、温かく、注意深く患者さんの訴えに耳を澄ませなさいと忠告してくれる意味で、これ以上はない必読教材ともなっています。
( http://healthwrights.org の‘David Werner Papers’の中にある、
‘What We Learned From Maria:From Newsletter from the Sierra Madre # 10’参照。)

 たぶんマリアの事件もきっかけとなり、それ以降、治療重視の姿勢から、予防や住民本位の教育活動、さらには、土地なし小作民や麻薬栽培・取引、アルコール濫用など、病気の根源にある地域固有の社会問題に対する、政治的な取り組みへと、ピアクスラ・プロジェクトは方向転換していくのでした。

3.ピアクスラからプロヒモへ: PHCからCBRへの発展と試練

 1980年までに、アホヤのクリニックを訪れる患者さんの中に、ポリオ(小児麻痺)、先天性疾患、交通外傷や銃による傷害事件で起きた脊髄損傷の患者さんなどが多く見られるようになり、そうした人びとに対するケアやリハビリ、家族へのカウンセリングなどが待ったなしのニーズとなってきます。またデビッド自身が筋萎縮症という障害を負っていたことも、こうした問題への関心や取り組みをより深めたとも言えるでしょう。いずれにしても、1981年に、同じアホヤ村の中に、ピアクスラの「姉妹プロジェクト」として地域リハビリテーション(CBR)、プロヒモ(PROJIMO)が誕生するのです。PROJIMOは、‘Programa de Rehabilitacion Organisado por Jovenes Incapacitados de Mexico Occidantal’の略で、「西部メキシコの若者たちにより組織されたリハビリテーション・プログラム」ということになります。実際、このプログラムは、自身がプロヒモを頼って、リハビリに訪れた障害を負う若者たちが、ここで習得した技術を生かして、また仲間に励まされて死や絶望の淵から立ち直って、後から来る者たちのために役立ちたいと思うところから始まったとも言えそうです。また、デビッドは、保健ボランティアの中にも障害者がかなりいて、彼らの方が、病人の気持ちをよく理解し、寄り添ってあげる能力が高いということが分かったと、語っています。プロヒモは必ずしも、若者や子どもだけのためのプログラムではなかったのですが、患者のニーズとしては、こうした人たちへのリハビリテーション、職業訓練、カウンセリングが圧倒的に多かったのも事実です。一つには、当時、メキシコの山村僻地では、ポリオがまだまだ非常な猛威をふるっていたこと。そして、麻薬栽培・トラフィッキング(密売買)に伴う、銃撃事件で犠牲となり重い脊髄損傷を負う若者が後を絶たなかったことがあります。プロヒモは、400人以上のこうした脊損患者のケア、リハビリに取り組んできたといいます。これらの患者はしばしば、長い間にわたり家に寝かされているだけで、まったく治療も受けられず、プロヒモを訪れたときには背や尻に巨大な褥創(じょくそう)=「とこずれ」を生じていることも稀でなかったのです。褥創ケアは重視され、デビッドの2冊のCBRのテキストでも、とくに1章が割かれ記述されています。

デビッドによる2冊の地域リハビリテーションの本Disabled Village Children(障害を負った村の子どもたち) (1987年)Nothing About Us Without Us(私たちに関わることを勝手に決めないで) (1988年)

4.プロヒモの現在と支える人々

工房で車椅子製作に励むハイメさん

 ハイメさん: コヨテタンのプロヒモの施設をはじめて目にしたとき、私は、かわいらしい幼稚園に来たような錯覚に捕われました。一つには、コンパウンド(構内)がさほど広くなかったことと、屋外に多く設置された多数のリハビリ用具がカラフルでとても楽しくできていて、幼稚園やちょっとした遊園地の趣(おもむき)がしたからです。しかし、第一印象はそこまでで、実際に中で行われている活動、特に障害者のための装具・移動手段作りの工房を見て、「さすが!」と思わずにはいられませんでした。車椅子など用具作りのリーダーである、ハイメ(Jaime Torres)さんは、銃撃の犠牲になったとかで、下部脊椎損傷による麻痺、さらに骨盤と下肢が癒合して、座位も取れないため、手車付き寝台車(自分で操作できるところが普通のストレッチャーと異なる)に腹ばいになりながら、車椅子を作ったり旋盤を扱ったりしています。彼の面魂といい、日焼けして太く強い両腕、威厳をもった、でも心やさしいものをふんだんに含んだ笑顔に私はすっかり惹き込まれました。彼のことは、1998年に出版された「Nothing About Us Without Us」の‘Intorduction’(p21)でも、若いころの、妻イルマ(Irma)さんと一緒の写真と共に紹介されています。なおこの本は、さきほど紹介した‘HealthWrights’のホームページで、全文ダウンロードすることができます。

苦労の多いプロヒモのお母さん- マリ

マリさん: マリ・ピコス(Mari Picos)さんは文字通り、プロヒモの代表者と言える人で、このプロジェクトが始まった頃の患者さんでもありました。1980年12月、27歳だった彼女は、アメリカで結婚式をあげ、新婚のお披露目で里帰りしている最中に、乗っていた車が転落して脊髄損傷を負い、下半身麻痺となりました。新夫は彼女を見捨て、去っていきました。マリさんは、絶望して何度も死のうと思ったそうですが、プロヒモで、障害を負った子どもたちと接する中で、自分にはこの子らのために大切な役割があると自覚し、たくましいCBRワーカーに成長していきます。夫のアルマンド(Armando)さんはポリオでやはり歩行が困難ですが、両松葉杖で、工房に詰めてハイメさんと一緒にがんばっています。

 プロヒモの実質的なオーナーとして、マリさんが一番いま苦労していることは、やはり財源集めです。25年間支えてきてくれたあるドイツの財団からの援助が2005年で打ち切りとなり、新しい支援団体を探すため努力を続けているそうです。メキシコ政府からの補助を受けるのもなかなか容易ではないとのこと。デビッドとの結びつきは、あくまで、技術的・精神的なサポートで、直接的な財政支援はプロヒモの最初のころから、受けてこなかったと断言していました。デビッドのことを尊敬している様子ですが、彼にそういう意味で依存している様子はまったくありません。プロヒモは装具の値段なども、町の整形外科などで購入するのと比べ半値以下ということで、かなり良心的に運営しているようです。逆に言えば、収入向上になかなか結びつかないのでしょう。私がいる間ずっと泊り込みでリハビリを受けていた、ジョアンナちゃんという脳性まひの女の子と付き添いのお母さんも、やはりお金がなく、ただ同然くらいの費用でケアしてあげているということでした。

コンチータと愛娘エミリイ

コンチータさん: 私が下宿させてもらっている家の主人がコンチータ・ララ(Conchita Lala)さんで、空港にわざわざ迎えに来てくれた人です。彼女は10代の若さで、転落が原因で下半身麻痺になり、何年も家で泣き暮らしていたということです。それがプロヒモに来て、他の障害者たちが互いに助け合いながら、たくましく生きているのを見て、彼女自身、「生き返った」(retuned to life)のでした。今は、マリの右腕として、経理面の責任者になっています。彼女には自慢の美しい2人の娘、18歳のカメリア(Camelia)と13歳のエメリイ(Emily)がいて、今はエメリイだけが、母を支えながら一緒に暮らしています。デビッドの「Nothing About Us Without Us」の42章では、コンチータは、伝統的にマッチョ(男性優位)な価値観が幅を利かしていたメキシコ社会で、女性の権利を広げる上で目覚しい働きをしたと書かれています。42章のタイトル自体、「自立生活の必要と女性解放:コンチータの話」(Need for Independent Living and Women’s liberation: Conchita’s Story)となっています。

 自立生活とか女権拡張と言っても、彼女の場合、社会運動を華々しく行ったということではなく、夫との関係で対等な権利を求め、そのことを近所一帯に隠しもしなかったという、ごく当たり前のことを実践しただけのようなのですが、因習に縛られていた村の女性たちには、そうしたあけっぴろげの人が身近にいたこと自体大きな勇気づけとなったのでしょう。余談ですが、コンチータが飼っている犬のオシートも左の前足が利かなくなって、いつも3本足で走っているかわいい「障害犬」です。ただの犬であっても、コンチータには障害者を選びたい、慈しみたいという気持ちがあふれているように思います。彼女が自分の残飯で犬のごはんを作って、外に向かって呼ぶときの「オシート!」という叫び声には、向こう3町くらい届きそうな底力があります。この声で怒鳴られたら、どんなマッチョな夫でもたいがい降参だろうなと、つくづく感じ入ったことです。

プロヒモのスペイン語の先生 - ヴィッキーとリゴ

ヴィッキーとリゴ: 約2週間のプロヒモ滞在中、私のスペイン語の手ほどきをしてくれたのが、リゴさん(Rigo Dergado Zavala)とヴィッキーさん(Virginia Peraz Gonzalez)さんです。二人ともまだ若く、ヴィッキーは20代後半で、2歳の男の子を育てている障害者。リゴはたぶん30代半ばくらいで13歳の娘がいますが、別れた妻の方に引き取られ州都クリアカンで暮らしています。ヴィッキーが両下肢麻痺になったのは、先天性の病気が原因です。たぶん、骨形成不全症(Osteogenesis Imperfecta)という病気なのだと思うのですが、小さいころから病的骨折を繰り返し、親も本人も大変な思いをしてきたのですが、明るくてとても前向きな性格の人です。彼女ですごいのはただ結婚しただけでなく、医者をはじめ周囲の猛反対を押し切って妊娠、出産したことです。デビッドでさえ、彼女が妊娠したのを知ると、子どもに病気が遺伝したらかわいそうだから、中絶したほうがよい、と強く勧めたそうです。しかし、彼女はがんばって帝王切開で産んでしまった。すると、誕生したカルロス(Carlos)君は、幸いなことに病気は持たないでこの世に出てきてくれたのです。後で、デビッドは、「おろせなんて言ってしまって、本当にごめんね」と心から謝ってくれたそうです。いまカルロスは2歳の元気で利発な子で、だんだんお母さんの手伝いもしてくれるようになってきました。

 リゴは、約10年前、パーテイの帰り道、酒に酔った友人が運転する車に乗っていて、横転。同乗者のうち彼一人だけが重大な障害を負ってしまったのでした。頚椎の5-6番目当たりを骨折したようで、呼吸筋麻痺は来ず、上肢の筋力も弱いけれど、回復しました。しかし、重い後遺症であることに違いはありません。彼の今の望みはもっと娘のそばにいてあげたいということ。でも、別れた妻の保護下にあり、そんなには会えないのだそうです。やさしい彼は、こんなにひどい目にあわせた事故当時の運転手の友人を許したそうです。重大な交通事故では、被害者が申し立てをするだけで、警察が逮捕して、牢屋行きになるのだそうです。「貧乏な男で賠償金も一銭ももらえなかったし、第一いまやつがどこにいるかも知らないんだよ。人生にはあきらめなければいけないことがいっぱいあるな、Toru」

 彼も絶望して死のうと何度も思ったそうですが、自分よりもっと大変なハンデイを負ったハイメが、黙々と障害者のために車椅子や装具を作るのを見て、「オレもくじけているだけではだめだ。ハイメを見習おう。」と考え直したそうです。 

 さて、私のスペイン語の方はどうかですって? ま、2週間ということもありますし、不規則動詞の活用で頭を悩ませたまでで、終わりになってしまいました。しかし、ある大事な成果が一つあったのです。それについては、ロサさんのところで書かせていただきます。

庭掃除に励むアティラーノさん

「庭掃除師」アティラーノさん: プロヒモにはすばらしく人間的でユニークな人が多くいますが、このアティラーノ(Atilano)さんも、その最たる一人と言えそうです。彼もハイメ同様、体幹から下肢にかけてが、何かの疾病か外傷の後遺症で強直化してしまい、褥創その他の原因も加わって、立つことはおろか、座位も取れなくなり、一生、俯(うつむ)いたきりの生活を強いられることになりました。彼の日課は、プロヒモの構内、そして周囲の通りの清掃を、丹念に、丹念におこなうことです。竹箒を使って、ニセアカシアの類の木々から絶え間なく落葉してくるのを、朝と夕方、ゆっくりと掃き集め、燃やしてくれます。屋外の丸テーブルの周りに腰掛けて、スペイン語の先生2人と私がレッスンしていると、邪魔しないように近寄ってきて、私がヘンテコな動詞活用を声にして、落語に出てくる蝦蟇(がまがえる)のように脂汗を流しているのを横目に涼しげに眺め、そば耳を立てながら、手は少しも休めず落ち葉を掃き集めていく。彼はなんだか、哲学者のような風貌をしていて、夕方、ハイメとアティラーノが寝台車を並べて、うつ伏せの姿勢のまま、木陰でのんびり会話しているそばを通りすぎるとき、羨望のようなものまで感じてしまいます。

ロサと一緒に歌の練習をする本田

ロサさん: メキシコに来て一つ目標にしていたことがあります。せっかくスペイン語の初歩を、それこそ「60の手習い」で勉強するなら、なにか歌を覚えたいな、ということでした。昔、ドンキホーテを愛読していて、会田由という人の訳で前編・後編を2度通読しました。「いつかはスペイン語で読めるようになってやるぞ」と若気の至りで、息巻いていたときもあったのですが、それっきり「鳴かず飛ばず」になっていました。今回、「なんとしても1曲スペイン語できちんと歌えるようになるぞ」、と固く決心して(?)日本を飛び出してきました。さて、私が覚えたいと思った歌は、‘Cucurrucucu, Paloma’で、メロデイは以前から知っていたのですが、数年前あるスペイン映画を観たことがきっかけで、この歌にぞっこん魅せられてしまったのです。「海を飛ぶ夢」という日本語の題(原題はMAR ADENTRO)が付いていました。スペインで実際に存在した話で、ある男性が岩場から海に飛び込んだとき、誤って海面下にあった岩に頭を打ち付けて、頚椎損傷による四肢麻痺になってしまう。20年以上、ベッドの上だけで顔以外動かすこともできないまま、人生を送った彼は、最期に尊厳死を選ぶわけです。「海を飛ぶ夢」は恋愛映画にもなっていて、その中で、男性歌手が実に美しいテノールで「ククルククー・パローマー」(パローマーは鳩のこと)を歌うのです。

 映画で効果的に使われているこの歌は実は、メキシコで生まれたのだそうです。歌詞を読むと、失恋した男性が亡くなって、彼の魂は自分の肉体を抜け出して鳩の中に宿り、彼女の家に行って「僕のところへ戻ってきてよ」と、かき口説くように鳴くわけです。ちょうど伊勢物語の「昔、男ありけり」の話にあるような、めめしい(この言い方をすると差別用語だと怒られそうですが)エレジー(哀歌)なのですが、これだけ、マッチョだ、マッチョだといわれているヒスパニックの世界で、逆に「堂々とめめしい」曲が、古典的な人気を保っているというのは、世界中、愛を求める人間の本性があまり変わらないためではないかなどと、妙に納得されてしまうのです。

 さて、この曲は、ロサさん(Rosa Salcido)に手ほどきを受けました。彼女こそ、プロヒモ全体の長年にわたる「マリアさま」だった方で(デビッドの本にも出てきます)、パローマの歌を口ずさんだだけで、彼女はすぐ了解して、模範を示してくれました。私はそれをデジタル・ボイス・レコーダーに録音して、何度も何度も聞き直し、真似て歌うわけです。しまいにヴィキーやリゴまで、私の顔を見ると「♪パローマー♪~」とやり始めます。

 75歳を過ぎた今も、ロサは体の動かない子どもたちの入浴を助けたり、食事の介助をしたり、プロヒモになくてはならない仕事をしてくれています。その上、私の歌の練習まで付き合わされては大変なのですが、「まあ、スペイン語として聞けるようになったわね、Toru」と、早く厄介払いしたいためか最後の日に言ってくれました。Muchas gracias, Rosa!

5.プロヒモの課題と未来

 アーノルド・トインビーではありませんが、どんな組織、国にも、誕生-成長-隆盛-衰退-死といったライフ・サイクルは避けがたいものなのでしょう。NGOもその意味では例外ではないと思います。ピアクスラ、プロヒモについて言うと、デビッド・ワーナーという、紛れもなく卓越した保健教育者・社会運動家が、それぞれのプロジェクトにおいて、PHCとCBRの貴重な実践モデルを作ってくれたことは疑いえません。世界中、とくに途上国の何百何千万人という人たちが、直接・間接を問わず、その恩恵を受けてきました。また、メキシコの地域住民と彼の関係もおおむね、互恵的なものが保たれ、一方が相手を搾取したような関係にはならなかったと思います。

 ただ、現実にプロヒモが今、ある壁に突き当たっていることは間違いありません。アホヤに活動拠点があったときは、もっと活況を呈していたようですし、プロジェクトの担い手も利用者・患者、見学者もずっと多かったと思います。外部的要因、たとえば、暴力、麻薬、NAFTA、メキシコ政府の非協力などが、アホヤでの活動継続に大きな障害を生み出したことは、確かなところでしょう。

 もう一つ指摘しておきたい点があります。クリニックの活動とCBRが一体化していたことは、ある意味で両者を互いに支えあう「強味」だったのだと思うのですが、前者を閉じざるをえなくなり、プロヒモだけになったとき、なにぶんかの力がプロヒモから殺(そ)がれたと推量されます。それと、なんと言っても、中核的にこのプロジェクトを支えてきてくれた人たちが年輪を重ねたということが大きいと思います。たしか、デビッドは1934年生まれで今年、74歳くらいになられるでしょう。「Nothing About Us Without Us」に写真入りで出てくるスタッフは当時皆20代です。それから30年近くがたち、マリもコンチータも老人ではないけれど、あのころの若々しさはだいぶ影を潜めました。だから、世代交代、コヨテタン地域での住民との信頼関係づくり、活動の内容や方向性の再検討など、この輝かしいプロジェクトが再生し、さらに発展していくためには、どうしてもしっかり正面から向き合い、解決していかねばならない課題があるのです。それはプロヒモに限らず、どの組織にも降りかかってくる課題に違いないのですが、プロヒモの名声があまりに赫々(かっかく)たるものであったがゆえに、乗り越えのプロセスは一層試練に満ちたものとならざるをえないのでしょう。

 プロヒモの試練は他人ごとでは決してありません。プロヒモの再生を祈りつつ、シェアにとっても、組織の成長や達成、新しい課題設定、そして世代の交代などは、あせらないとしても着実に進めていく必要があるのだと痛感します。
 さて、私は9月15日、お世話になったプロヒモを辞去して、旧友森川夫妻が待つアメリカ合衆国へ向かいます。
それでは次回の「ひとりごと」まで、Asta pronto!(また近いうちに)
 07.9.15

 (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?