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Dr.本田徹のひとりごと(29)2009.1.9

溶けた鉛と溶けた正義
 ― ガザで起きている悲劇とウリ・アヴネリの叡智


 2009の新年は、おめでとうと言い交わすのも気が引けるほど、試練に満ちた、あるいは、まがまがしい事件から始まってしまいました。日本でも派遣切をされたりして、行き場のなくなった労働者たちのための救護テントが日比谷公園にでき、マスメディアで大きく報じられていたのは、皆さんご存知の通りです。新宿中央公園でも、山谷でも、池袋でも、横浜の寿町でも、ホームレスの人々の越冬支援のための活動が行われ、新宿中央公園での新宿連絡会を中心とする活動には、シェアや訪問看護ステーションコスモスからも多くのボランティアが参加してくれました。都庁の、正月で人気(ひとけ)の絶え、煌々と光輝きながら冷たくそそり立つ豪華高層ビルと、その真下で身を寄せ合い、食べ物や衣類を分かち合って過ごす何百人もの「露宿」(新宿連絡会の笠井和明氏の表現)の人々との対照は、時代の深いアイロニーと断絶のようなものを感じさせずにはいませんでした。

 年末にはガザの封鎖解除を求める署名活動が、アムネスティ・インターナショナル日本、パレスチナ子どものキャンペーン、AYUS(アーユス)、日本YWCA、日本キリスト教協議会などいくつかのNGOの共同の呼びかけで始められ、シェアも賛同団体として名を連ね、多くの方々にご協力いただきました。このキャンペーンは2月末まで継続中ですので、よろしければ、「パレスチナ子どものキャンペーン」のホームページからアクセスして、ご参加ください。

 この、署名活動の一環として、年末に麹町のイスラエル大使館に抗議行動に出かけましたが、300人程度の人々が集まり、封鎖解除の要請書を、大使館の郵便受けに投函するのがやっとでした。オーストラリアのシドニーでは、2万人規模の抗議デモが開かれたと聞きますから、日本の市民のガザの事態への関心や共感は、まだまだ低いのが実情なのでしょう。

 今日、以下に私が引用させていただくのは、イスラエルの平和運動の長老で、Gush Shalom(Israeli Peace Bloc:イスラエル平和連合)の創設者でもある、ウリ・アヴネリ氏の政治コラムです。俗な言い方をすると、イスラエルの良心、現代の預言者エレミヤとも言うべき人です。彼の随筆は辛らつとユーモアと、そして時代を見通す、優れた洞察力に満ちていて、85歳になる今日も毎月1-2本の長文のコラムを発表し続ける、彼の情熱と集中力にはいつも圧倒されています。

パレスチナ入植反対デモのウリ・アヴネリ(2002年)

日本でアヴネリ氏に相当する、傑出した、かつ思想面で共通性のある知識人というと、先日他界された加藤周一氏でしょうか。
彼の率いるGush Shalomは、これもイスラエル国内のすぐれたNGOと言える、PHR(Physicians for Human Rights – Israel)同様、イスラエル社会への批判と、パレスチナ人との共存、連帯を求め、長年にわたり地道な活動を続けてきました。
 2002年に私自身が、パレスチナとイスラエルを旅行したとき、入植反対のデモに参加する機会があり、そのときアヴネリ氏とお会いし、握手をしてもらい、ミーハー的な感激に浸ったことが、彼の温かい手のぬくもりとともに、今も記憶に新鮮です。

Gush Shalomのポスター

ush Shalomは、ポスターの中で、同じ戦争やテロ行為の被害者でも、パレスチナ人の場合は、「戦争死傷者」(Casualties of War)、イスラエル人の場合は「罪なき犠牲者」(Innocent Victims)と、国内メディアの中で表現が使い分けられ、イスラエル人全体のサイキ(意識・精神)に焼き付けられてしまっていることの矛盾を、鋭く衝いています。

ガザ:アトファルナろう学校のシャワ校長と聴覚障害の子どもたち

すでに、死者が700人を超えたとも言われる今回のガザの悲劇の中で、アトファルナ聾(ろう)学校の子どもたちは、いったいどんな思いで過ごしているのだろうか? それを考えるだけでも、いたたまれない気持ちと無力感に襲われます。 

さて、以下にアヴネリ氏の「溶けた鉛」の拙訳を掲載します。これは、パレスチナ子どものキャンペーン事務局長・田中好子さんから依頼されて、4日間かけ必死になって訳したもので、意訳したり、補ったりもしていますが、今回のガザ侵攻の真実に、透徹した光を当てる内容となっています。英文のテキストをお読みになりたい方は、以下のGush Shalomのホームページで閲覧できます。
http://www.avnery-news.co.il/english/index.html

「溶けた鉛」(Molten Lead)は、今回のガザ侵攻軍事作戦のイスラエル政府による正式名称 “Operation Cast Lead”(鋳られた鉛作戦)をもじったもので、この不正義、非人道的な軍事行動は、失敗して、溶けてしまうだろう、という含意があるわけです。では「鋳られた鉛」ってなんでしょうか? それはユダヤ教のお祭り、ちょうどクリスマス時期に行われる「ハヌカー祭」にゆかりのある言葉だそうです。クリスマス直後を狙って始められたこの作戦が、ハヌカー祭りのわらべ歌とつながり、結果的にパレスチナの無辜(むこ)の「わらべ」たちを多数殺傷している悲劇と皮肉のことなど、本文をご参照ください。
   
(2009.1.9)


「溶けた鉛」         
         ウリ・アヴネリ  09年1月3日


   真夜中を過ぎた直後、アルジャジーラのアラビア語テレビ放送がガザの出来事を報道し始めた。突然カメラは上方の暗い夜空に向けられる。画面は漆黒のまま、何も見えない。しかし、確かに聞こえる音がある。飛行機の騒音、あの恐ろしい、威嚇的なエンジンの音。
 
   この瞬間、飛行機の音を聞く、ガザの何十万という子どもたちのことを思わずにはいられない。驚愕のため縮(ちぢ)み上がり、恐怖で体がしびれ、今にも爆弾が投下されるのを待ち構える子ら。
   
「イスラエルは南部の町々をロケット攻撃の脅威から守らねばならない」とイスラエル政府の報道官は説明する。一方、ハマスの報道官は、「パレスチナ人はガザの戦闘員の殺傷に対抗しなければならない」と表明する。

   実際のところ、停戦は破綻したのではない。そもそも、本当の意味の停戦は最初から存在しなかったのだ。ガザにおける停戦はどのようなものであれ、主要な条件として、国境の通行を再開することが満たされねばらない。物資の安定的な流入がなければ、ガザの人々の生活は成り立たない。しかし、通行は数時間ずつがときたま再開されるだけだった。

  150万人の住民に対する、陸路、海路、空路すべてにわたる封鎖は、爆弾を投下したり、ロケットを発射するのとまったく同様の、戦争行為にほかならない。封鎖は、ガザ地区の生活を麻痺させる。大多数の雇用の機会を奪い、何万人もの人々を飢餓の淵に追い込み、ほとんどの病院の機能を停止させ、電気や水の供給を破壊することによって。

  どんな口実によるにせよ、国境の通行禁止を決定したイスラエル当局者は、このような条件下では、真の停戦とは言えないことを了解していた。

  これが主な構図だったと言える。その後、ハマスを駆り立てるための小さな挑発行動が計画された。数ヶ月もの間、停戦によって、ほとんど一発のカサム・ロケットも発射されることもなかった後で、イスラエル軍の一部隊が、「国境壁近くまで伸ばされて来ている一本のトンネルを破壊する目的で」、ガザ地区に派兵された。純粋に軍事的な見地からすれば、イスラエル国境側の壁から攻撃を仕掛ける方が、意味のあることだった。だが、この攻撃のほんとうの目的は、パレスチナ人側に責めを負わせる形で停戦を終わらせるための口実を見つけることだったのだ。実際のところ、そうしたいくつかの小さな作戦行動の結果、ハマスの戦闘員が数名殺害され、ハマスは大々的なロケット攻撃で報復し、驚くなかれ、停戦は破棄され、だれもがハマスを非難することとなった。

   いったい何が攻撃の目的だというのだろうか? ツィピ・リブニ(外相)は、「ガザにおけるハマスの統治を終わらせるためだ」と公言していた。カサム・ロケットはその口実として役立ったに過ぎない。
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  ハマス統治の解体? これはまるで「愚者の進軍」(The March of Folly:アメリカの歴史学者Barbara Tuchmanの同名書。)からひっぱってきた一章のようにすら聞こえるではないか。なんと言っても、ハマスの出発をお膳立てしてやったのはイスラエル政府だったというのは隠れもない事実だからだ。以前私は、Shin-Bet(イスラエル国家諜報機関)の長官Yaakob Periにこれについて尋ねたことがある。彼はなぞをかけるように答えたものだった。「我々がハマスを作ったのではないが、その誕生を邪魔したりもしなかった。」

   何年もの間、イスラエル政府は、パレスチナ占領地でのイスラム復興運動に対して好意的だった。その他のすべての政治運動は厳しく弾圧されたのに、モスクでのイスラム復興運動の活動は容認されていた。その計略は単純でナイーブなものだった。当時、PLOこそがイスラエルにとって主たる敵だった。ヤーセル・アラファトが「時の悪魔」だった。イスラム復興運動はPLOとアラファトに反対を唱えており、その意味でイスラエルの同盟者だった。

   1987年の第一次インティファーダ勃発とともに、イスラム復興運動はみずからを正式にハマスと改称し(ハマスは、アラビア語のイニシャルでイスラム抵抗運動の略)、闘争に参加した。その時ですら、Shin-Betはハマスをほとんど1年間野放しにしていた。一方でファタハのメンバーは、多数が処刑されたり、投獄されていたというのに。1年経ってようやく、アフメド・ヤーシン師(ハマスの創始者・精神的指導者)と彼の仲間も逮捕された。

 それ以降、車のハンドルは切り返される。今度はハマスが「時の悪魔」となり、PLOは多くのイスラエル人にとって、シオニスト組織の一部のようになってしまった。平和を志向するイスラエル政府にとっての論理的帰結は、ファタハ(PLO)指導部への大幅な譲歩、占領の終結、平和条約の締結、パレスチナ国家の建設、1967年境界線へのイスラエルの撤退、パレスチナ難民問題の理性的解決、パレスチナ囚人全員の釈放となるべきはずであった。こうした政策が追求されれば、間違いなく、ハマスの台頭は阻止されただろう。
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  しかし、論理は政治にほとんど何の影響も与えることができない。今述べたようなおことはまったく起こらなかった。それどころか、アラファト「殺害」以後、アリエル・シャロンは、アラファトの跡を継いだマフムド・アッバスについて正直にこうまで語っている。「やつは羽をむしり取られたニワトリ同然だ」と。

   アッバスはほんのわずかな政治的達成も与えられなかった。アメリカの調停によるイスラエル・パレスチナ交渉は、笑い話にすぎない。ファタハの最も正統的な指導者、マルワン・バルグーティは終身刑の判決を受け、下獄した。大量の囚人釈放の代わりに、けちで、侮辱的な釈放の「ジェスチャー」だけが示された。

   アッバスは徹底的に辱められた。ファタハは空っぽの砲弾にしか見えず、アラブ世界で歴史上最も民主的な選挙とされた2006年1月のパレスチナ評議会選挙でも、ハマスが圧倒的な勝利を収めた。イスラエルは、選挙でパレスチナ人に認められた正当政府をボイコットした。その後起きたパレスチナの内部闘争の結果、ハマスはガザの直接統治に乗り出す。そして今や、これらすべての後、イスラエル政府は、ガザにおけるハマス統治の一掃を、血と火と連なる爆煙でやりぬくと決断した。

   今回の戦争の公式名称は、Operation “Cast Lead” (カスト・レッド)、「鋳られた鉛」作戦と言い、ユダヤ教の「ハヌカー」(ユダヤ教の祭り。灯明の祭りとも言う)で使われる玩具(コマ)についてのわらべ歌の歌詞の2語に由来する。しかし、もっと正確には、「選挙向けの戦争」と呼ぶべきだろう。
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   過去においても、選挙戦の最中に軍事行動が取られることはあった。メナへム・ベギン(元首相)は、1981年の選挙の際、イラクの核施設を爆撃した。シモン・ペレス(労働党指導者、現イスラエル大統領)がこれを選挙目当ての「まやかし」だと非難すると、ベギンはその後の政治集会で叫んだものだ。「ユダヤ人同胞よ、私が、選挙に勝つことのために、勇敢なイスラエルの男の子たちを、死地に赴かせたり、もっと悪いことに、<人獣>(アラブ人の蔑称)の虜にさせるために送りこんだりするだろうか?」 ベギンは選挙に勝利した。

   ペレスはベギンではない。1996年の選挙戦では、ペレスがレバノン侵略(怒りのぶどう作戦)を命じた。このときは、イスラエル人皆が、彼は選挙で有利になることをもくろんでいるだけだと確信した。この戦争は失敗し、ペレスは選挙に負け、ベンジャミン・ネタニヤフ(リクード党党首)が権力の座に着いた。

  バラク(現国防相)とリブニ(外相)の二人は、昔ながらのトリックに頼ろうとしている。世論調査によると、今回のガザ侵攻48時間以内に、バラクの率いる労働党の支持率はクネセット(イスラエル国会)の議席5つ分増えたと言う。1議席あたりパレスチナ人の死体80人分に相当するというわけだ。だが、積まれた死体の山の上を歩くのはやさしいことではない。もしイスラエル国民がこの戦争を失敗だと考えたら、彼の成功は、瞬時にして霧散消失してしまう程度のものだ。例えば、ハマスのロケットが相変わらず、Beershebaの町に着弾するとか、地上侵攻がイスラエル軍側の重い人的損失を招くなどのことが起きれば。
 
   軍の攻撃のタイミングは、選挙以外の角度からも細心の検討が加えられた。攻撃はクリスマスの2日後に開始された。つまり、アメリカとヨーロッパの指導者たちが、新年を過ぎるまでの休暇に入ってしまう時期ということだ。この計算は、たとえ、首脳のだれかが戦争を止めたいと思っても、自分の休暇を諦めてまでそうするはずはあるまいというものだ。とすれば、5-6日以上は外からの圧力を受けることなくやりたいようにやれるということだ。
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   もう一つこのタイミングが選ばれた理由は、それが、ジョージ・ブッシュのホワイト・ハウスにおける最後の日々だということだ。この血にまみれた「脳たりん」は、戦争を熱心に支持してくれるに違いないし、実際そうなった。バラク・オバマはまだ就任していないし、彼はガザ攻撃について沈黙を守るのに都合のよい、出来合いの理由をもっている。「合衆国には一時に一人の大統領がいるだけだ」と。しかしこの沈黙は、オバマ大統領の任期にとって、よい前兆になるとは思えない。

  イスラエル国内の基本的な論調は、「2006年の第二次レバノン戦争の過ちを繰り返してはならない」ということに尽きる。このことは、あらゆるニュース番組やトークショーで、絶え間なく、繰り返されている。しかし、この願望は事実をすこしも変えられない。ガザの戦争はまさしく第二次レバノン戦争の<模写>と言える。

   戦略的な考え方は両者全く同じだ、「そこに住む市民に、容赦ない空爆で死と破壊をもたらし、恐怖のどん底に追い込むこと」。このやり方はパイロットになんら危険をもたらさない。パレスチナ人は対空兵器を全くもっていないからだ。そこに働いている計算は、もし、ガザ地区のライフ・ラインを支えるインフラが完全に破壊され、完全な無政府状態が起きれば、住民は立ち上がり、ハマス体制を打倒するだろうというものだ。そうすれば、マフムド・アッバスはイスラエルの戦車に乗ってガザに戻るだろう。
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  レバノンではこの計算はものにならなかった。爆撃を受けた住民は、キリスト教系住民を含め、ヒズボラ(シーア派の政治組織)の後に結集し、ハッサン・ナスラッラー(ヒズボラ議長)は、アラブ世界の英雄となった。同様のことが、今回またガザで起きるだろう。将軍たちは、武器を使用したり、兵隊を動かしたりすることにかけてはスペシャリストだ。しかし、集団心理については何も知らない。

  ガザの封鎖は、一つの住民集団が倒れてしまう前に、彼らをどこまで飢餓に耐えさせ、彼らの生活を地獄に変えることができるかという科学的実験だと、以前私は書いたことがある。この実験は、ヨーロッパとアメリカの寛大な支援によって実行に移された。これまでのところ、それは成功していない。ハマスはより強力になり、カッサム・ロケットの射程はますます伸びている。今回のガザ戦争は、この実験をより暴力的手段によって継続するものだと言える。
 
  イスラエル軍にとって、ガザ地区を再占領する以外、他に選択肢がないというのは本当だろう。そうしないということは、ハマスと合意に達するということであり、まさに、それは政府の方針に反することになるからだ。地上戦が始まれば、すべてはハマスの戦闘員の意志と能力が、いかにイスラエル兵士とぶつかるかということになり、だれもその帰趨は知らない。
 
  日を日に継いで、また夜を夜に継いで、アルジャジーラのアラビア語放送は、残忍な画像を流し続けている。切断された死体の山、地面に置かれた何十という遺体の間を、涙ながらに愛する家人を求め、探し回る遺族。自分の娘の遺体を瓦礫の下から引っ張りだそうとする母親。薬もないのに、なんとか負傷者の命を救おうと努力する医者たち。(アルジャジーラ英語放送は、アラビア語放送に比べ、驚くべき方向転換をしてしまい、「消毒済み」の画像とイスラエル政府のプロパガンダ(宣伝)放送を好きなだけ流している。)

  何百万ものイスラムの人々がこれらの恐るべき画像に見入っている。一枚また一枚、来る日も、また来る日も。これらの画像は彼らの心に永遠に刻み込まれる。おそろしいイスラエル、憎むべきイスラエル、人でなしのイスラエル。丸ごと一世代の憎悪者たち。これは恐るべき代価ではないだろうか。イスラエル国内でこの戦争の結果がすべて忘れ去られたずっと後々まで、われわれが払い続けなければならない代価。
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  実はもう一つこれら何百万の心に刻み込まれるものがある。アラブ指導者たちのみじめで、堕落して、気力を失った姿だ。アラブ人の目には、一つの事実がそそり立つ。「恥辱の壁」だ。

  あんなにひどく苦しんでいる150万人のガザのアラブ人にとって、たった一つ、イスラエルに奪われていない世界との窓は、エジプトとの国境だ。唯一ここからだけ、命を支える食料と、負傷した人を助ける薬が届く。この国境は恐怖のまっ只中で閉じられたままだ。エジプト軍は食料と薬品の通路を閉鎖し、ガザでは外科医たちが、麻酔剤すらない状況で負傷者の手術をしている。

 アラブ世界を通して、端から端まで、ハッサン・ナスラッラー(レバノンのヒズボッラーの指導者)の言葉が木霊(こだま)のように響き渡っている。「エジプトの指導者は、イスラエルの罪業の共犯者だ。彼らは敵・シオニストと共謀して、パレスチナ人を打ちのめそうとしている。」 ナスラッラーは、ムバラク(エジプト大統領)のことだけを意味しているのではない。サウジアラビアの国王からパレスチナ大統領まで含まれる。アラブ世界を貫くデモの波を見、彼らのスローガンを聞いていると、多くのアラブ人にとって彼らの指導者は、せいぜい哀れを催させるだけの存在で、惨めな利敵行為者にさえ見えているようだ。

 このことは、歴史的な結果を生むことになるだろう。アラブ指導者層のうち、世俗的アラブ民族主義の思想に染まった世代の人々、ガマール・アブドゥル=ナセル(故・エジプト大統領)、ハーフェズ・アル・アサド(故・シリア大統領)そしてヤーセル・アラファトらの後継者たちが、すべて舞台から一掃される。アラブの政治空間では、世俗主義亡き後の唯一の生存可能な代替物は、イスラム原理主義の思想だ。

   このガザ戦争は、いわば「壁に書き記された文字」(不吉な災難の兆しの意:ダニエル書5:5参照)となるであろう。イスラエルは世俗的なアラブ民族主義と和平を結ぶ歴史的な機会を失いつつある。明日には、イスラエルは原理主義一色のアラブ世界と向き合い、そこではハマスは千倍にも増殖しているだろう。
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  テルアビブの私のタクシーの運転手は独り言を言っていた。「大臣やクネセットの議員の息子たちを徴兵して、戦闘部隊を作り、真っ先に、来るべきガザへの地上戦に送りこんだらどうなんだ?」





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