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Dr.本田徹のひとりごと(22)2007.8.16

第47回農村医学夏季大学講座若月賞受賞記念講演(07年7月27日)

途上国の医療・日本の医療
 ― <いのち>を支え、はぐくむ働きを求めて


1.途上国ニッポンでの原体験 
  ―人の<いのち>の大切さに途上国、先進国の差はない

 若月俊一先生が、佐久病院に赴任された昭和20年(1945)から、昭和30年にいたる敗戦後10年間ほどの日本は、経済的に見ても、さまざまな保健指標から判断しても、「途上国ニッポン」と言ってよい状態だった。この認識を私は、強い実感として持ち続けてきた。1947年生まれの私は、5歳ころ幼稚園で「はしか」をもらい、当時乳児だった弟に移し、自分は回復しながら、弟は麻疹肺炎を起こし、治療の効なく亡くなった。父が文机に面して座り、家人に背中を向けて、はげしく嗚咽するのを見たのは、後にも先にも、この弟の死のときだけである。幼いながらに深い喪失感と自責の念をもったことを鮮明に記憶している。また、同じ頃、<いのち>を脅かすほどのことではないが、口いっぱいの回虫の塊を吐き出し、びっくりした母に医者に連れて行かれ、サントニンという駆虫薬を飲まされたこともある。途上国でいま起きている現実は、フラッシュバックされたかつての日本の姿に重なる。人の<いのち>の大切さ、かけがえのなさには、先進国であろうと、途上国であろうと、差があってはならないはずだが、現実にはおおありだ。こうした現状をどう変えるべく、考え、行動していくかということが、医療者である私たちに、重い問いかけ・課題として突きつけられている。

2.医者になったころ

 私が大学の医学部に入った1960年代の後半には、学園紛争が燃え盛っていた。ある意味では価値紊乱の時代であった。馬術部に属していたこともあり、政治運動に参加することはなかったが、医局制度や博士号など、医学部の抱える構造的矛盾といったことに無関心ではいられなかった。

 卒業後、2年ほどは小児科研修医として北海道の地域医療を勉強させていただいた。その後、大学に戻って臨床をきわめたり、研究者の道を歩むという気持ちになれなかったのは、その能力がないことに気づいたこともあるが、負け惜しみを言えば、大学紛争がなんであったのかを、冷静に洞察・分析し、次代に生かそうという姿勢が大学側に見られなかったことに失望した面もあった。

 その頃、慶応大学の小此木啓吾教授の書いた「モラトリアム人間の時代」という本が広く読まれていて、私も一読して、「封鎖された学園の医学生」とか、「研修先のあてが見つからない青二才医者」といった、当時自分が置かれていた宙ぶらりんの状況や心理をうまく言い当てられていると、脱帽せざるを得なかった。モラトリアム人間はもろく、自己決定の勇気がもてず、先延ばしするが、しかし、なんらかの表現困難な動機が内的に存在しているとすれば、その声に耳を澄ますしかない。私の場合は、異文化の環境に身をおいて臨床をすることで、自分という人間を確かめ、鍛えたかったように思う。

3.青年海外協力隊員として途上国へ赴任する
  ― プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)ことはじめ

チュニジア(1978):島の診療所への出張活動

 1976年、上京し、社会保険中央総合病院で内科の研修をしつつ、青年海外協力隊員としてチュニジアに派遣される準備をすることとなった。同国では、人口8万人の島の病院に派遣され、小児医療に専心した。新生児疾患、栄養失調、下痢・脱水症、麻疹・肺炎・化膿性髄膜炎・寄生虫症といった感染症など、幅広い病気の小児患者を入院ベースで治療し、島のいくつもの診療所を巡回し、母子保健センター(PMI)で予防接種や若干の保健教育的活動に従事するのは、とてもやり甲斐のある仕事だった。職場の仲間や友人にも恵まれた2年間だった。ちょうど、私がチュニジアにいた1978年に、当時のソ連邦カザフ共和国の首都アルマ・アタで、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)に関する世界宣言が出され、フランス語の新聞でも大きく紹介され、知ることとなった。住民の自主と参加を基礎に、保健サービスについての新しい理念と方法を提示したものだが、1950-70年代までの、世界のさまざまな国での現場経験を集積し、開発論や人権思想で裏打ちしたものとも言え、途上国の第一線で働く者には、きわめて納得のいく考え方だった。

4.若月先生に手紙を書き、佐久病院の門を叩く

 2年余のチュニジアでの任期をそろそろ終えるころになって、帰国後の自分の進路を考えざるを得なくなった。私の中では、自然と、「村で病気とたたかう」(岩波新書)の著者・若月俊一先生のことが思い浮かんだ。この本はチュニジアにも持参し、大きな啓発を受けていた。そもそもPHCなどという理念が生まれる前の時代のことではあるが、若月先生が実践されてきたことは、まさしく日本という国の農村地域におけるPHC運動にほかならない。せっかく途上国で学んだことを、生かせるとすれば、佐久病院が最高の場所であろう。私は、チュニジアから若月先生宛てに長文の手紙を書き、「一匹狼の医者を拾っていただけるでしょうか」と、お伺いを立てた。帰国すると、病院から連絡があり、面接に来るようにとのことであった。結局、内科の医師として面倒を見ていただくこととなり、連れ合いと一緒に臼田駅に降り立ったのは1979年の7月のことだったと思う。

 佐久病院では、消化器を中心に研修をさせていただいた。暗視下で重いプロテクターを着て、午前中毎日10人近い患者さんの胃バリウム検査するのは、体力勝負とも言えた。厳しさの中に思いやりを深く湛えていらした、寺島重信先生から手ほどきを受けた、内視鏡検査のことなど、忘れがたい思い出である。当時、エコーやCTを使った「画像診断法」が、臨床の分野に本格的に導入された頃で、腹部エコー検査の実施と読影に不可欠な「Couinaudの肝区域」の勉強会などを、弓野明彦先生らと活発に始めたりもした。この歴史的な文献はフランス語で書かれていたので、チュニジア仕込みの私の下手なフランス語でも、すこしは役立った。

 佐久では、健診活動や南相木村への往診にも加わらせていただき、貴重な経験を積んだ。健診内容の質や精度が向上することと、住民の参加意識や主体性を引き出すこととの間にある乖離、もっと言えば二律背反のようなものを、どう埋め、解決していくのかということは、当時も今もきっと重要な課題になっていることと思う。そのことには若月先生ご自身が、「村で病気とたたかう」の中できちんと批判的に振り返っておられ、今読み返してもその慧眼と率直さに打たれる。

 80年代に入り、インドシナ難民の問題が持ち上がり、佐久からも後年芥川賞作家となる南木佳士先生が派遣されたり、東京を中心にNGOの活動が活発化したりしていった。私自身は、治療家としての選択肢を広げたいという気持ちを抑えがたくなり、4年間お世話になった佐久病院を辞し、当時、医師としては鍼灸治療の第一人者であった、故・代田文彦先生(後に日産厚生会玉川病院副院長、東京女子医科大学付属東洋医学研究所教授)を頼って上京した。

5.NGOの世界に入る ― インドシナ難民とJVC、SHARE

 東京では、勤務医と鍼灸の見習いをする一方、JVC(日本国際ボランティアセンター)の活動者たちと出会い、たちまち意気投合し、その熱気の渦に巻き込まれていく。JVCに集うボランティアの中には、映画「キリング・フィールド」で有名になったカオイダン難民キャンプのICRC(赤十字国際委員会)の病院で働いたり、私のように協力隊で活動してきた、途上国好きの医療関係者が多く、仲間の輪が広がった。そうした連中が中心になり、市民の方々や学生たちの協力もいただき、JVC内部の途上国医療勉強会グループとして、シェアは立ち上がった。SHAREという名前は当時JVCの事務局長だった星野昌子さん(現・2008年G8サミットNGOフォーラム代表)が付けてくださった。

 シェアにとって、「市民による活動」というコンセプトは大切だった。ブルジョア革命やルソーをもたなかった日本人には、市民はいつまで経っても「よそ行き」の言葉だが、自立した個人としての市民が援助や開発の行動に参加するという精神は、NGOの重要な原則と思われた。

6.SHAREの人間として海外のプロジェクトを手がける

1)エチオピアへ

エチオピア(1985): 重度の栄養失調児

 1984年、エチオピアに大旱魃(かんばつ)が起き、BBCの報道をきっかけに世界中に現地の悲惨な状況が伝えられた。JVCとSHAREは合同の調査チームを派遣し、北部のウオロ州(当時)で、緊急医療救援活動を開始する。1年間で、5万人を越える被災民に医療サービスを提供し、5000人余りの入院患者を治療した。(詳細は「JVCアジバール病院」(連合出版)参照)

 ただ、旱魃・飢餓という緊急事態が終息したとしても、もともと地域にあった、感染症、栄養失調、母親の周産期疾患などの深刻な保健問題は解決しないままである。結局、住民がPHC的な課題に主体的に取り組めるような条件を作り出さない限り、外からの援助の限界も明らかであった。

2)カンボジア

カンボジア(2000ころ):伝統的産婆(TBA)トレーニング

 その後、シェアは1988年から、再びJVCと共同して、当時、西側のODA(政府開発援助)を完全に絶たれていた、社会主義政権下のカンボジア国内に入り、母子保健活動を開始した。1990年以降は、農村地域の郡部を担当し、そこでの包括的な地域保健システムの構築や保健人材の育成などの活動に重点を移し、現在に至っている。

3)タイ:PHCからHIV/AIDSへ

タイ東北部(2005):HIV陽性者自身による訪問服薬指導。服薬が必要なのはエイズ遺児で、保護者である祖父に指導を行う。

タイでは、1990年から、東北部(イサン)に入り、当初は、下痢予防を住民参加型の教育活動として行い、94年以降、タイで深刻になったHIV/AIDSの課題に、農村地域で取り組んでいる。タイのエイズ・プロジェクトは、1990年代には予防啓発、差別や偏見の軽減といったアプローチが中心だった。そのニーズがもうなくなったというわけではないが、近年HIVの新規感染にブレーキがかかり、逆にAIDS発症者や母子感染が深刻化し、ARVコピー薬(抗HIVジェネリック薬)が現地の保険制度の枠で投与可能になってきた。これに伴い、トレーニングを受けた陽性者自身による服薬支援、つまり、ピア(Peer=同輩・仲間)・カウンセリング&サポートといった活動が重要になるなど、プライオリティ(優先順位)も変化しつつある。
写真:タイ東北部(2005):HIV陽性者自身による訪問服薬指導。服薬が必要なのはエイズ遺児で、保護者である祖父に指導を行う。
  
4)東ティモールでの活動開始

東ティモール(2002):保健教育教材(フリップ・チャート)「マラリア」

 東ティモールでは、1999年8月のインドネシアからの分離・独立を問う住民投票以後、騒乱が急速に激化、民兵組織やインドネシア軍による焦土作戦のため、全国の70-80%にも及ぶ家屋が焼失し、20万人以上の住民が、一時西ティモールなどに難民化する事態となった。シェアは、1999年の10月より救援に入り、PARC(アジア太平洋資料センター)などの協力を得ながら、地元のバイロピテ診療所の活動を支援する形で活動を開始。2000年からは、活動地を人口10万人ほどの山間部エルメラ県に定め、主としてPHC分野、とくに保健教育活動に力を入れている。JICAの財政支援を得て、シェアが2002年に独自に開発した保健教育用のフリップ・チャート(絵の裏に簡明な言葉で説明を加え、紙芝居形式で住民教育を行うための視覚教材)は、現地語のテトゥン語版、ついでポルトガル語版が作られ、地域で働く保健ワーカーや小学校の先生たち、他のNGOスタッフなどに幅広く利用され、国全体のモデルとなるものとして評価された。フリップ・チャートで取り上げられる保健テーマは13あり、マラリア、栄養失調、予防接種、寄生虫病、下痢など住民にとって身近なものばかりだが、改訂がすこしずつ加えられている。

東ティモール(2002):駆虫薬メベンダゾールに退治される回虫たち。一匹は本田

フリップフリップ・チャート以外に、東ティモールでの保健教育に欠かせないツールにロールプレイ(寸劇)があるが、その出し物の一つとして、若月先生の芝居の脚本「はらいた」などから翻案させていただき、東ティモール風にアレンジした回虫劇がある。2002年に私がもっていったが、今ではエルメラ県内の小学校などで、かなりポピュラーな出し物になっていると聞く。戦後間もない頃の、日本の農村を舞台にした若月先生の創作が、こんな形で生き続けていることを、すこし誇らしく思う。

5)南アフリカ 
 2005年から、シェアはJVCと再び共同して、南部アフリカ地域最大の保健問題であるとともに社会問題ともなっている、HIV/AIDSに取り組むため、現地のNGOと協力して、感染者・患者支援と、予防・啓発活動を行っている。成人人口の17%、計530万人がHIV感染者という、人口が20倍のインドと並ぶほどの数の感染者を抱える南アフリカの状況は、アジアに比して、さらに厳しいものがある。とくに、両親がエイズで治療も受けられないまま次々と亡くなっていき、死別した孤児たちの生活や教育を、だれがどのようにして、コミュニティで支えていくかという課題は果てしなく大きい。

7.在日外国人医療や野宿者医療に取り組む

 シェアは創立後間もない1984年から、山谷にあるNPO山友会の運営する完全無料診療所・山友クリニックの要請を受けて、医療ボランティアを派遣するなどの協力を行ってきた。高齢化が進むなかで、山谷や横浜の寿町など寄せ場と言われる地域に住む人々の医療・福祉ニーズも複雑・多様化している。また、これまでのように寄せ場だけでなく、近年の就労状況の悪化の中で、比較的若年層の人びとが新宿周辺などの路上に追いやられるケースも多い。2002年からの、ホームレス自立支援法の施行以来、東京都も地域生活移行支援事業に積極的に取り組むようになり、路上の炊き出しなどに訪れる人の数は低減傾向にある。一方で、結核やアルコール関連疾患、精神疾患など治療やケアが必要な人びとの、医療アクセスが確保できず、路上健康相談会などで重症の患者を発見し、救急車要請をしても、受け入れ先の医療機関が2時間以上決まらないなど、救急医療という面でも放置できない問題が深刻化している。結核研究所所長の石川信克先生のお話でも、野宿のまま不審死を遂げた方の司法解剖をしたら、途上国でも見かけないような、両肺が空洞だらけの恐るべき結核に侵されていたといった事例が判明することも、時にあるという。基本的人権としての医療へのアクセスをこの人たちから奪うことは、ひいては公衆衛生学的に言っても、国民にとって不利な状況を生むことになる。

訪問看護ステーション・コスモスのスタッフによる路上健康相談会。

 山谷には「訪問看護ステーション・コスモス」、新宿には「新宿連絡会」など、野宿の問題に対してすぐれた働きをしているNPOもあり、それらとの連携を図りながら、国際NGOとしての立場や視点から役立てることを、シェアは今後とも、謙虚に着実に継続していきたい。
写真:訪問看護ステーション・コスモスのスタッフによる路上健康相談会。

 2005年にシェアは、「日本でできる国際協力―在日外国人と歩んだ10年」という活動報告集をまとめた。シェアが在日外国人の医療相談事業を開始したのは、実際は1991年からで、15年の活動実績となる。当初、現副代表の沢田貴志医師らが中心となってささやかな規模で維持されてきたが、この10年ほどは、横浜の港町診療所、神奈川県や東京都などの行政機関、結核予防会、キリスト教会や労働組合などとの連携・協力関係が進み、胸部レントゲン検診を含む月1回ペースの、かなり確立された事業となってきている。確実に言えることは、シェアにとって在日外国人医療・保健への取り組みは、港町診療所なしには語れないということである。もともと、オーバーステイを含む移住労働者に対する、人権と医療の両面での優れた視点と行動で、日本の医療者の役割モデルとなってきたのは、天明佳臣先生らを中心とする港町診療所であった。シェアの在日外国人活動の中心となってきた医師のうち、沢田医師(現港町診療所長)以外にも、理事の大脇甲哉、仁科晴弘、そして富田茂、さらに私自身も、港町にかつて籍を置いたか、現在も働いている者ばかりであり、皆が天明先生の感化を蒙ってきたと言える。
  
 日本が高齢社会に伴うチャレンジを乗り越え、活力ある多文化共生の社会を創っていくためにも、「美しい国」、アジアの経済大国にふさわしい、より度量ある、秩序立った外国人労働者や難民の受け入れと、医療を含む彼らの基本的人権の尊重が図られねばならない。国際人道法に違反した、取締り、収監、国外強制退去優先の入管政策ばかりが、声高に推進されている現状は、まことに寒心に堪えない。

8.21世紀の医療を展望して ― 当事者主権の世界は作れるか?

デビッド・ワーナー画:当事者主権の共通標語 ‘Nothing about us without us’

 改めて自分の辿ってきた道を振り返ると、さまざまな医師・友人・仲間・看護師・学者などからいただいたものが、私を支え動かしてくれたことに、深い感謝の念を新たにする。
写真:デビッド・ワーナー画:当事者主権の共通標語 ‘Nothing about us without us’

 なかんずく、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)を通して、途上国で得たささやかな体験が、佐久病院の若月俊一先生との出会いとなり、医療を社会運動として捕らえる視点や実践的な知恵をいただいたことは、僥倖と言わざるを得ない。

 ‘Where There Is No Doctor’(医者のいないところで)という、途上国におけるPHC活動の最上のマニュアルとなっている本を著したデビット・ワーナー(David Werner)は、障害者向けの実用的なテキスト、’ Nothing about us without us’(私たちに関わることを、私たちの知らないところで決めないで)という著書も書いている。障害者運動の共通標語となっているこの言葉は、21世紀の地球社会が実現を目指すべき基本的な理念をよく表現してくれていると思う。障害者自立生活センターの日本におけるリーダーとして献身されてきた中西正司さんは、「当事者主権」(岩波新書)という言葉を使われたが、これも精神において、同じことを言っている。

 「当事者」には、問題によっては、障害者だけでなく、高齢者も、ホームレスの人々も、難病患者も、難民も、HIV/AIDSとともに生きる人々も、工場やダムの建設のために父祖の地を追われそうになっている途上国の人々もなりえる。「地球益」といったものを皆が考えながら、これらさまざまな「当事者」たちが不当に差別されたり、割を食うことがなくて済むような世の中にしていくよう、力を合わせてがんばる。

 基本は、すべての人の<いのち>が大切にされるということであろう。このことを、バイオエシックスの日本における優れた紹介者である木村利人教授(恵泉女学園大学長)が、自己決定の尊重と社会的合意に基づく公共政策の形成という説得力ある表現で、語っておられる。木村先生は、かつて若月先生に、アメリカ病院協会が1973年に世界に先駆けて定めた「患者権利章典」を紹介したところ、触発されて、佐久病院のためにも作り、揮毫されたのだよ、と、先日楽しそうに回想していらした。

 若月賞を私のような者がいただけることは、望外の名誉だが、今後も、その負託に応え、地道に働き続けたいと願っている。最後になったが、選考委員会の先生方、そして佐久での研修時代から私を育て、その後も遠くから温かく見守ってくださっていた、夏川周介院長、清水茂文前院長らに篤く感謝申し上げる。

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