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Dr.本田徹のひとりごと(21)2007.8.8

カンボジアへの旅
 ― ゆかりの人びとをめぐるさまざまなお話


写真集「カンボジアの子どもたち」と出版人・八尾正博氏の持続する志

 アフガニスタンから「ひとりごと」をお送りしてから、2ヶ月近くがたってしまいました。その後、個人的なことですが、長年世話になり、敬愛していた義兄が肉腫との1年半に及ぶ闘病の後、亡くなったり、身に余る若月賞をいただく栄誉に恵まれたり、悲しいことや励まされることが重なりました。若月賞は、私がいただいたというより、実感として、シェアの25年近い地道な活動に対する評価と受け止めております。また、改めて、若月先生や受賞のことを書く機会はあると思います。

 今日の「ひとりごと」では、カンボジアをめぐるさまざまな人びとのことをお話させていただくのですが、まず触れたいのが、遠藤俊介「カンボジアの子どもたち」(連合出版)という写真集のことです。この本については、7月25日の朝日新聞「天声人語」にも、心動かされる文が掲載されており、お読みになった方も多いと思います。遠藤さんは実は白血病のため、つい最近亡くなった若者ですが、カンボジアとは切っても切れない縁の、写真家・大石芳野さんのお弟子にも当たる人でした。この写真集のことは、私がいろいろ言うより、とにかくお手にとって、子どもたちの命が輝く一瞬を捉えた彼の優れたスピリットをぜひごらんになってください。それにつけても遠藤さんの早世が惜しまれてなりません。

 写真集の紹介記事と数葉の写真は連合出版のホームページでごらんになれます。
 http://homepage1.nifty.com/rengo/endo.htm

 私がこの本を、「ひとりごと」の冒頭に取り上げたのは、遠藤さんのこととともに、本書を出版にこぎつけた、編集者・八尾正博さんのことを語りたくて、ということがあります。彼とは、私自身、ずっと昔、「文明の十字路から」という、チュニジア紀行の本を出すとき世話になって以来の関係なのですが、それは別として、ポルポト時代の闇を初めて世界に知らしめた古典「カンボジア0(ゼロ)年」に始まり、「NGOが見たカンプチア」、「カンボジア現代史」、「このインドシナ」、今川大使の「カンボジアと日本」、石澤良昭教授の「アンコール・ワットを読む」、そして、ペンセタリン先生の「クメール語入門」など、政治、歴史、外交、文化、語学など、およそこの国に関わることならすべて網羅せんばかりの、驚くほど豊かなカンボジア本ラインアップをもっている本屋さんなのです。持続する志とは、彼のような人のことを言うのですね。まったくもって脱帽のほかありません。このような良心的で意欲ある出版社がきちんと続けていけるような、文化国家日本でありたいと切に思います。

国際協力という仕事で大切なこと

 さて、保健や医療の国際協力(必ずしも、そうした分野に限らないのでしょうが)の仕事にとって、もっとも大切なこと、成功の鍵と言えるのは、相手側(よくカウンターパートと言われますが)との、本当の意味での信頼関係が築けるか、気づきあいの関係といったものを維持・発展させることができるか、によるのだろうということを、この頃とくに痛切に感じます。それができれば、プロジェクトとして半分は成功したとも言えるわけです。これには、私たちNGO側の努力や誠意もさまざまな形で問われます。相手側のニーズがどこにあり、こちらの提供できることがなにであり、どんな価値観と方法をもって協力活動を行ってきた実績があるかを、よく説明する。また、相手側(多くの場合、途上国の地域住民や医療保健行政の責任者)の求めているもの、客観的に置かれている状況などをよく調べ、知っておくこと。要するに、相手を選ぶ過程での注意深さや、互いの立場のちがいを尊重しながら協働していく姿勢が、双方にとって大切なわけです。

 ほかの国でもそうですが、シェアは過去20年間のカンボジアにおいて、郡といった地域での相手側との人間関係・信頼関係作りに関する限り、大変恵まれていたと思います。

2人の郡保健指導者との再会

 この7月にわずか1週間でしたが、昨年に続いてカンボジアを訪問してきました。9年間に及んだ、シェアのコンポンチャム県スレイセントー郡での地域保健協力事業も、今年いっぱいで幕を閉じることになり、郡の保健・医療の責任者の方々に感謝のご挨拶をし、振り返りの話し合いをしてくることが目的の第一でした。第二に、スレイセントー郡のヘルス・センター(公設の診療所)の看護師さんや保健ボランティア、伝統的産婆さんたちともお会いして、率直なお話を伺うこと。第三に、シェアのスタッフに、プライマリ・ヘルス・ケアや<いのち>をめぐる講義・対話を行い、プロジェクトの今後について、話し合いをすること。最後に、前シェア・カンボジア代表の上田美紀さんが幹事役を努める、日本人の医療者ミーテイングで講演会をさせていただくことでした。

おどけて植木の鰐の餌食になるペウさん:シェアカンボジア副代表

 シェアが、1980年代初頭、カンボジア難民救援のため、タイ=カンボジア国境に駆けつけた医療ボランティアたちの思いを結集する形で生まれたのは間違いないところですが、組織的にカンボジアに関わるようになったのは1988年のことでした。これは、日本のNGOとして先駆的にカンボジア国内に入った、熊岡路矢さんをはじめとする、JVC(日本国際ボランティアセンター)の方々の全面的な協力のお蔭でした。88年から90年までは、プノンペン郡(当時)で、母子保健活動を選択的なプライマリ・ヘルス・ケアとして行う、RINE(R=経口補水療法、I=予防接種、N=補助給食・栄養、E=保健教育)という名の全国プログラム(UNICEF主導)に参加。その後、シェアはJVCから独立して、92年からカンダール県のクサイカンダール郡で丸6年間、郡病院、ヘルス・センターの機能強化、人材育成、伝統的産婆などのトレーニングを行ってきました。

ペンリムさんと本田

 この期間を通して、石松義弘医師を中心とするチームが根気強く、すばらしい働きをしてくれました。シェアが去った後も、当時から院長として活躍された、ペンリム医師がなお健在で、今回もお会いしてきました。この郡は、もともと独立心に富んだ地域で、シェアが残したノウハウや施設を生かしながら、優れた地域保健・医療の実践を継続してくれており、非常に心強く感じました。ペンリム先生は、私たちがお世話になっていた頃から、清廉で、私心のない人である一方、病院の庭にマンゴーや胡椒やココナツの木を植え、すこしでも収入向上に役立つような才覚を働かせていました。まだまだ病院も地域も貧しかった当時、シェアに対して、モノやカネをねだるような態度はまったく見られませんでした。シェアがいる間に、いくつかの病棟やヘルス・センターの建設をお手伝いしましたが、それらは今もきちんと機能しており、メインテナンスのよさにも感心させられます。ペンリムさんは、とても明るい、ユーモアのセンスのある人で、今回訪ねたときも、病院の庭の植木をワニだとかニワトリだとかの形にうまく刈り込んでいて、私たちを笑わせてくれました。そして、クサイカンダール病院を訪れると、いつも病院のココナツの木にだれか職員が登ってくれて、おいしい果汁をその場で振舞ってくださるのです。

 1990年か91年にペンリムさんと初めて会ったのは、当時カンダール県保健局長だった故・ニェムニム医師の紹介によるものでした。「クサイカンダール郡病院は、若い院長がやっているが、とても指導力があって、真面目な男だ。彼の病院に協力する形でシェアは活動を開始したらいい。」とニェムニム先生は強く勧めてくれたのでした。その助言はまさに当たっていたと言えます。先生にはその後胃がんが見つかり、1993年、日本に治療に来られましたが、残念ながら手遅れのため手術も受けられず、帰国後、ほどなく永逝されました。ポルポト時代を生き延びた、50名足らずの医師の一人として、カンボジアの地域医療と保健の再生のため、人材育成に晩年を燃やし尽くした彼の人生には、今も大きな畏敬と感謝の念を抱いています。

プラルアさんと本田

 スレイセントー郡の保健局長である、プラルア医師は、ペンリム医師よりも、重厚な風貌で、あまり人を笑わせたりしない人ですが、誠実を絵に描いたような人柄と温かさを感じます。1998年だったかに、石松さんの後、現地代表を務めてくれた功能聡子(こうの・さとこ)さんに連れられて、初めて、プラルアさんにお目にかかって以来のご縁ですが、スレイセントーでシェアが10年近くにもわたり、気持ちよく仕事させていただけたのは、彼の姿勢や人柄によるところが大きかったと思います。

 今回プラルアさんとお話し合いした中で、心に残った彼の言葉は、「1990年代の末、スレイセントー郡保健担当者としても、コミュニティへの働きかけを強化しなければいけないと思っていた矢先だったので、ちょうどいい時期にシェアに入ってもらえた」という感想でした。功能さんや、母子保健専門家として入ってくれた、佐藤真理さん、植木光さんなどの献身的努力もきっかけとなり、郡保健局や病院も、保健ボランティアや伝統的産婆(TBA)など地域の人材を訓練・育成し、かれらへの支援と連携を密に行っていくことの重要性をよく認識してくれるようになったのです。また、短期専門家として出張してくれた、工藤芙美子さんらのトレーニングを通して、年間の計画を立てたり、活動を始める前に、スタッフ間で話し合い、民主的にものごとを決めていく習慣・「作風」も、培われていったようです。半分は社交辞令だったとしても、そうした認識・評価をしてくださったのは、ありがたいことでした。

 シェアもいよいよ今年いっぱいでスレイセントーにお別れして、新たに、ヴェトナム国境のプレイベン県に移り、活動を起こしていくことになります。このため、林さん(保健専門家)、佐藤さん(現地代表)がいま、大車輪でがんばってくれています。プレイベンは、カンボジア国内20数県の中でも、保健指標が下から3番目くらいに悪い地域で、HIVにも移民労働者の健康問題や母子感染という視点から関わる必要があり、シェアにとってはこれまで以上に大きなチャレンジとなることでしょう。

カンボジア医療者勉強会

 今回、私にとってもう一つの課題となったのは、在カンボジア医療者勉強会というところで講演をさせていただくことでした。前シェア・カンボジアの代表だった上田美紀さんが幹事役になっていて、今回私が出張する機会に話を聞こうとお世話係を買ってでてくれたのです。上田さんといえば、彼女がカンボジア人の夫を見つけ結婚をしたとき、私は代理父役でプノンペンに呼ばれたのでした。その後、生まれた「大河」君(当然、メコン河にちなんでつけられた名ですが)が、すっかりいたずらで利発な子どもになっていました。まだ3歳そこそこなのに、クメール語、日本語はもちろん、今はフランス語の幼稚園にも通っていて、相手によって3ヶ国語(もしかしたら英語も?)を、自由に使い分けているのは驚くべきというか、子どもの絶えず発達する脳の可塑性を示しているというべきなのか。ともかく、大河君のような「ワルガキ」(これは母親の美紀さんの言葉です)を見ていると、21世紀も希望なしとしない、大河君のような人間がすくすく育っていける世の中にしなければいけない、と痛感します。

 今回私が選んだタイトルは、「保健協力活動における住民参加と人権・倫理面の配慮  ― NGOにとってのバイオエシックスの意味とは?」という、エライむずかしいものでしたが、要は、シェアのこれまでの活動を振り返りつつ、木村利人先生(恵泉女学園大学長)に教えていただいたことや自分自身が現場で考えてきたことを、話させていただいたのでした。

 講演会の会場を、カンボジア国立母子保健センターに提供していただいたこともあり、国立国際医療センターの小原ひろみ先生たちに一方ならずお世話になりました。この場を借りて、篤くお礼もうしあげます。

 当日、参加してくださった方々の中に、WHOの遠田耕平医師がいました。彼は、シェアの創立のころから、医学生として第三世界に積極的に飛び込んでいく行動派で、ボン・パルタージュの創刊近くの号にも、海外からの文章を寄せてくれているのを最近読み直し、その一貫した態度に頭が下がりました。彼のように、WHOという大きな官僚機構に身を置きながら、草の根のスピリットを忘れないワーカーをもっていることを、この国連組織は誇りとすべきでしょう。

 彼の主宰するサイト「んだんだ劇場」で「カンボジアからの手紙」というブログを読むことができます。最近のカンボジアの医療事情や人びとの暮らしの様子を、秋田人特有のユーモアとねばっこい反骨精神で、生き生きと綴っています。No72「カンボジア女工哀史」では、デング出血熱や、とかく功罪の論じられている、クンタボパ小児病院のことに、鋭く切り込んでいますので、一読をお勧めします。

http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/07/cambodia07.html 

家のキルトの続報

さて、今日も長々の文章になりましたが、最後に、「ひとりごと」(19)でお話させていただいた、カンボジアに渡った「家のキルト」の続報をお伝えしておきます。今年、カンボジアではデング出血熱が猛威を振るい、私が訪問していた時点でも、確か190名以上の子どもが命を落としていました。キルトの寄託先である、シェムリエップのアンコール小児病院も、この病気で次々入院してくる子どもたちの治療に追われているようです。それでも先日、同院の看護師・赤尾和美さんから、やっと病院に展示させてもらいました、と元気なお便りをいただきました。メールに添えられてあった写真がとても素敵なので、ぜひ皆さんにも見ていただきたくて、この「ひとりごと」にお載せすることとしました。

赤尾さんから来たキルトの写真

 カンボジアをめぐる人びとの、さまざまな善意と友情と愛が、このキルトの例のように、また新しい種を撒き、人の輪(和)が広がっていってくれることを祈りつつ、この回の「ひとりごと」を終わらせていただきます。

 (了 07.8.8)

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