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Dr.本田徹のひとりごと(6)2005.5.2

無国籍を生きる -陳天璽さんの「無国籍」(新潮社)を読んで 

日本国籍の確認を求める裁判の判決
 久しぶりでブログに「ひとりごと」を書かせていただきます。今日は「無国籍」のことを考えてみます。

 皆さんの中にも、4月14日付新聞各紙に大きく載っていた、フィリピン人女性と日本人男性の間に生まれた7歳の男児が、国籍確認を求めた訴訟で、東京地裁が、この男児の日本国籍を認める判決を下したという記事を、お読みになった方が多いかと思います。
「家族関係や共同生活は法律上の婚姻関係がある場合にだけ営まれるものではなく、法律婚かどうかで国籍取得の可否を区別することになんらの合理性も認められない」とし、「父母が婚姻関係にあるかどうかで国籍取得の可否について不合理な区別を設けた国籍法の規定は、法の下の平等を定めた憲法14条に違反する」と、明確に現行の国籍法を日本国憲法違反と判断した本判決は、文字どおり画期的なものでした。現在、この国では、同様の国籍取得を求める訴えが百件以上に及んでいると言います。今回の判決は、それらに影響するばかりか、自国の国籍法をちゃんと読んだこともなく、こうした問題に無自覚であった私自身のような日本人にとって、改めて、日本国憲法や在日という生き方について思いをめぐらせる機会となりました。

 人が無国籍になってしまう理由はさまざまですが、この裁判の事例のように、日本人と外国人の間に生まれた子どもが、両親の婚姻が法的に不備であるため、日本人として認知されることがむずかしくなる場合が多いようです。それにしても、子が嫡出子であるかどうかで、国籍取得に差別が生じている現状は、明らかに国際法の規定にも反するもの、と見なされます。(日本国も加盟している、国際人権規約B(自由権規約)24条、「児童の保護」3項「すべての児童は、国籍を取得する権利を有する。」)

陳天璽さんの生い立ちと無国籍
 さて、今日の話の主役である、陳天璽(チン・テンジ、中国語発音では、CHEN TIEN-SHI)さんも、かつて無国籍児(者)であった方ですが、彼女の場合、無国籍になったのは、両親の結婚の法的不備が障害となったためではなく、1972年の日中国交回復の結果、日本が台湾との外交関係を断絶したことがきっかけでした。従来中華民国国籍を有していた外国人に対して、この機会に日本政府は、実質的に、日本国籍を取るか、中華人民共和国籍に変換するかの二者択一を迫ったのでした。日本、中国どちらの国籍を選ぶにせよ、いったんはこれまでの中華民国国籍を放棄しなければならなかったため、当時二万人を超える在日華僑が、一時的に無国籍に置かれたと言います。

  陳天璽さんのご両親は、中国本土の出身ですが、1949年の中華人民共和国誕生を機に台湾へ逃れ、そこで互いに知り合って1953年に結婚。その後、お父さんの日本留学を経て、一家で横浜の中華街に居を構え、菓子店・喫茶店を始めるわけです。日本による中国侵略を体験し、国民党を支持してきたご両親にとって、日本国籍・中華人民共和国国籍のどちらもが、潔く選べる国籍ではなかったのです。1971年生まれで、当時一歳になったかならぬかの天璽さん(愛称ララ)にはまだ知る由もなかったことですが、ご両親はこの困難な問題に直面して、幾晩を徹しての家族会議のすえ、無国籍を選択することにしました。ララさんのお父さんは、この苦渋に満ちた選択に際して、「無国籍もひとつの国籍だ」とつぶやかれたそうです。国が守ってくれなくても、国際法や条約によって無国籍者の地位が守られることに希望を託したのではないか、とララさんはそのときのお父さんの気持ちを推し量っています。本書にも記されていますが、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が中心となって制定した国際条約に、1954年の「無国籍者の地位に関する国際条約」、さらに1961年の「無国籍の減少に関する条約」の二つがあります。しかし、20世紀末の段階で、前者に加盟した国は45カ国、後者に至っては19カ国しかありません。ちなみに、わが日本国は現在まで、この二つ条約のいずれにも加盟していません。(外務省ホームページ情報)

  今日ご紹介する本は、いわば、自分の知らない間に無国籍の人間となっていた、ララという女性が、横浜中華街という多言語と多文化が混在した小宇宙の中で、親や兄弟の愛に育まれ、天真爛漫で溌溂とした少女時代を送る反面、名門私立小学校への「お受験」、外国への旅行、アメリカへの留学、国連機関への就職活動など人生の大切なひとつひとつのステップで、いかに「無国籍」という自分に押された一種のStigma(烙印)によって、差別されたり、苦しめられたり、ほとんど不条理と言ってよい、法律と規則の世界に弄ばれてきたかという体験をつぶさに語ったものです。しかし、この本からは不思議に明るく、前向きで、ユーモラスな香りが立ち上がってきて、著者とともに泣いたり笑ったりしたくなる気分にさせられます。詳しくはご自分で読んでみていただきたいと思いますが、一つだけ胸に響くエピソードを紹介しておきます。日中戦争の写真資料を小学校(横浜中華学院)の図書室で何気なく見てしまったララさんは、中国人の死体や処刑の光景に大きな衝撃を受けます。まだ小学1年生のころと言いますから、並外れた感受性の持ち主だったことは確かです。家に帰ってから、泣きながら父にそのことを話し、なぜ中国人にこんなひどいことをした日本という国に私たち一家は暮らしているのか、と訴えます。そのときのお父さんの感動的な言葉です。「ララ、私たちがこの国で暮らしているのは、歴史を乗り越えるためなんだよ。・・・パパは戦争を経験して思ったんだ。国と国との関係よりも、人と人との関係はもっと深いものだ。本当に理解し合えば争うことはない。だから、ここ日本でお前たちを中国人として育てる。国を超えるような人になって欲しいんだ」

存在しない子どもたち
  さて、陳天璽さんを私が知ったのは、彼女が無国籍問題を研究する過程で、私の父・劇作家の本田英郎(ひでお)が1982年に書いた「存在しない子どもたち-沖縄の無国籍児問題」(汐文社)というルポルタージュを読み、ぜひ著者にインタビューしたいと、三年位前に手紙を下さったことがきっかけでした。当時父は自宅近くの特別養護老人ホームにいました。この本を執筆した当時のことはあらかた忘れているのかと私は思っていましたが、とにかくララさんと友人の「輝ちゃん」を特養ホームにご案内して、談笑したり、一緒にご飯を食べたりして、楽しい時間を共有しました。そして、「愚息」の予想を裏切って、父がかなり明晰な受け答えをしていたのが印象的でした。「食い気と色気だけはまだなくしていない」が口癖の父にとって、若く美しい女性読者二人の来訪は、何よりのお見舞いだったと思います。そのときのことは、「無国籍」の本の中でも触れられています。

  英郎は沖縄が好きで、現役時代に何度も沖縄を訪れ、尖閣列島や基地問題に関する芝居やテレビ・ドラマを書いたりもしていました。一兵卒であった彼が4年近く中国を転戦する中で嘗めた辛酸、あるいは、中国人に対して自分もその一員であった日本帝国軍隊総体が冒してきた犯罪行為を、沖縄の人々が体験した「地獄」と重ね合わせて検証し、簡単に戦後を終わらせてはならないという、気持ちを強くもったようです。沖縄の無国籍児問題は、戦後長く、アメリカ人軍人・軍属と日本人女性の間に生まれた混血児の「陥没部」としてあった、と英郎は言います。陥没部とは、法の谷間に落ち込んでしまった子どもたちという意味です。アメリカ人男性との間に産み落とした子どもを育ていくだけでも、さまざまな障害や困難を乗り越えていかねばならないというのに、気がつけば、わが子が無国籍であった事実に直面させられ、衝撃と自らに対する罪悪感に苛まれる沖縄人女性。精力的な取材をしながら英郎はこの問題の根っこにあるものに迫っていきます。

  英郎の本が出版された1982年(昭和57年)当時、国籍法の第二条は、「子は、次の場合には、日本国民とする。 一. 出生の時に父が日本国民であるとき」となっていました。原則として子は父の国籍を継ぐものとされていたわけです。(父系優先血統主義) 日本の国籍法は、戦前の帝国憲法時代から「血統主義」を取ってきましたが、旧国籍法では夫婦国籍同一主義を取っていたため、無国籍児が生まれる余地はなかったのだそうです。それが、皮肉なことに、戦後の民主主義憲法の、国籍自由の原則(憲法22条)の下で、夫婦国籍独立主義が認められた結果、子の無国籍状態は反って生まれやすくなってしまったのです。

  一方アメリカ合衆国のような国は、父母の国籍によらず、アメリカの国土ないし海外属領で生まれた子どもはアメリカ人とされます。「血統主義」に対して、アメリカ流の国籍付与は「生地主義」と言います。戦後の沖縄で生まれた大勢の無国籍児は、父系優先の血統主義の国の「母」と、生地主義の国から来た「父」との間に生まれた子どもの悲劇として捉えることができるわけです。おそらく1984年の国籍法改正で、第二条一項は「出生の時に父又は母が日本国民であるとき」と、「又は母」という3文字が挿入されます。たったこれだけのことで、沖縄の無国籍児問題は解決に向けて大きく前進したと言います。これは当時の土井たか子、田中寿美子ら女性国会議員が長年奮闘した結果、勝ち取られた改正であったようです。

21世紀の日本のために
  過去20年の間に日本の国籍法や難民・入国管理に関する法や現実もずいぶん変わり、ララさんのような勇気ある女性が、どんどん日本の市民社会に光彩を加えるようになっています。そのことはすばらしいのですが、私たちひとりひとりの日本人は、難民や無国籍者などの「他者」の痛みにどこまで感受性を持ちえているでしょうか。現在の、入管や難民行政を医療者の立場で眺めていても、日本の人権状況は、先進国の中でも本当に恥ずべき状態にあることは疑いえません。私たちは、市民社会で生き、働く一員として、この国が、より国際法や人道に準拠し、開かれた社会へと発展してくれることを望み、そのために努力を惜しんではならないのでしょう。その意味で、陳天璽さんの本は、すぐれた示唆を与えてくれるもので、ぜひ皆さんにご一読を薦めたいと思います。もっとも、この本には、シェアや港町診療所に関して完全な誤解に基づく記述の誤りが何点かあり、改版の際にはぜひ改めていただきたいと、著者にもお伝えしてあります。陳さんは、2003年4月、無国籍のまま国家公務員に採用され、国立民族博物館の助教授として、研究とフィールドワークに世界中を飛び回って活躍しています。

  ちなみに同じ年の6月、彼女の日本への帰化申請が認められました。日本国籍取得は、彼女のお父さんやお母さんの気持ちをある意味で踏みにじっての決断だったので、彼女にとって「晴れて日本人」というのとは違う心境だったことでしょう。
遠い将来、たとえば西暦3000年くらいになって、人類が国籍や国家といった旧套な概念や価値観を無化して、今のEU(欧州連合)のようなものを更に推し進めて、あらゆる国民国家が主権を放棄し、新しい世界政府のもとに結集し、すべての人が等しく人権を保障される日がくることを夢見たいものです。 それまでの間、私としては、陳さんのように、豊かで多様な民族的・文化的背景をもった在日の人びとがひとりでも多く、日本の国籍を取得し、日本人の一員として活躍してくれることを、非常に誇らしいことでもあるし、日本の国の品格を上げる意味でも、とても好ましいこと、うれしいことだと思います。  
(2005.5.2)


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