見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(17)2006.12.4

開発教育ってなんだろう?
  ― 室靖先生追想を軸に


1.開発教育協会の会議に参加して

 またまた長(なが)のご無沙汰ですみませんでした。例により街医者稼業に追われているうちに、「ひとりごと」も長い沈黙の周期に落ち込み、いつの間にか「冬眠中」と言われかねない、師走の季節になってしまいました。罪滅ぼしに(?)、今日は開発教育をめぐる課題を追求してみることにしました。
 きっかけは先日、長年幽霊会員だった開発教育協会(DEAR)の湯本浩之事務局長から評議員就任のお誘いを受け、そう言っては申し訳ないことですが、こちらが教えを乞う気持ち半分、野次馬根性が半分という動機から会合に参加してきたのです。これがなんと目からウロコの経験でした。開発教育分野で長年活躍されている錚々たる学者、学校で開発教育を実践されている現場教師、マスコミ・出版関係の人々、旧知のNGOの面々にお目にかかり、大きな刺激と啓発を受けました。
 DEARも、シェアや他の多くの日本のNGO同様、財政的なところでは、苦労が多いのかと思いますが、この団体のなによりの強みは、会員に教育関係者が多いことから、種々の参加型開発教育教材を開発・出版し、それにもとづいて全国でワークショップや交流集会を行うなど、みずからのリソースを十全に活用した事業展開をしていることなのです。メンバーにとって三度のメシより好きで得意なこと(学び教えること)を、素材や方法面で不断に工夫・創造して、市民社会に問いかけ、そうした努力を活動資金獲得法にもしているという、NGOとしては一番健全で、望ましいあり方を達成しているように見えます。

2.開発教育とは?

 さて、「開発教育」の定義は、DEARによると、以下のようになります。
「私たち一人ひとりが、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加することをねらいとした教育活動」。
 そして、DEARでは、このような開発教育を実現するために、5つの学習目標を設定しています。
1.多様性の尊重:一人ひとりの人間としての尊厳性を基礎として、世界の文化の多様性を理解すること。
2.開発問題の原因と構造:世界各地の貧困や格差の現状を知り、その原因と構造を理解すること。
3.地球的諸課題の関連性:開発問題と環境、人権、平和、ジェンダーなどの地球的諸課題との関連性を理解すること。
4.世界と私たちとのつながり:地球規模の諸課題が私たちとつながっていることを理解すること。
5.私たちのとりくみ:地球的な課題に取り組んでいる努力や試みを知り、自ら参加できる意欲と能力を養うこと。

 こうした、定義や学習目標は、DEARという組織のミッションをはっきりさせ、それに基づいて、活動の計画を立てていく上で必要であり、有効なことですが、私たちいわゆる開発系のNGOにとっても裨益されるところが大きくあります。たとえば、シェアの国内活動としての、エイズ予防教育や、在日外国人保健活動などにも、上記の開発教育の定義や学習目標は深く関わってくると思います。つまり、シェアの国内活動が、DEAR流の学習目標に照らして、客観的な評価に耐えるものかどうかをみずからチェックする上でも、とても参考になると思ったのです。
ちなみに、文化の多様性(Cultural Diversity)は近年、UNESCOがもっとも力を入れて世界的な倫理基準にしようとしてきた価値観です。その背景には、大きな資本とマスメディアを動員して、世界中の、とくに映像や音楽文化などを席捲しているアメリカに対する、フランスを中心としたヨーロッパ文化圏、そして、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの諸国が、みずからの文化的な独立やアイデンティティを守りたいという立場で一致したこともあるでしょう。同時に、アフガン戦争やイラク戦争の経過において、他宗派や異文化に対する極端に非寛容で暴力的な行動が、軍や私兵組織の手で広範に行われていることに対する、危機感の表れと見ることもできます。文化の多様性は、生命の多様性(Biodiversity)と同様に、現代世界の中で存亡の危機に瀕しているという、UNESCOの認識には十分説得力があります。この文化の多様性宣言(条約)は、昨年10月にUNESCO総会の投票で承認された際、アメリカとイスラエルの2カ国だけが反対に回ったという、いわくつきのものです。

 一方、私にとって長年「なぞ」だったのは、開発教育がいわば、先進国の人々を覚醒させるための方法として有効なものであったとしても、それでは途上国の人々には、「北」で行われている開発教育はどう見えており、その意義や存在理由をどう捕らえているのかということでした。開発の「光と陰」にいやでも応でも日々立ち合わざるを得なくなっている彼らにとって、高尚な開発教育の議論は、もうひとつの「北」の人々の贅沢と写っていることはないか、気になって仕方ないことだからです。すくなくとも、「開発」行為の主体となっている、または開発援助の対象とされている途上国の人々が、OKしてくれるような開発教育とはなにか、という問いかけをいつも心に持しているような開発教育でなければならないことは間違いないところです。

3.室靖(むろ・やすし)先生のこと ― 開発の系譜論

 そのへんの「北」における開発教育の課題を伺うのに、一番すぐれた先達は室靖先生だったろうと思うのですが、残念ながら彼はすでに冥界に入られ、直接教えを乞うことはできません。
私にとって、室さんとの出会いは、青年海外協力隊の広尾訓練所でのことで、197 6年の秋から冬のことでした。つまり30年も昔のことなのですが、いまだに、彼の、べらんめえ調で、歯切れのよい語り口を、私の耳は、心地よい残響と記憶とともに鮮やかに留めています。訓練所時代に聞いた講義は、途上国の発展のために、日本のような国がどういう援助の仕方をすべきかといった、理念的なお話だったと思いますが、彼自身のUNESCOやILOの専門家としての、主としてイスラム世界での豊富な体験談に加えて、歯に衣着せぬ辛らつで、ユーモアに裏打ちされた先進国の援助政策批判に、新鮮な驚きを感じたものでした。協力隊として参加するにしても、自分なりの意見や考えをしっかりもっておくことの大切さを教えられたのだと思います。
 その後、何年もしてから、シェアの創立当時の1983年ころ、東和大学の国際教育研究所の主任教授をされていた室さんに再びお会いし、今度は「開発教育」という聞きなれない言葉を教えていただいたのでした。そして、室先生は、開発教育協会の前身である「開発教育協議会」が1982年に生まれるとき、その誕生に深く関わった「助産師」でもあったのです。機関誌「開発教育」の創刊号には室先生が、「開発教育協議会結成の意義と役割」と題する巻頭文をお書きになっています。
 開発教育が取り上げる「開発」とは、ではいったい何なのか? これも論じだしたら切りのないテーマですが、開発の系譜論については室さんにすぐれた総説があります。(雑誌「世界」臨時増刊「新世界を読むキーワード」1989年7月号) 室先生によると、第二次大戦後の途上国ないし第三世界諸国の「開発」は、3つの世代的変遷を経ていると言います。1950-60年代の第一世代の開発論は、第三世界の低開発状況に対して、「西欧化・工業化」が解決法になるという楽観的な考え方を示しました。その典型が、「浸透の理論」(Trickle-down Theory)で、経済開発を都市部に集中的に行えばその恩恵は、「多少遅れても国民各層に浸透していくはずだ」と主張しました。しかし結果として起きたことは、「開発が成果をあげればあげるほど、国内の経済的社会的不平等は縮小するよりもむしろ拡大」(前掲書)したのでした。第二の開発理論は、マクナマラ米国防長官が世界銀行総裁に就任した1968年ころを転機として起き、第一世代の失敗を踏まえ、開発の焦点を途上国の最貧層に置き、彼らの基本的人間ニーズ(BHNs:Basic Human Needs)を満たすことを開発の最優先課題としたのです。私見では、シェアにとって大切な理念であるプライマリ・ヘルスケア(PHC)も、この第二世代の開発理論の産物と言えます。アルマアタ宣言は1978年に出されていますが、BHNの考え方とまさに共鳴しているのです。さらに下って、1980年代になって、第三世代の開発理論として登場したのが、いわゆる持続可能な開発(Sustainable Development)の考え方で、ここでは開発の対象は第三世界諸国にとどまらず、「地球的規模の問題を人類的視野から総合的に捉えた点に特色がある」(前掲書)とされます。室さんが挙げている地球的規模の問題とは、①世界人口の爆発的増加、②地球・自然環境の破壊、③第三世界の絶対的貧困の3つで、国連の委託を受けたブルントラント委員会による報告書“Our Common Future”(私たちが共有する未来)に基づくものだと言います。20世紀末から21世紀初頭にかけて、上記の3つに加え、人類はHIV・エイズ、結核、マラリアなどの人類全体を脅かす感染症、そして国家や集団による組織的暴力をいかに克服するかという、新しい地球規模の開発課題を抱え込んだ、とも言えます。
 室さんの著作や考え方は、残念ながら今やまとまった形で読むことが難しくなっていますが、珍しいものとして、彼が昭和62年(1987年)に参議院の調査会に呼ばれ、援助政策に関する証言をした記録が残っています。これはインターネットで読むことができますのでご紹介しておきますが、熱のこもった真剣な議論で、JICA(独立行政法人・国際協力機構)とJBIC(国際協力銀行、昭和62年当時は海外経済協力基金) の統合や、援助政策担当官庁の一本化、援助政策理念の明確化など、現在も政策課題となっていることに、公正で説得力の高い発言がなされ、室さんの識見と透視力に脱帽のほかありません。
(第109回国会 外交・総合安全保障に関する調査会 国際経済・社会小委員会第1号・昭和六十二年八月二十一日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/109/1484/10908211484001c.html

4.ニエレレ大統領と「南」委員会報告

これは私の想像ですが、室さんが晩年に文字通り、心血を注いで完成された仕事に、「南への挑戦 - The Report of the South Commission」(国際開発ジャーナル社)があります。彼が一人で完訳されたこの本は、「南」委員会の委員長でタンザニア大統領だったニエレレ氏の、21世紀人類への遺言とも言うべき意気込みが乗り移った格調の高い、達意の訳文で、「南」の指導者として開発の課題を主体的に捕らえ、「北」との関係のあり方、「南」自身のガバナンスの課題まで、幅広く、高い視野で論じています。

「南」への挑戦

 たとえば、開発については以下のようにこの報告書は定義づけています。
「われわれの考えによると、開発とは人間がその潜在的な能力を具現し、自信を育て、人間としての尊厳と充足の生活をすることができるようになる過程である。開発は人々を欠乏と搾取の恐怖から解き放つ過程である。・・・開発とは成長の過程であり、本質的には開発途上にある社会の内部から湧き上がる運動である。・・・開発とは必然的に個人の、また国民としての、政治的な自由を意味する。・・・真の開発には、民主的な諸制度と、ものごとの決定に際しての民衆の参加が絶対に必要である。・・・甚だしい国内の不平等は開発と相容れない。個人の身辺の危険は、それが犯罪の横行によるにせよ、政府の行動によるにせよ、自由―従って開発と相容れない。人間の尊厳の否定や平等の否定もまた開発と相容れない。」(第一章 「南」とその課題)
 21世紀の到来を見据えて書かれたこの報告書は、今もなお有効性を失っていませんが、ここに提言されたことを真剣に実行に移そうとしない、あるいは実現に向けて、「南」に対する真の協力・パートナーシップを形成することに失敗した「北」は、いまイラクやアフガニスタンやスーダン(ダルフール)に象徴されるような、暴力と利害対立によって分裂・漂流化していく、地球社会を生み出し、収拾に苦しんでいるとも言えます。

「私たちのピン川」や「援助する前に考えよう」をぜひ読んでみましょう

「援助する前に考えよう」

 さて、むずかしい議論はひとまずおき、最後は楽しく考え、ともに学び教えあうための教材を、皆さんにご紹介して、今日の「ひとりごと」をおしまいにしたいと思います。
 人が学び、成長していく過程には、他人との出会い・つながり・相互感化といったプロセスが不可欠なのは言うまでもありません。人に教えることのむずかしさと面白さは、そのまま、みずからが学ぶために、また次にだれかに伝え、教えていく上での「こやし」にもなっていきます。
 この文章の始めの方で私は、「北」の開発教育は「南」にとって、本当にジャスティファィ(正当化)されるだけのものになっているのかどうか自己検証が必要だということを課題として述べましたが、開発教育協会(DEAR)は、すくなくともこの課題に前向きに取り組もうとしているようです。それは、主として、途上国の人々との交流という試みを通してのことです。一例として、「北タイ環境教育プログラム - 私たちのピン川」という、去年、DEARの代表理事・田中治彦さん(立教大学教授)らが中心になって訳された本は、もともとピン川の流れるチェンマイ地域の人々や団体が、ピン川流域環境保全のために自発的に起こした運動がもとになって生まれた、参加型の教材です。原題は「ピン川保全のためにチェンマイ青少年の協力する心を開発する環境教育学習実施計画」と言います。
 田中さんたちは現地を幾度も訪れ、市民やNGO運動家、学者たちと交流するなかで、この教材の環境教育プログラムとしての卓越性を知り、使い方を含め翻訳し、日本の環境教育にも新風を吹き込みたいと思ったのでしょう。同時に、DEARが開発した教材もタイで紹介され、好評を得ているようです。
 もうひとつ、つい先月出版されたばかりの「援助する前に考えよう - 参加型開発とPLAが分かる本」も、やはり田中先生たちのチェンマイ大学での調査や交流がもとになって出来上がった本で、とても楽しく学びができる教材となっています。
開発教育は、先進国の人々が途上国の課題によりよく気づき、共感的な態度や行動を取れるようになることが出発点だったのでしょうが、いまや、私たち「北」の人間が「南」から開発教育について教えを乞う時代になってきたのだと、シェアが使っているエイズ教育の「水の交換」などを見てもつくづく思うこの頃です。結局、開発教育への理解や参加を高めるカギは、自分が当事者である、あるいは、よい意味の「張本人である」という意識なのでしょう。
 さて、DEARのホームページは以下の通りで、ご紹介した教材なども注文できます。
http://www.dear.or.jp/

(了) 06.12.4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?