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Dr.本田徹のひとりごと(24)2007.10.9

北米#1:森川夫妻という生き方 
 ― 卓越したファミリィ・フィジシャン(家庭医)とカウンセラーへの道


森川のめおとさん、おおきに世話になりました 

 まだ終わってもいない旅のことについて言うと、道祖神さまに笑われるかもしれませんが、今回の私の世界一周旅行で一番お世話になり、医学上や国際協力のことでも大きな教えと啓発を受けることになったのは間違いなく、森川雅浩さん、ひかりさんご夫婦です。ひかりさんは、持ち前の几帳面さんと面倒見のよさで、私が日本を出国する前から、彼らの住み働くクリーブランド(Cleveland)をハブ(中心)に、アメリカ国内数箇所とカナダをつなぐ、込み入った飛行機の予約から、ワシントンDCでの宿取り、北米旅行は初めてという「おのぼりさんのToru」を、ボストン空港から何時何分の長距離バスに乗らせ、夜8時過ぎにニューハンプシャーのどのバス停でピックアップしてあげたら、「迷える羊」にならずに済むかといった、こまごまとした調整まで、E-メールで、かの「マエストロ」、デービッド・ワーナーさんにしっかり掛け合ってくれました。デービッドの古くて瀟洒な山荘に一泊できるようになったという、一生の思い出となる僥倖も、たぶん、ひかりさんのお蔭で実現したと言えます。

うるわしの森川夫妻

 ご夫婦でアレンジしてくださった、クリーブランドでのいろいろな病院・施設の見学、大切な方々との面会のアポ取りはおろか、自宅に何泊もさせていただき、朝夕のおいしい食事、車での送り迎えなど、何からなにまでお世話になりっぱなしだったのです。このすばらしく仲のよい、同志とも言うべき、でも自然体な夫婦の生き方が、アメリカというまったく異なった文化風土の中で、光彩陸離としていることに、ただただ脱帽のほかありませんでした。内村鑑三ではありませんが、彼らのように自己をきちんと確立しながら、アメリカ人に愛され、尊敬されるようなライフ・スタイルを貫き、実績を残している人たちこそ、同時代の「代表的日本人」と呼ぶべきなのでしょう。

森川夫妻の生い立ち、東京での再会とシェアとのつながり

 お二人はそろって神戸の出身です。雅浩さんは神戸港でも有力な港湾の荷役・物流を専門とする会社の創業者の孫で、よちよち歩きの頃から、荒くれの船乗りや沖仲仕(おきなかし)たちを使いこなす、任侠肌のおじいさんに躾(しつけ)厳しく(?)育てられたと聞いています。彼の、負けん気なところ、でも、人一倍人情家で、努力家で、後輩にやさしく、面倒見のよいところは、家業がはぐくんだ血筋と言えるかもしれません。ひかりさんは敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。「ひかり」という名は、新約聖書のヨハネ伝12章などに出てくる、「光あるうちに光の中を歩め」というイエスの教えに由来するものでしょう。ちなみにバイオエシックス(生命倫理)の日本における先駆者、木村利人先生の名「リヒト」はドイツ語で同様に光を意味し、ゲーテの臨終の言葉とされる「もっと光を!」と、新約聖書のイエスの言葉との両方の含意があることを、先生から伺ったことがあります。

 さて、二人は幼馴染だったそうですが、勉学のため東京に来てから再会し、やがては一緒になるべく赤い糸でつながっていたようです。雅浩さんは医学生の時代からJVC(日本国際ボランティアセンター)やシェアの活動に関心をもってくれ、エチオピアで1985年に起きた大旱魃(かんばつ)・飢餓災害のときには、医学生ボランティアとしてアジバール病院での救援活動に参加し、コレブという旱魃被害のとくにひどかった、急勾配でアクセス至難な山間僻地への調査を志願するなど、ガッツのあるところを示してくれました。アジバールの活動を看護師として一人で1年間支え切った工藤の「お姉さん」とも、ここで知り合い、「すごく見どころのある若者」と評価されていました。彼は、卒業後外科医を目指して亀田総合病院などで研修を積み、1991年6月、一念発起し、結婚したばかりのひかりさんとともに渡米したわけです。ひかりさんは、「婦人の友」の雑誌記者をしながら、シェアのボランティアとして、1986年から1990年まで、機関誌「ボン・ルタージュ」の編集長をしてくださっていました。

アメリカでファミリィ・メディシンの専門医となる 

  渡米後、雅浩さんは、名門ジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins Bloomberg School of Public Health)で公衆衛生修士(Master of Public Health)を取得するとともに、1994 年アメリカでの医師(MD)の資格も得、Case Western Reserve University(CWRU)のレジデントになりました。3年間のFamily Medicine のレジデント期間(Residency)を終え、American Board of Family Medicine(アメリカ家庭医学会専門医審議会)の試験に通って、専門医としての資格を取得、CWRUのFamily Medicine科の常勤医師(Attending Physician)の地位を得ます。ものすごい勉強家であるとともに、視野や関心領域を広くもっていた彼のユニークである所以(ゆえん)は、Family Medicineの持つ総合性と彼自身の日本での外科医としての経験を生かして、国際保健の新しい’Track’(コース)を早くも1998年にCWRUで開き、ダイレクターに就任したことです。その後、アフガニスタン、コソボなど近年の世界の内戦地域での援助体験を積んだ彼は、戦傷外科に通じるようになり、昨年はこのテーマで、専門誌に総説を書くまでになっています。「Need for “Conflict Version” of Primary Surgery: War Surgery in the Era of Low-Intensity Conflicts(”紛争版”プライマリ外科の必要性:低強度紛争時代下での戦傷外科)」(Int Surg 2006;91:129-140)

 彼は日本の医療のアメリカにないよさも認めています(それなりの質の医療サービスが、比較的低コストで普遍的にアクセス可能なことなど)が、人間も文化も価値観まったく異種なものが多様に交じり合い、ときに厳しく対立しあい、コミュニケーションを成り立たせるために大きな努力を払わなければならない、アメリカ社会のしんどさをバネに、チャレンジを続け、懸命に生きてきた彼のような逞しいFamily Physician(家庭医)にとって、やはり私たちの国や社会はすこし「なあなあ」的で、ぬるま湯過ぎるのかもしれません。

 それにつけても、実際にアメリカのFamily Medicineに接して、日本のいわゆる「家庭医学」とは、似て非なるものに見えます。むしろ幅広い分野で高い専門性をもち、’Underserved populations/areas’(医療サービスに恵まれない人々・地域)の問題をどう解決していくかなど、社会的課題への関心も高い医師たちが一般に多いと感じました。もちろん、彼の教室の若い医師たちは、もともと、’Dr. Mori'(と呼び慕われています)のそうした姿勢や国際保健への共鳴・関心から集ってくるということもあるのでしょう。

日本の家庭医・関連学界への一言: プライマリ・ヘルス・ケアの受容をめぐって

 私が誤解しているだけかもしれませんが、今の日本のFamily Medicine関連学界には、こうした社会医学的な視点や運動論、国際的な視野はどちらかというと希薄という感じがしています。今回、日本の家庭医、総合医、プライマリ・ケア医関連の3学会(「日本家庭医療学会」、「日本総合診療学会」、「日本プライマリ・ケア学会」)が専門医制度確立のため、統合化に向けて共同歩調を取り始めたということを、学会のホームページで知ることができました。それはすばらしいことだと思います。一方、もの足りないというか、少し呆(あき)れたのは、3学会のホームページとも、英語のコンテンツがまったくなかったことです。
  
 英語はかつての古典的西欧世界のラテン語がそうであったように、現代の「覇権言語」ですから、英語のもたらすものになんでも飛びつくのがよいとは思いません。しかし、インターネットひとつ取っても、いまや英語を使いこなすことなしには、信頼するに足る知的な情報獲得ができない現実があることも事実です。内科系臨床医にとって必読のNew England Journal of Medicine やLancetといった医学雑誌も、インターネット版ができ、後者は紙媒体より安く購読でき、前者では診断・治療手技の実際をネット上において動画で閲覧でき、バーチャルな臨床研修がどんな僻地にいても受けられる時代です。まして、日本の学界が「家庭医」や「総合診療科」などの制度を輸入する過程で、アメリカのFamily Medicineが重要なモデルとなり、恩恵を受けてきた以上、自分たち(日本版家庭医や学会)がいったい何者であり、日本の現実とニーズに合ったどのようなFamily Medicineをこの国に確立させ、花開かせていこうとしているのか、きちんと自己主張し、明確に説明(’articulate’)し、発信していくことが、よきファミリィ・フィジシャンを育成し、学会の発展や国際的な交流を図っていくためにもぜひ必要かと思いました。生意気なようですが、佐久病院でお世話になって以降、プライマリ・ヘルス・ケア医を目指してささやかに努力してきた、私にも、日本のFamily Physician制度の行方に重大な関心があるのです。

 もう一つ、これは日本の医師たちにとっての、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)受容に伴う歴史的な、一種の悲劇と誤解につながる話です。アルマ・アタ宣言の出た1978年から80年にかけて、日本にPHCが入ってくる過程で、巧みに、当時の武見太郎・日本医師会長の意思が働いて(と思いますが)、PHCから「ヘルス」という言葉が抜き取られてしまったことです。PHCの持つ、とくに’Health’という言葉が喚起する社会運動的な側面、あるいは医師以外のコメディカルの人びと、とくに看護師に権限や責任を移譲し、医療・保健サービスへのアクセスやケアの質を大幅に改善するという、民主化や人権につながる、PHCのヴィジョンは、日本ではこのときは少なくともストップをかけられたのでした。これは、医師の裁量権や既得権(vested interests)をきちんと守り抜こうとする、武見さんやアカデミズムの「賢明な」判断だったとは思いますが、結果として、PHCは、ある意味で換骨奪胎され、「プライマリ・ケア」や「プライマリ・メデイカル・ケア」、「第一線医療」という言葉で、日本には輸入されることになります。

 現在のプライマリ・ケア学会のホームページに紹介されている「プライマリ・ケアとは」という説明文も、基本的にこの当時の考え方を踏襲した、医師中心の内容となっていて、本来のPHCの精神からは外れたものと言えます。

病棟でのドクター・モリ

 Dr. Moriについてはまだまだ驚くべきことがあります。Mori’s Handbookという、病棟レジデントのために彼が独力で作成し、毎年改訂している440ページ(2007年版)にのぼる研修マニュアルがあるのです。(正確には、’Family Medicine Inpatient Service - Resident Survival Guide & Workbook’:ファミリィ・メディシン入院患者診療-レジデントのためのサバイバル・ガイド兼ワーク・ブック。)
ちなみに、彼のいまの肩書きは次の通りです。(訳は省略)

Mori Morikawa, MD, MPH
Director, International Health Track
Associate Professor, Department of Family Medicine,
Global Health & Diseases, and Epidemiology & Biostatistics
School of Medicine
Case Western Reserve University/Case Medical Center
Cleveland

レジデントのためのMori’s Handbook

 このハンドブックには、病棟医としての心構え、退院時サマリーの書き方から始まり、発熱、電解質異常、意識障害などの症候論と鑑別診断、主要病棟薬品の投与法、そして糖尿病、高血圧、うっ血性心不全、敗血症などの重要疾患に対するマネジメントについて、最新、最良の文献(NEJM, JAMA, Lancet, Am. Heart Journal, Br. Med Journal, Journal Traumaなど)に基づいて、分かりやすく、コンサイスにまとめられてあります。

 心構えの中には、「最低1日3回入院患者を回診しなさい、1回で済ませるようでは患者ケアと呼ぶに値しない」とか、「どんなに忙しくても昼飯は食っておけ」とか、「困ったときはすぐに先輩の医者を呼び出して(page your senior)、相談せよ」とか、実に懇切で、私自身耳が痛くなったり、恥じ入ってしまうような言葉が書き連ねられています。

 「これを一人で書き上げ、毎年改訂しているとはすごいことだね」と私が感嘆すると、「なにPlagiarism=剽窃(ひょうせつ)の産物ですよ)」と涼しげにMori先生は答えるが、かのハリソンの内科教科書だって、そういう意味では最新の医学から剽窃してまとめたテキストと言えないこともない。彼のやり遂げたことは、病棟医に必要な職務態度、ワーク・エシックスから説き起こし、Family Medicineがカバーすべき主要疾患、症候について、膨大な量と種類の文献を、Evidence-based Medicine(根拠に基づく医療)の原則で渉猟・博捜し、臨床医としての長年の蓄積とカンに基づいて、整理し纏め上げた本と言えます。

 ある一日彼の病棟回診に付き、レジデントたちとベッド・サイドを訪れ、カンファレンスにも参加させていただきましたが、いくつもの病棟の間を走るように移動し、絶えず、レジデントたちを問い詰め、論理的に明快で筋道立った診断、適切な治療を求めてやまない彼の姿勢に、うなずくことしきりでした。

本田のミニ・レクチャーの後、研修室で

せっかく本田が来たから、Family Medicineの若い医者や医学生に話をするようにとMori先生が機会を与えてくださり、私も内輪の会でミニ・レクチャーをさせていただきました。タイトルは、‘Past, Present and Future of Community and International Health in Japan - NGO movement and Civil Society’というものでした。国際協力や、日本におけるPHC運動の先駆者・佐久病院のお話、保健・医療NGOとくにシェアの歩みや現状、首都圏のホームレス医療などを取り上げましたが、アメリカと共通する問題もあり、割合に関心を持って聞いてくれたようです。

病棟カンファレンスでのDr. Mori - 厳しい追究と討論

 さて、彼のFamily Medicine Departmentが担当する入院患者は、20人くらいで、平均在院日数が5日を切ります。(日本では高度機能の大学病院レベルでも12-15日くらいでしょう)。5日以内で患者さんに退院していただくためには、病棟のレジデントや指導医に短期間に集中した形で大変な精神的・肉体的負担がかかってきます。入院担当チームは複数あり、2週間程度でチームが入れ替わると言います。ちょうど、私が森川宅に世話になっていたとき、Mori先生の入院担当期間が始まり、夜中の1時半ころには起きだして、病院に出かけていきました。朝までに1回目の患者回診を済ませ、病状を評価し、レジデントの医療内容に問題がないか詳細に把握し、カルテに記載し、検査や投薬指示を出すといった仕事を終わらせてから、朝のルーチンの仕事に入るのです。

「Moriは自分たちよりも患者さんに接し、知っている」とレジデントから恐れられるのも当然です。かつてのアメリカでは、開業医が自分の入院させた患者を、地域の病院でも引き続き診療する、オープン・システムがかなり広く行われていたそうですが、近年、医療の細分化・専門化が極端に進む中で、病棟医療を忌避し、自分のクリニックで専門性を生かした9時5時の楽な診療をする医師が増えた、とMori先生も慨嘆していました。これは日本でも共通して見られる現象かもしれません。その一方、日本にはまだあまりない「ホスピタリスト(Hospitalist)」という「種族」が、アメリカの臨床医学の中で近年堂々と市民権を得てきているのです。(ちなみに、アルクの「英辞郎」ウェブ版にもまだこの言葉は収載されていません) 彼らはそれぞれの専門をもちながら、入院医療だけに従事する人たちで、今後のアメリカ医療の台風の目みたいな存在になっていく可能性があります。興味のある方は以下のサイトをごらんください。
http://www.hospitalist.net/

 もう一つDr. Moriから教えられた話で仰天だったのは、’Outsourcing Radiology’(外注放射線診断学)という分野のことです。日本では、内科などの初期研修で、研修医が腹部エコーや胸部CTの読影を一通りできるようになることは、はほぼ必修事項かと思いますが、アメリカでは、適切にそうした画像診断検査の指示を出す判断力の修得はレジデントに求めるものの、実際にフィルムを自分の目で判読したり、みずからプローベ(探触子)を握ってエコーの検査をすることは、その専門に進むレジデント以外には必要ないのです。すると何が起きるかというと、胸部写真もエコーもCTもMRIもすべて、専門医が送ってくる報告書を鵜呑みにするということになります。極端になると、デジタル化した画像情報をネットでインドやオーストラリアに送り、そこで待ち構えている放射線科専門医が読影の上、報告書を電送してもらい、その意見・結果をもとに診断するというころも起きてきます。患者を見たこともなければ、カルテや臨床経過もよくわらかないまま、画像情報だけを頼りに診断をつける何千kmも離れた海の向こうの放射線科専門医。実際に広大なアメリカにはそうしたやり方を取らざるを得ない地域の病院もあると聞きました。よきにつけ、あしきにつけ、まだまだこの国は、’Brave, New World’としてのサプライズを失っていません。

 Mori先生は、独特の関西弁で「患者はナマモノやから、大切にせなあかん」などと冗談を飛ばしていますが、実に心やさしく接し、それぞれの患者の抱えるソーシャル・ニーズにも答えようとしていました。渡米17年、もともと英語の得意だった彼の語学力は当然のことながら、いまや驚くべき域に達しています。資質と努力と自分に合った専門領域を見出して花開かせたという意味で、彼のようなFamily Physicianはアメリカ広しといえども、珍しい種類(rare species)なのでしょう。

 そこで思ったのですが、アメリカのテレビの医師ドラマに「House Season」というのがあって、先日私もシェア東京事務局の青木美由紀さんからシリーズの20数回分位をCDでいただき、よく見ています。あのドラマの主人公、ドクター・ハウスは、同僚にも部下のレジデントにも、屈折した教育的配慮からか、あらゆる皮肉を惜しまず、相手の奮起を促すべくわざと傷つけるような(abusive)な言動を繰り返す、大学病院のシニア・ドクターです。患者に対しても表面的な優しさはまったく欠いた人ですが、内科、外科、小児科、産婦人科、感染症科、熱帯病科、精神科、神経内科、内分泌科、腫瘍内科など、どんな科の難病患者・重症救急患者が来ようが、驚くべき博識と職業的カンを働かせて、最後には解決してしまいます。あの快刀乱麻ぶりは、まさにFamily Physicianの一つの理想のタイプを示していて、Dr.Moriとの共通性も感じます。

診療の合間に一瞬くつろぐMori先生

Mori先生は、しかし、いまのFamily Medicineのあり方にかなり危機意識をもち、自身の将来も含め、真剣に悩み、模索しています。一つには、政治的な潮流として、クリントン政権時代からブッシュ時代に変わって7年ほどの間に、もうかることがすべてといった医療のあり方が、大学病院のようなアカデミズムにもひたひたと浸透してきて、Family Medicineが掲げるような、社会的公正や弱者にたいする配慮といったことを大切にする医療思想があまり受けなくなってしまったというのです。患者教育や予防的な活動に対する報酬はほとんど認められない。そうした時代的背景を反映して、近年大学側からも診療報酬実績を上げること、患者数のバルク(bulk=量)を増やすことを求める圧力が強くなっており、一方で、Family MedicineのResidencyプログラムに入ってくる学生も、質が落ちてきたと、Mori先生は顔を曇らせていました。

DOってどんな医者? American Medicineに進出するOsteopathic Medicine

 皆さんの中で、DOという医療職が、アメリカの医療界の中で、MD(医師)とまったく同等の資格・権限・地位をもって働いているという事実を知っている方はどれくらいいるでしょうか。正直に告白すると、私は今回のアメリカ処女旅行に来るまで、DO(doctor of osteopathic medicine)という存在すら知らないという知識レベルでした。Mori先生のところを訪ねて病棟を見せていただいたり、ミニ・レクチャーで話したりする中で、名札にMDではなく、DOと記したものをつけている医師が数名いて、どういう人たちなのか初めて疑問に思ったのです。すると、Mori 先生の話や自分で調べた結果、DOがいまやアメリカのMedical Workforce(医師集団)の中で有力な一角を築いていることが分かりました。

 もともと、Dr. Andrew Taylor Stillという医師(MD)が、1874年に、当時のアメリカ医学が(いまもそうかもしれませんが)余りに投薬偏重で、人間の体を部分・部分に分けて考えすぎているため、治療学として非常に不完全なものになっていることに気づき、人体の全体性・連続性に基づく、一種のHolistic Medicine(全人的医学)として創始したと言われています。Osteopathic Medicineには適当な日本語訳がなく、手元の「英辞郎」でも、「整骨医療」という語が当てられていますが、それは、この医学のほんの一面を表現しているに過ぎないと思います。いろいろな裁判や軍隊でのDOの採用といった歴史的な事件を積み上げていく中で、この医学は米国社会の中で市民権を確立していきます。現実の医学教育プログラムとしては、Undergraduate(日本の医学部専門課程)4年間もMDと共通なら、教科内容も、MDのコースと一点を除き、ほとんど同じということです。それが、Osteopathic Manipulative Medicine (OMM)と言われる一種の整体療法のことで、これだけはMDにはない必修科目となっているようです。

 DOは卒業後、MDとすべての臨床科目に同じレジデントとして研修に入ることが可能です。伝統的には、これまではどちらかというと、Family Medicineや小児科、一般外科などのプライマリ・ケア分野に多くDOが進む傾向があったそうですが、今回Mori先生の門下で研修しているDr. Isabelle LaneというDOに尋ねたところ、彼女の先輩の中には冠動脈外科のスペシャリストになった者もいるということです。

 ちなみに、ネット百科事典「Wikipedia」によると、現在アメリカには125のMDの医学校がある一方、ODの学校は26校ですが、過去20年、徐々にODの養成機関は増える傾向にあり、現在のアメリカ国内のDO 数55,000人(全医師数の約6%を占める)が、アメリカ医師会(AMA)の予測では2020年には、95,400人になっているだろうということです。

 アメリカに特有の存在とは言え、DOが地域医療やFamily Medicineで歴史的に果たしてきた役割は大きく、今後、この勢力がどういう方向に発展し、自己主張していくのか、また本当の意味で創立者によるHolistic Medicineの精神を継承・維持していけるのかどうか、興味深いものがあります。

ひかりさんという伴侶 - 二人三脚の国際保健協力

 さて、今回も長たらしくなってしまった私の「ひとりごと#24」を閉じる前に、ぜひ、森川ひかりさんのお仕事も皆さんに紹介しておきたいと思います。Mori先生のことをすこし「ヨイショ」し過ぎたかどうかは別として、今あるMori先生の医師としてのすぐれた業績や人格は、ひかりさんなしでは達成できなかったことだけは、間違いないところです。ひかりさんが、Mori先生にとって最良の伴侶(better half)であるのは、ひかりさんにとって、Moriさんがbetter halfであるのと同じくらい本質的なことです。ひかりさんが、アメリカで、単なる「内助の功」を積むだけだったら、Dr. Moriはここまでがんばれたかどうか疑問です。彼女は夫をサポートしつつ、自分自身のキャリア開発(Career Development)をしっかりされてきたのです。そのことが、Moriさんを元気づけ、職業人としても彼を増幅した(amplify)と私はにらんでいます。

 雑誌記者をつとめ、インタビューや文章書きに得意なひかりさんは、2年かけて、Mori先生と同じく、ケース・ウェスタンの社会科学系のマスター・コース(修士課程)を1997年に終了します。Case Western Reserve University Mandel School of Applied Social Sciences (MSASS)というのだそうです。このコースでは、マネジメントとコミュニティ・デベロップメント(地域開発)を重視し、フィールドでの実習(Field Education)を最初から義務づけています。この課程を終了してソーシャル・ワーカーとしての資格を取得後、彼女は、アメリカ国内でのボランテイア活動と、夫と手を携えた国際保健協力という二つの道を歩むことになります。米国国内では、カソリック系の社会サービス団体が運営する、「難民オフィス」(Migration and Refugee Services)というところでスーパーバイザー(指導者)として働いたり、地元に住んだり留学する日本人のための、カウンセラーやボランティアとして尽くしています。また、海外では、Mori先生と一緒に、グアテマラで、工藤芙美子さんがJICA専門家として関わっている地域母子保健プロジェクトのトレーニング・ファシリテータを勤めてきました。ペルーでは、やはりJICAの「人権侵害及び暴力被害者住民への統合的ヘルスケア・プロジェクト」に、コミュニティでの暴力被害者ケアの人材育成担当者として協力しており、私がアメリカからグアテマラに移動した翌日の9月26日には、彼女自身もペルーへと旅立っていきました。これ以前、ドイツのNGO・Kinderbergが、コソボやアフガニスタンで行っている保健プロジェクトにも、夫妻で参加されていたと伺っています。

ひかりさんが丹精篭めて育てた庭の花々

 Dr. Moriの持論に、よいコミュニティ・ケアの実現のためには、治療的なことの質の向上と、予防教育やカウンセリング的なコンポーネントが車の両輪のように相伴っていくべきだ、ということがあります。その意味で、二人はそれぞれが磨いてきた専門性を生かし、それこそ二人三脚で国際協力を続けていると言えます。

まとめとして - アメリカの医療、看護の将来、日野原重明先生の発言

 アメリカの医療が、制度的にも、財政的にも行き詰まり、無保険者5000万人という現実の中で、医療サービスの公平性や近接性という面でも、待ったなしの大きな変革を必要としていることは、まちがいありません。最近評判になったマイケル・ムーアの映画「シッコ」に描かれた、こっけいなまでに悲惨な現実は、一面的な誇張という批判をする側があるとしても、多くのアメリカ人に、医療を受けられない人びとの問題は決して他人事ではないのだ、と気づかせたことでしょう。来年の大統領選挙でも、イラク戦争に次いで、医療制度改革が、共和党・民主党双方の候補者たちにとって、大きな争点になりつつあります。

 アメリカの医療のそうした深刻な病巣は、きちんと認識しなければならないとして、日本の医師卒後研修制度、看護師の役割などについて、米国から学ばなければならない点が、まだ沢山あるなと、今回の訪米で一層強く感じました。Dr. Moriが突き進んできた、Family Medicineの道はある意味で、医療の社会化(社会主義化ではなく)という、敬愛する若月俊一先生が生涯をかけて実践し、訴えてきたことを、アメリカという巨大な大地で実現しようとする志をもった人たちの、学問的・人間的運動だったのだとも思います。

 もう一つ大切なのが、看護のこと。この8月に、木村利人先生のお勧めで、「いのちの畏敬と生命倫理 - 医療・看護の現場で求められるもの」という2日がかりのシンポジウムに参加してみました。私の記憶違いでなければ、2日目の最後のセッションで、日野原重明先生が木村先生と対談することがあり、合間にフロアからの質問が出ました。看護師の方で、日本の「保健師助産師看護師法」がいまだに戦前の看護師観を引きずり、日本医師会の思惑もあって、看護師に「医師の診療上の補助者」の位置と権限しか与えていないことに対する、看護現場での困惑・憤りといったものを訴えていたように思います。それに対して、日野原先生は、実に穏やかな、しかしきっぱりした口調で、「それは法律を破ってしまうことですよ。そして裁判を起こして勝っていくしかありません」という意味のことを、こともなげにおっしゃったのです。一瞬の沈黙ののち、会場は爆笑に包まれました。私はそれを聞いて、なんてすごい人だろう、と思いました。看護師の自立やその仕事に対する深い理解がこの発言を裏付けているとしても、やはり彼は、アメリカ留学などを通して、ソロー流の「市民の抵抗権」といった、すぐれたリベラリズムの伝統を魂に刻んだのでしょう。

 参考までに、聖路加看護大学での学長としての最終講演で、日野原先生は以下のように語っています。
「ウィリアム・オスラーは、『平静の心』という講演集の中で、ジョンズ・ホプキンス病院の看護学校の第一期の卒業生に、こういう意味のことを言っています。「卒業生の皆さん、看護婦と医師の二つの職業を比べてみると、現在は医師のほうが世の関心と尊敬を多く受けている。だが、歴史的には看護職のほうが古くからあるのである。あなたがたナースは医師よりも名誉ある天職に就いていると考えてほしい」と。この講演は一八九一年になされたものです。一世紀以上も前に、ナースの役割は医療のスタートと同時にあったこと、それが非常に尊ぶべき仕事であるということを、勇気を持って発言したオスラー教授のような医師がいたからこそ、アメリカの看護はその後ますます発展することができました。けれども日本では看護婦の地位や役割は見過ごされてきたために、現在に至っても米国に比べて非常に立ち後れた状況と言わざるを得ません。」

 ナース・プラクティショナーが、医者と共同・協力しながら、同等の立場で生き生きと仕事している、アメリカの医療の一つの面は、やはり日本にとって学ぶべきことで、そのことも含め次回は、アメリカとカナダで垣間見た、ホームレス医療の現実を報告したいと思います。しかも、ファミリィ・フィジシャンやコミュニティ・ナースがこうした活動に果敢に関わっているのです。

 それでは、森川夫妻に改めて心からの感謝を表し、彼らの健闘と健康を祈りつつ、今日の長々しいひとりごと、もしくは大言妄語を終わらせていただきます。
 
 了(07.10.4)



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