見出し画像

Dr.本田徹のひとりごと(7)2005.7.19

教育の意味をみつめて
 ~菅原民生先生、「数学のひろば」を覗かせてください~

1.解と解とがぶつかりあって

 世の中には、正しい解答がひとつだけある問題と、そうでない、その人その人の生きてきた環境や歴史、自身で培い、あるいは他人に影響されて築いてきた価値観により、一人ひとり異なった答えが出てしまう問題とがあります。数学や物理の問題は、前者の代表で、最終的に見つけられた「解」は、通常、人や時代や国の違いを越えて、普遍的な「明晰さ」と「正しさ」を備えています。

 しかし、社会性を帯びた問題、たとえば、最近の「靖国神社首相参拝」や「日本国憲法改正」や「イスラムとテロリズム」といった問題は、それらを見る視点のちがいで、解はさまざまに変貌し、解どうしのきびしい対立が生まれ、感情的にももつれにもつれて、どうにも立ち行かない状況になってしまうことがあります。ひとつだけ解のある問題と、複数の解が対立的に存在する問題との間にある、救いがたい乖離をどう考えたらよいのか? 
後者の、とくに正解がひとつとは限らない、複雑で、歴史的にも、感情的にも絶望したくなるほど、入り組んだ問題に直面して、なんとか情理ともに尽くした、一致点・和解点を当事者間で見出すことは、現代政治のもっとも本質的な課題だと言えます。そして、こうした、大きな痛みを伴う問題へのアプローチにこそ、教育や文化の視点がもっと重視されなければならないのでしょう。

2.ことばによる共通理解は可能か?

 母親同士が師弟であったご縁で、私が40年以上にわたっていろいろな形で教えを受けてきた、数学者の菅原民生(すがわら・たみお)先生(前・長崎大学教育学部教授)は、数学的な問題を解くのに、さまざまな参加型・実体験型、あるいは視覚的アプローチを駆使して、子どもたちや教え子たちに創造的で科学的な考え方を身につけさせます。その過程で彼らが培った論理性を、解がひとつとは限らない社会問題に向き合うときにも適切に使って、問題を理性的に見、他人からの借り物でない、きちんとした意見や答えを探していく能力と粘り強さを養っていけるよう、一種の自己啓発・自己形成を促してくれる、すぐれた数学教育実践家と言えます。今年春、菅原さんが定年退官されたのを機会に、彼を慕う、学生や同僚たちがご本人の文章も入れて、記念文集を編まれ、私も一部CDを頂戴し、読ませていただきました。大学を出てから、すっかり数学とはご無沙汰し、1991年にタイ国マヒドン大学のAIHD(アセアン保健開発研究所)に留学したときも、医療統計学や疫学や医療経済学に使われる、ごく基本的な数学の考え方にさえ悪戦苦闘した覚えのある私には、菅原先生が市民や学生や生徒のために開いた「数学のひろば」の中の魅力的な(参加者全員で紙の正多面体を作ったり、知恵の輪を解く遊びをするさまを撮った写真は、素敵にそう見えます)ワークショップ風景に、羨望の眼差しを注ぐしかありませんでした。

 菅原教授は、2002年8月27日に長崎大学公開講座で行われた、「言葉と論理」と題する講演の中で、「異文化交流と言葉」という視点から、数学教育者としてみずから感じた危機意識を、「数学ばなれ、理科ばなれは、実は言葉ばなれではないのか。言葉ばなれが、国語を直撃することなく、数学と理科に現れたのではないか。」と語っています。
 先生と子どもの間にある、言葉による理解のギャップは、ある意味で異文化交流の問題として一般化されると菅原さんは考えます。「言葉が通じるためには、ただ同じ言葉を使うだけでは十分でなく、共通の認識が必要であり、それは普通、共通の体験を前提とします。したがって、共通の体験が期待できない異文化交流にあっては、ひとつひとつの言葉ごとに、共通認識は大丈夫かという確認が必要であります。」

3.論理力を磨こう

 そのために、菅原先生は、中学生くらいの年代に論理的に考える訓練を積んでおくことの大切さを痛感します。「論理感覚は言語感覚に組み込まれているもので、中学生という年齢は、言語感覚が完成する時期ではないかと思います。だから、私はかねがね中学生にきちんと形式論理を教えてみたいと考えていました。」(ホームページ「理屈をこねよう」より)
ある文章の否定文を正しく作ることで、論理的思考の基本を身につけていくことの助けになると、菅原さんは教えてくれます。そこで、例題が示されます。

例題1.「3の倍数は6の倍数である」の否定文を作りなさい。
解答例「3の倍数は6の倍数ではない」は誤答。正しくは、「3の倍数であっても、6の倍数でないものが少なくとも1つある」

「すべての何々がこうである」という形式の文章を、「全称命題」、「すくなくとも1つの何々がこうである」という形式の文章を、「特称命題」と言うのだそうです。そして、全称命題を否定すると特称命題に、特称命題を否定すると全称命題になります。例題1は実は、「3の倍数はすべて6の倍数である」という全称命題です。だから、それを否定すると正答文のようになるわけです。

例題2.「箱の中には、赤いチョークと白いチョークがある」の否定文。
これは箱の中に、赤いチョークと白いチョークがすくなくとも1本ずつはある、という意味ですので、特称命題となり、その否定は、「箱の中には、赤いチョークが1本もないか、白いチョークが1本もない」となるわけです。

 そして、このような命題の定立とその否定が、矛盾律と排中律という法則に従ったものであることを、菅原先生は次に教えてくれます。皆さんもよくご存知のように、矛盾という言葉の源は、韓非子に出てくる「ほこ(矛)」と「たて(盾)」の故事によるものです。

(1)この「ほこ」はいかなる「たて」も突き破る。
(2)この「たて」はいかなる「ほこ」によっても突き破られることはない。

この(1)と(2)が同時に成り立つことはありえない。つまり矛盾律とは、ある命題とその否定がどちらも正しいということはありえない、という法則なわけです。逆に、排中律とは、ある命題とその否定がどちらも誤りということはありえないという法則です。

 このような論理性を身につけておくことは、人が社会生活を賢く生きていくための知恵ともなるわけです。
 菅原さんは個人のサイトをもっていらっしゃるので、「われこそ」と思う方は、ぜひご自分で訪ねられて、確かめてください。質問や感想文も歓迎だそうです。「橋をめぐる山賊と海賊の戦い」、「知恵の輪」、「理屈をこねよう」、「否定文を作ろう」、「正多面体」など、じっくり時間をかけて付き合うと、非常に面白いし、啓発されること請け合いの中身です。
http://www.geocities.jp/sgwr0/

4.菅原先生、Bon Voyage! そして、靖国参拝への私見

ところで、菅原先生は今年のうちにパプアニューギニアに赴任され、現地の学校教育の現場で新たなチャレンジをされる予定です。彼自身が言っている、「異文化交流と言葉」という発想が、パプアニューギニアという、紛れもない異文化の地でどのように試され、そして菅原先生独特の解決法が編み出されていくのか、いまから興味津々です。どうか、ご健康にくれぐれも留意され、ご活躍されんことをお祈りします。
シェアの会員としても、彼はこれまで温かい支援を続けてくださっていますが、今年私どもが刊行した「実践力をつける!! 国際協力お役立ち本」をお送りしたところ、工藤芙美子さんの2つの講演から、とても参考になるヒントを与えられたとおっしゃっていました。「さすが!」と思った次第です。

 最後に、現実の社会問題でもある「靖国参拝」について一言。 私自身は、亡父がかつて日本遺族会で働いていたこともあり、桜の咲くころ九段会館に集まって、靖国にお参りする全国の遺族、とくに母親や妻たちの姿を子どもながらに眺めて、心打たれたことを鮮明に覚えています。ですから、遺族の心情に配慮することは当然だと思っています。一方で、日本が、先の大戦やそれに先立つ明治大正昭和時代の歴史の中で、すくなくとも、朝鮮や中国に対して侵略国家として振る舞い、多くの人々に大変な惨害を与えたことも決して忘れてはならないことだし、それについて国民として贖罪の気持ちを持ち続けることは、日本人の卑屈さをではなく、聡明さと謙虚さをあらわすものだと信じます。ですから、遺族がお参りすることと、一国の為政者が、参拝することをきちんと分けて考える必要があるでしょう。ちなみに首相の靖国参拝に関して、私の知る限り、もっとも情理ともに立った議論をしてくれているのは、梅原猛さんで、彼は最近こう書いています。「ひるがえって小泉首相はどうであろう。私は日本の神道は、天皇家の祖先である天つ神が滅ぼした国つ神を祀る出雲大社を伊勢神宮より大きく造ったことから考えても、味方とともに戦争で犠牲になった敵方を祀ることを重んじる神道であり、靖国神社のように味方だけを祀るのは、日本の神道の伝統に反すると再三批判した。」(「愛国人について」東京新聞 2005年4月25日) 
私たちの国が引き起こした戦争のために甚大な犠牲を強いられた、国々や人々の言い分をきちんと良心の明鏡に写し、日本が本当に近隣諸国とも世界とも調和して、なおかつ、この国のよき伝統にのっとって21世紀を生きていくために、梅原さんの声は傾聴するに値する意見ではないかと思います。

(2005年7月17日)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?