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男と女。


フェミニズムとは


日本では、フェミニズムというと、まだまだ強烈に偏った発言(男性嫌悪など)をするフェミニストの人たちが頭に浮かんでしまう人が多いのではないかと思う。


世界では今、認識が変わってきている。

フェミニズムは、男性も女性も平等であり、その多様性を受け入れること


「多様性を受け入れること」

この部分が肝である。


男性でも、家事が好きな人がいる。

女性でも、大工仕事が好きな人がいる。


性別によって仕事や生き方の機会が失われてはいけないし、

そういう意味で平等であるべきであり、

異性を貶めるような発言は、男性にも女性にもあってはならない。


違いを、違和感として感じるのは当然であるが、

否定からはポジティブなコミュニケーションは絶対に生まれない。


私の幼少期〜青年期


私自身の話をしたいと思う。

私は幼少期から青年期(30才ころまで)、自分のことを女性らしいとは思ったことが無かった。

幼少期の服装は極端にボーイッシュを好んだ。

おままごとではお父さん役をこなし、友達の女の子達をリードすることや優しくすることに快感を感じた。

対して男性にリードされることには拒絶感があり、男性との関わりを極端に避ける時期もあった。

女性を好きになることも度々あった。


私の壮年期


壮年期(30代〜)に入り、フォトグラファーとして生きることが、自分のアイデンティティーとなった時、魅力的な人間を撮ることに夢中になった。

私にとっての魅力的な人間とは、力の入っていない、嘘のない、本来のその人らしい姿である。

それがすごく美しいと思えた。

人を撮るために、人を見つめる作業は、人を知る作業だ。

撮影の度に、女性も男性も被写体であるその人を一時的に好きになった。

撮影に夢中になると同時に、自分を知る作業も自動的にはじまった。

男らしい、女らしいって何?と仕草を勉強してみたり。それを鏡で見てみたり、実際に写真に写ってみたり。自分のヌード写真を撮って女性としての体を客観的に眺めてみたり。

私はこの時期、いわゆる女らしく振舞うこと、女らしく写ること(世の中から見えること)に違和感を感じなかった。むしろ嬉しかった。

男性性と女性性が自分に同居しているのが嬉しかったし、それは自信にもなった。


私の結婚


37才で私は結婚した。

男性性の方が強いと感じていた私には、結婚生活に少し不安があった。一般的な妻らしさを発揮できるとは思えなかった。その点が大丈夫かどうか、結婚前後、何度も夫に確認をしたと思う。


実際に結婚生活を送る中で、自分があまりにも妻らしい(女らしい?)ことに驚愕した。

家族のために毎日の食事を作るのが全く苦でなかった。家族のために栄養の勉強をするのが楽しかった。毎日の家事も苦でなかった。家族の洗濯物をたたむ時間が幸せだった。連絡も無く遅く帰ってくる夫に激怒した。待つことが寂しかった。

それら全ての自分は、自分の母を見ているようだった。

母とは全く違う人種だと思っていたので、

とにかく意外だった。


母になった私


男の子のような幼少期、

男性が苦手で女性を好きになることが多かった青年期、

自分の女性性も男性性も心地よく感じた壮年期、

あふれんばかりの女性性に驚愕した結婚、

そして今、流産という節目を迎え、完全なる女性性と向き合っている。


子供は作ろうと思って妊娠したので、出来たと分かった時は当然嬉しかった。

ただ、実感はあまり無かった。


繋留流産(お腹の中にとどまったまま心拍がなくなる)となり、今私はすでに亡くなった子供と数週間を一緒に過ごしている。

妊娠が分かった時より、流産が分かった時に

私は子供ができて本当に嬉しかったんだなと、思わされた。

それは、体が反射的にその事実を悲しんだからだ。

頭では物質的に、生まれる前に亡くなっただけ、と整理しているのだが、

私の体は、頭とは関係なく、勝手に泣いた。


流産を経て、命を授かることができる母(女)がスペシャルな存在だと感じ、そして母になれたことを心から嬉しい体験として感じた。


変化し続ける自分**


私はたまたま人生の伴侶に男性を選び、子供を作るという道を自然に選んだけれど、

人生を歩む中で、周りの環境によっても、人は人格を変えるし、自分が男っぽいとか女っぽいとかどちらかに決めて人生を歩む必要はない

誰しも男性性も女性性もどちらも持っていると思う。


夫は交際時も今も、私を女性として見ていると思う。だからといって、私が女らしさから外れたとしても、全てを許容してくれるだろう。

どんな私でも許容してくれる。


私は彼が男だから人生の伴侶として選んだわけじゃない。

けれど、彼の男らしいところも好きだし、男らしいくないところ(地図が読めなかったり、メソメソしたり)も嫌いではない。

女性らしいとか男性らしいとかいうのは、ただの言葉。

人としてどうなのかが重要なのだ。


だから、機会はみな平等であるべきと思うのだ。


そして男女間で互いを否定し合うような行為が、いかに無意味なことなのか、
私自身が変化していく体験をして、思うのだ。

女性らしいとか男性らしいとか言う言葉を否定する必要もない

女性らしいのも男性らしいのも、ステキなこと。

どんな自分も抱きしめる。



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