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社会的養護の意義

日々の業務に追いかけられて、仕事の時間がベルトコンベアに乗せられている気がします。おそらく仕事ができるの意味は自分で周りをコントロールできるようになってからだと思うのですが、その日が来るのかどうか今のところ予想も付きません。

若い職員のように体力もありません。子どもたちについていける瞬発力も持久力もありません。自分の出来ることと言えば、精々その時間その場にいて彼らの安全と安心を見守るくらいのものだと思えます。それが価値がないこととは思いませんが、本当は18歳になるまでにあんなことも身に着けてもらいたい、こんなこともできるようになってもらいたいという生活+αは望むべくもありません。

ココに措置されている子どもたちは生きる事すら危ぶまれていた生活をしていました。満足な食事も与えられず、学校にすら行けてなかった子もいます。そういう子に生活の場が与えられることは本当に意義あるだと思います。福祉の仕事は「連携」で成り立っています。でも「連携」と言う名の人任せになっていないかと最近考えます。人に任せないと自分が持たないのも十分に分かります。

みんなで育んでいく、ココを出ても見守っていくという気持ちはあっても次から次へとやってくる措置児童に気持ちを切り替えてやっていくのはストレスのたまること。1人に入れ込みすぎてもいけない、さりとてドライすぎてもいけないという塩梅のつけかたも含めて一つひとつ軸足を決めていくことが当座自分に課せられたミッションと考えています。