大人への階段


僕は22歳の大人である。


2年ほど前に成人を迎えた立派な大人である。


強く、たくましく、儚くも気高き成人男性である。




とはいうものの、中身は大人とは言い難い内容となっている。



”子供っぽい”という表現より、”幼い”という表現が適しているように感じる。



僕は2人兄弟の末っ子に生まれた。


姉とは1つしか歳が違わないために、家庭内で弟感を味わった記憶は無いのだが、末っ子気質は確かに宿っている。



ましてや、生まれは3月である。


同学年の中でも、かなり遅く生まれた訳である。

4月生まれの人と比べるとほぼ1年近く遅く生まれているので、僕らの学年の中でもやはり末っ子的な立場なのである。


ゆえに、精神的に幼い部分が強く残っているのだと思う。



僕は未だにどうしても歩道の縁石を歩きたくなってしまう。



22歳になった今でも歩きたくてたまらないのだ。


さすがに一人で歩いている時には、その欲望を何とか抑えて歯を食いしばりながら歩道を歩くのだが、誰かといる時や夜中人通りのない時などはやはり歩いてしまうのだ。


これが身長151㎝のふわふわ系女子何かであれば許されるわけだが、如何せん身長180㎝のガテン系肩幅広男となれば合法スレスレなのである。



その他にも、公園の鉄棒を見て全力で逆上がりをしたくなったり、


エスカレーターで脇目も触れずに逆走したくなったり、


車の発進時に「ブーン」と言ってしまったり、



確実に今でも心の中には少年時代の僕がしつこく居座っているのである。



そろそろ僕も大人にならなくてはと思ってる所存である。






が、大人になることが全て正しいとは思えない。






僕は喫煙者である。



タバコを愛する好青年である。



エッセイや漫才のアイデアを考える際には欠かせない相棒である。



とはいえ、タバコは身体によくない。



健康に害を及ぼす成分が多く含まれている。


自分だけでなく、周りにいる人にも害を及ぼすものである。



ゆえに、僕たち喫煙者は非喫煙者に対して一層気を遣うべきである。



しかし、実際にはマナーが悪い喫煙者がたくさんいる。



路上喫煙禁止区域で何食わぬ顔で喫煙する輩。


吸殻を平気でポイ捨てする輩。



そういう人たちが減らないがために、世の中から喫煙所は減り続け、税率が高くなるわけである。



至極当然の結果である。



そういう人たちが減ってくれるのならば、僕はタバコが1箱1000円になっても大いに結構である。


タバコを本当に心から愛するなら、1箱1000円でも買うだろう。


そこまでの覚悟のある人なら、タバコマナーもしっかり守るであろう。




僕はタバコのマナーが悪い人を見ると心から腹が立つ。


タバコに限らず、マナーの悪い人を見ると許せない。



昔から、無駄に正義感が強いのだ。



しかし、”マナー”というものは”ルール”とは異なり、必ず守るべきものではないし、罰則もない。


マナーというのは、多くの人達が気持ちよく過ごせるために存在するものである。



つまり、マナーというのは心遣いである。


ゆえに、裏を返せばマナーを守らない人というのは、他者を思いやる気持ちが無いということである。



そんな非情な行動をする人を見ると、僕は許せない気持ちになる。



街中を歩いていると、嫌でも必ずどこかでそんな人を目にする。



が、もちろんそれを注意することはない。



面倒な揉め事に巻き込まれたくないからであるが、率直に注意する勇気がないだけである。


何度かはあまりにひどくて直接注意したこともあったが、それもわずか数回程度である。



ほとんどの場合は、ただ全力で視線に怒りを込めるに過ぎない。



他者を思いやる気持ちの無い場面を見て怒りを覚え、それを見ても何もできない自分自身にさらに怒りを覚える。



現状では何も起こらず、ただ1人で怒りを覚えているだけである。




かと言って、前述したようにあくまでマナーである。




法に触れている行動でもなければ、違反行為でもない。



ましてや、僕自身が直接迷惑を被っているわけでもない。



いわば、僕自身には何の関係もない話である。



ただ、1人で勝手に気分を害しているだけである。




どうしてこんなに自分ばかり損をしなければならないのかと考え、最近はもう見て見ぬふりをすることにした。



見て見ぬふりというか、全く別次元で行われていることだと思うようにした。



自分ではない他者の出来事。


自分には不利益の無い出来事。


自分には一切関係の無い出来事。



そうやって考えることで、僕はすごく生きやすくなった気がした。


余計なことを考えないようにすることで、僕はすごく楽になった。




”生き方”が上手くなった気がした。



”大人”になった気がした。






ただ、同時に本当にそれが良いことなのかと疑問に思った。






確かに、考え方を変えることですごく生きやすくなったし楽になった。




これまでの考え方と比べると、遥かに大人な考え方にはなったと思う。






ただ、同時に正義感も失われた気がした。






僕は警察官ではないし、有り余るほどの正義感を持っていたとしても意味はないし、正直無駄な正義感だと思う。




でも、だからといってあっさり捨ててしまうことは良くないと思う。





自分が生きやすいがためだけに、ちゃんと向き合わずに考えることを止めるのは良くないと思う。





大人になることは大切である。




僕自身大人にならなければならないところも多くある。




でも、大人になるということが全て正しいとは思えない。




大人になることで大切な何かを失ってしまうことも多くあると思う。




処世術を身につけて、上手く生きていくことだけが大人になることではないと思う。






大人への階段。




果てしなく天へと続く階段。




僕たちが一生かけて上っていく階段。




別に急いで上る必要はない。




周りがすさすさ上っていくのを見て焦る必要はない。




ゆっくり自分のペースで上れば良いと思う。




もしかしたら、他にもっと良い階段があるかもしれない。




みんなとは別のおしゃれな螺旋階段が近くにあるかもしれない。




大事なのは、一段一段”大人になる”という意味を考え続けて上ることだと僕は思う。




良くないのは、周りに流されて「そういうものだから」と何となく上ってしまうことだ。




辛くても損をしてでも、自分の足で上るべきだと思う。




そうでもしなければ、すぐにでも人間はAIに敵わなくなってしまうだろう。





僕は考えることを止めない。





「考え過ぎ」や「ネガティブ」だとか言われようとも、ひどい虚無感に襲われようとも、僕は今日も考え続ける。





そこに大切な何かがあると信じて。










水瀬
























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