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短すぎた夏

今から18年前の2004年、発祥の地であるギリシャのアテネでオリンピックが開催されました。

日本選手団は躍進し、柔道は野村忠宏、谷亮子ら8階級で金、競泳の北島康介は平泳ぎ2種目で金、男子体操団体はゆずが歌うNHKテーマソングのフレーズに合わせた名実況「栄光の架け橋」と着地を決めて金。陸上ではマラソン野口みずきとハンマー投げ室伏広治が金、当時歴代最多の16個の金メダルを獲得、大いに盛り上がりました。

陸上の会場はメイン会場であるオリンピックスタジアムでしたが、マラソンのスタートはマラトン、そして砲丸投げのみ世界遺産のオリンピアで開かれました。


そのオリンピアで女子砲丸投げに出場した森千夏選手のお話です。

この方の名前をご存知の方はいますか? あまり多くないかと思います。

大会序盤に出場し、結果は

15m86 予選敗退

予選通過記録が18m16と設定されており、彼女が同年マークした18m22に近い記録を出せば決勝進出できたのですが、遠く及びませんでした。初のオリンピック、大舞台でのプレッシャーに負けてしまったのでしょうか。

当時24歳の森千夏さん、東京都江戸川区出身で、中学校で砲丸投げを始め、全国3位となりました。高校は陸上の名門東京高校に進みインターハイで優勝、その後国士舘大学に進み2000年には日本新を樹立、2002年アジア大会で5位入賞。2003年に実業団のスズキに入社。同期に後に”美人ジャンパー”として活躍し人気のあった走り幅跳びの池田久美子選手がいました。池田選手とは親友だったそうです。

そして2004年に日本新の18m22を記録。見事にアテネの切符を掴みました。

先程、プレッシャーに負けたのかと言いましたが、実際は代表に決定してから体調を崩して練習もろくにできない状態で本番に臨んだのだそうです。

帰国後、病気は悪化し、入退院を繰り返すようになり、翌年、虫垂がんと診断されました。

症例が少ない病気で治療が保険適用外ということで費用も莫大になり、寄付を募ろうと日本陸連や池田選手、ハードルの為末大選手なども競技場で協力を呼びかけました。

本人も復帰を目指して治療中カメラの前で明るく振る舞ったりファンへ手紙を書いたりしたものの、翌2006年8月、26歳の若さで亡くなりました。

通夜で為末さんは「16mの日本記録を18mまで伸ばして頑張ったから天国ではゆっくり休んで」と弔事を読みました。

1cmを争う種目の日本記録を9回も更新し、2mも伸ばしたのでした。以前の日本記録では、同じ記録を出してもオリンピックに標準記録に満たせず、出場すらできない程度でしたから、この種目でオリンピック出場は快挙と言えるでしょう。

親友の池田選手はその後奮闘し、日本記録を樹立して、2008年の北京オリンピックに出場しました。「森さんと二人で北京でメダルを獲ろう」と約束をしていたのだそうです。

中学時代から全国入賞し、エリート選手で才能や体格に恵まれたように見えますが、ノートには動きなどぎっしり書かれていて、女子砲丸の強豪国である中国の上海体育学院に短期留学を繰り返して技術を高めるなど、探究心もあり人の何倍も努力をしていたのだそうです。また学生時代、授業中机の中に砲丸を忍ばせたり、寝る時も枕元に砲丸を置いたりするほど、砲丸を愛していたのだそうです。

闘病中も「治ったら次のオリンピックに出る」と話していたそうで、病気が進行して自分はもう無理とわかった時には、「コーチになって選手をオリンピックに連れていく」と言っていたのだそうです。そこまで強い意思があったのです。

アテネの2004年で24歳でしたから、もし病気がなければ、2008年、2012年とオリンピックに出れたかもしれません。技術も円熟味を増していけば19mも投げれたかもしれません。メダルは難しいかもしれませんが、決勝には行けたでしょう。2007年には世界陸上が大阪で開かれましたので、日本でも世界を相手に活躍する姿が注目されて、もっと有名になっていたに違いありません。

彼女の1学年上でスズキのチームメイトだった男子やり投げの村上幸史選手は2009年ベルリンの世界陸上でこの種目初の銅メダルを獲得しました。

元気だったなら、同じ舞台で偉業を見れたのかもしれません。あるいは本人も成し遂げていたかもしれません。

2022年5月現在、女子の砲丸投げの日本記録は未だに森千夏さんの18m22のままです。

2位が17m台ですから、未だに日本の歴代唯一の18mスローワーなのです。

もっと夏が長かったら……




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