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昭和の怪物 偉人伝

みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。

今日は通院しまして11時30分の予約で、混むことが予想されていたから12時に行ったのですが、診察を受けたのは14時50分頃となり、予約とはなんなんだろうと思いました。

今日はスポーツニュースやバラエティー番組などで親しみやすいキャラクターで長く活躍しているおじさん江川卓さんについてです。

実は昔いろんなこともあったものの偉大な野球選手だったのですが、ネットの情報だけでなく、かすかな記憶をたよりにお話しします。


異次元高校時代

栃木県の作新学院高のエースで大活躍していたそうです。

公式戦でノーヒットノーラン9回、ノーヒットノーラン無四死球試合4回、完全試合2回、20完封、36イニング連続無安打無失点、1試合(9イニング当たり)平均被安打2.6(投球回数354、被安打103(被本塁打0))、防御率0.41(投球回数354、自責点16)、県予選合計被安打2での夏の甲子園出場、選抜高等学校野球大会における一大会通算最多奪三振60および8者連続奪三振、春夏通じた甲子園における奪三振率14.0練習試合含めて145イニング連続無失点など、今なお破られていない数々の記録を残している。

ノーヒットノーランって、超高校級と呼ばれる投手でもせいぜい1,2回ではないでしょうか。なのに9回って?意味がわかりませんね。マンガの世界でしょう。

通常、県予選の初戦は多くの場合、両校の応援団や関係者、一部の高校野球ファンが観戦する程度で球場の外野応援席はガラガラとなることが多いが、作新学院の初戦となる2回戦(対真岡工戦)では、怪物・江川を一目見ようと球場は2万人の大観衆で超満員となった。以降も作新学院の試合がある日は、江川見たさに来る車が宮城や東京、愛知などの県外を含めて5000台以上にもなり、球場周辺一帯の道路は試合当日朝から大渋滞で完全に交通マヒとなり、40人以上の警察官が動員された。また、急遽隣接する軟式野球場を解放して臨時駐車場とするなど、関係者も対応策に追われた。

以前当時の写真を見たことがあるのですが、想像を絶するような光景でした。おんぼろの球場のスコアボードの上に人がたくさん乗ってたりして、密集ぶりが危険なほどで、人気の凄まじさを物語っていました。

甲子園の通算成績は6試合、4勝2敗(負けた2試合はいずれも自責点1での敗戦)、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で奪三振率14.0は、横浜・松坂大輔、駒大苫小牧・田中将大、東北・ダルビッシュ有、大阪桐蔭・藤浪普太郎など並み居る歴代の好投手と比較しても、ずば抜けた断トツ1位の記録である

新聞などでは記事の見出しを普通なら「作新の江川」と書くのを「江川の作新」と書いていたそうです。1選手がチームを先行するって。

1973年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否している。江川は阪急の1位指名を蹴り、慶應義塾大学1校に進路を絞って受験したが、不合格となった。慶應大学不合格はこの日のNHKなど各テレビ局の昼のニュースのトップで報じるなど大きな話題となった。一高校生の大学受験結果がテレビのトップニュースになることは極めて異例のことである。

普通にテレビ観てて「江川卓、慶大受験失敗」ってニュース速報が出たのだそうです。その当時の様子を後のテレビ番組で観たことがありますが、あり得ないですね。


スター揃い東京六大学時代

東京六大学の法政大学に入学し大活躍しました。

法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学野球リーグ戦に登板。
法大の同期には、植松精一(阪神)、楠原基(日本生命)、金光興二(三菱重工)、島本啓次郎(巨人)、袴田英利(ロッテ)、徳永利美(新日鉄)ら甲子園を湧かせたスターが集まった。ライバルの早稲田大学には、山倉和博(巨人)、佐藤清(日本生命)、白鳥重治(日産自動車)らが入学し、法大の花の49年組とともに神宮を湧かせた。なかでも山倉は南海ドラフト2位を蹴って早大に入学しており、江川が大学時代に最も恐れた打者であり、のちには巨人でバッテリーを組むことになる。
1976年から1977年の法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。なかでも1976年秋季リーグでは、投手は野手と比較して打席に立つ回数が少ないにも関わらず規定打席に到達、38打数13安打で打率.342(リーグ2位)、本塁打2本(リーグ2位)、打点10(リーグ1位)の好成績を挙げている。このときはもちろん法大の規定打席数以上の選手の中では3部門すべてにおいてトップであった。通算47勝は山中正竹(法大)の48勝に次ぐ史上2位。

大学時代は投手だけでなく打者としても活躍していたのですね。

法大4年生時の1977年秋のドラフト会議では、法大の大先輩・根本陸夫新監督率いるクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡市を本拠地としていたクラウンに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。このときのことをのちに江川は、「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため、遠距離交際を避けられる在京セ・リーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている

遠距離交際が遠いから嫌だって...江川さんは大の飛行機嫌いでも有名ですね。


江川事件を経てプロ入り

1978年度ドラフト会議の2日前に急遽帰国した江川は、ドラフト会議前日の11月21日、(ライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で)巨人と電撃契約した(通称「空白の一日事件」)。セリーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコットした。当のドラフト会議では、巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海、近鉄、ロッテ、阪神の4球団が江川を1位指名し、抽選の結果、阪神が江川との交渉権を獲得した。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効である」と主張して、江川に対する阪神の交渉権を認めなかった。この問題はこじれにこじれたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、1979年1月31日、江川は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになった

こじれにこじれ巨人のドラフトボイコットやコミッショナーがでてくるまでの騒動だったようです。


プロ野球巨人時代

開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。

事件の関係からデビュー自粛というのもなかなかのエピソードですね。

プロ2年目の1980年には、261回1/3を投げ、16勝、勝率.571、防御率2.48219奪三振、18完投で、最多勝利と最多奪三振を獲得しベストナインも受賞するも、沢村賞は該当者なしにされた。

投手の最高の栄誉である沢村賞というのがありますが、プロ野球の戦術が当時の現在とはことなりますが、今なら確実に該当しています。

3年目の1981年には、240回1/3を投げ20勝6敗、勝率.769、防御率2.29、221奪三振、20完投で最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率のタイトルを獲得、項目外の最多完封(7完封)も達成し、投手五冠王に輝き、チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた。最優秀選手に選出され、ベストナインも受賞したものの、沢村賞は同僚の西本聖の受賞となった(当時の沢村賞はプロ野球担当の新聞記者による投票で決定)。勝ち星(江川20、西本18)、勝率(江川.769、西本.600)、防御率(江川2.29、西本2.58)、奪三振(江川221、西本126)、完投数(江川20、西本14)は江川が上、登板数(江川31、西本34)、投球回数(江川240回1/3、西本257回2/3)は西本が上だった。このことをきっかけに、巨人ファンやそれ以外のプロ野球ファンから同情の声が多く集まって、空白の一日事件から巨人入団までの顛末によるマイナスイメージが徐々に薄れて、イメージ的には「怪我の功名」となった。大正製薬、不二家などのCMにも出演。

投手五冠王で20勝で、それを下回った18勝の西本さんが受賞とはほぼイジメのような感じがします。嫌われ者からテレビCMに出れるようになったのは良かったのでしょうが。

1984年は、ナゴヤ球場で行われたオールスターゲーム第3戦で8者連続奪三振を記録。このとき5人目の打者として対戦した落合博満(ロッテ)は、「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している。しかし、9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった

オールスターでは投手は最大3イニングしか投げられない為、9アウト全て三振の江夏さんが歴代1位、8連続の江川さんが歴代2位はいまだに変わっていません。いかにスゴイかわかりますね。

1987年、9月20日の対広島戦で、4番・小早川毅彦に2打席連続で本塁打を打たれ、2本目の本塁打は逆転サヨナラツーランでこの日3失点で完投しながら敗戦投手となり、江川は小早川がベースを一周する間ずっとマウンドに膝をついて呆然としたまま動くことが出来なかった。これをきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した

現役最終年も13勝しており、近年ならば最多勝のレベルでした。しかしながら肩の故障で限界だったようです。

通算成績(9年) 135勝72敗 防御率3.02 奪三振1366

200勝で超一流の名球会入りですが、遠く及ばないもののわずか9年しかプレーしておらず、勝利が敗戦を63も上回るのは超一流と言えるでしょう。


特徴

江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている(プロ入り後の最速は154km/h)。2021年12月4日のGoing!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年の中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された。
江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。

球種が少なくて、打者からすれば来る球が読めるのに、それでも打てないのだからいかにすごかったのかとわかりますね。

ボクの小学生の頃に江川さんの現役の後半でしたが、横浜スタジアムで観た当時の大洋のエース遠藤一彦さんとの投げ合いは見ごたえがあるだけでなく、大洋はだらだらと試合が21時半、22時近くまで続く試合が多い中、21時前にあっさり終わるくらいテンポの良い投球だったことは印象深かった記憶があります。

現代とは時代が違うので比較にならない部分も多くありますが、国民に強烈なインパクトを与えたスターであったことは間違いないですね。


それではまた。



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