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ヴァスコ・ダ・ガマの残虐な海賊行為

ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した最初のヨーロッパ人として有名なポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマですが、その手法は残虐で海賊的な行為でした。

一度目の航海

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは、インド・カリカットに到着。ゴマや香辛料を船に載せてヨーロッパに持ち帰り(寒冷なヨーロッパではゴマや香辛料を生み出す植物は生育しなかった)、大きな売却益を得ました。これらは、ヴェネチア商人が独占していた商売でしたが、この航海で、直接仕入れることで大きな利益が得られることが分かりました。

二度目の航海

1502年、ガマ二回目の航海。まずは東アフリカで繁栄していた港町キルワに上陸。いきなりその沖合で大砲を放ち、キルワの王を呼びつけ、毎年ポルトガル王への貢物として金を支払うことを条件として和平と友好の関係を結びました。当時のインド洋海域でも、これは考えられない非常識な行動でした。それだけポルトガル戦隊の武力は圧倒的であり、キルワの王はそれに従わざるを得なかったのです。

その後、ガマの戦隊は、インド・ケララ州のカンナノール(カンヌール)沖に到着すると、紅海方面からカリカットに向かう船を待ち伏せしました。メッカへの巡礼を終えた240人とも380人とも言われる男と女子供が乗った船が現れると、ポルトガル戦隊は大砲を撃ってこの船を停めました。身代金を払うから見逃してほしいという願いもガマは許さず、財宝を略奪後、人々を乗せたまま火をつけました。助けを求めて泣き叫ぶ婦人や子供にも顔色一つ変えなかったといいます。

その後インド・カリカットに至ったガマの戦隊は、冷静に交渉を進めようとするカリカット王の提案を相手にせず、通りかかったムスリムの小舟を次々と捕縛し、先に捕虜にしていたムスリムを処刑してそのマストにぶら下げたといいます。その数34人と伝えられています。その後コーチンやカンナノールでゴマや高級香辛料を大量に仕入れ、さらに何隻かの船を略奪して、1503年ようやくポルトガルへの帰路につきました。しかしポルトガル人が完全撤退した訳ではなく、5隻の船がポルトガルに戻らずそのままインド洋に残り、拠点としてケララ州・コーチン(コーチ)に設置された商館を守ることになりました。ガマは、この航海で大量の物資を本国に持ち帰りその売却益は巨大なものとなり、更に莫大な富と名声を得たのでした。尚、ガマはその後1524年にはインド総督としてゴアに派遣され、その年ゴアで死去しています。

最後に

日本では、「勇気ある冒険者」として肯定的に語られるヴァスコ・ダ・ガマですが、その富の多くが、現地の慣習や事情を無視した暴力的な商取引とインド洋を航海する船の略奪、多くの罪のない人々の殺害によって得られたものだったことも理解しなければなりません。歴史とは奥深い。

参考図書:2017年「東インド会社とアジアの海」羽田正


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