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空色の気持ち──『オーデュボンの祈り』読了


灯りのない真っ暗で静かなる夜景。丘の稜線を照らす夕陽。丘の上に広がる邪魔するものが何もない青空。そして、日比野が塗った空色のバス。荻島の空色は実に美しい。 訪れたこともない島の色が目に浮かぶようだ。読み終えた直後の私の気持ちはまさに空色だった。


いやはや全く伊坂幸太郎の作品ってのはどうしてこうも読後が晴れやかなのだ。あらすじを読んでも訳が分からず、いざ読み始めたところで状況がすぐに飲み込める訳でもなく、常に爽やかで非常に好感の持てる登場人物ばかりというわけでもないのに、一体全体なぜ読み進めるうちに堪らないほど口角が上がってしまうのか。あー、気持ちいい。痛快極まりない。他ではなかなか味わえないこの感覚。読書が私にくれる快感をぎゅっと凝縮したような後味。やっぱり読書は面白くって大好きだ。伊坂幸太郎を読む度にそう思う。


『オーデュボンの祈り』、名前こそ知りつつ読んでいなかったこの本を買ったのは友達からの推薦だったからだが、思い返せば伊坂幸太郎に初めて出会ったのも人からのススメだった。ある日友人の家に遊びに行っていたとき、友人の父が何の脈絡もなく私に本を貸してくれた。○○ちゃん本読むよね?これ面白いから良かったら読んで。たしかそんな感じで唐突に渡された。当時の私は、確かに幼い頃は読書好きであったものの歳を重ねるにつれ離れ、日常的に読むほどではなかった。更には気に入った作品を繰り返し読むせいで作家にも特段詳しくないから伊坂の「い」の字も知らなかった。が、借りたものを読まないわけにもいかなかったので、失礼ながらも義理程度に読み始めた。

するとなんとまあ面白いこと面白いこと。夢中になって読破し、面白かったです!!と興奮気味で返した。そしたら友人の父は大いに喜んで、そのまま私にその本をくれた。なんなら他にも伊坂の本をくれた気がする。そのときの詳細な記憶はあやふやなのに、読後の高揚感だけはしっかりと覚えている。そのときから私の日常には「空き時間は読書」の選択肢が舞い戻ってきた。小学校のわずかな休み時間、中学校の義務的に作られた謎の読書タイム、嬉々として本の世界に入り込んでいたわたしが、数年の時を経て復活した。特に何を見るではなく眺めることで失っていたスマホの充電は本を読むことで保ちがよくなったし、電車の移動時間が急に縮まった。

だからなのだろう。数年経った後に書評を書く機会が訪れたときもその本、『死神の精度』を選んだ。そもそも本をあまり頻繁には読まないから、単に直近で読んだ作品がそれくらいしかなかったのもあるのだけれど。ただ、結果としてはその書評が小さな規模の中であるものの最優秀賞を獲り、文章への自信を私に与えてくれた。そのおかげもあって今私は、1年半以上noteを書くことで自尊心を保てている。

まさか自分がここまで文章を綴ることをココロの依り所にする人間になるとは思ってもいなかった。これまで読んだ作品数は読書家といえるほどには無く、正直少ない方だろう。知ってる作家は限られているし名作と呼ばれる有名人どころも殆ど読めていない。それでも私は本が好きだし読書が好きだと胸を張って言える。私は出逢うべきタイミングで作品と出逢い、読むべきタイミングで読んでいる。そんな気がしている。果たしてどこまでが偶然でどこからが必然なのか。

読書は私にとって優午に近しい存在なのかもしれない。ここまで書いてふと、そう思った。

ちなみに私の座右の銘はいくつかあるのだけれど、そのうちのひとつは「NO MUSIC,NO LIFE」だ。サックスの音色が特に好きな私が今この作品に出会ったこと、はてさてこれまた偶然か、それとも必然か。



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