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日本人はなぜ無宗教なのか~読書記録304~

1996年 宗教学者の阿満 利麿(あま としまろ)先生によって書かれた書。


いまや日本人は自分たちを「無宗教」と規定して、なんら怪しむことがない。しかし、本当に無宗教なのだろうか? 日本人には神仏とともに生きた長い伝統がある。それなのになぜ「無宗教」を標榜し、特定宗派を怖れるのか? 「……私は、宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとって最も基本的な営みだと理解している……」。著者は民族の心性の歴史にその由来を尋ね、また近代化の過程にその理由を探る。そして、現代の日本人に改めて宗教の意味を問いかける。

阿満 利麿(あま としまろ、1939年12月20日)は、日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授。専攻は宗教学、日本思想史。
京都市生まれで、生家は西本願寺の末寺であった。1962年京都大学教育学部卒業。
1962年4月にNHK入局。教養番組のチーフ・ディレクター等を経て、1987年4月明治学院大学国際学部新設に伴い国際学部教授として招聘。担当科目は「民族学(フォークロア)」、「仏教文化論」、「日本文化論」など。国際学部長、大学図書館長などを歴任した。2006年3月依願退職し名誉教授。
退職後は、同志とともに「連続無窮の会」を創設し、同人。浄土宗・真宗系の関係者によるシンポジウムや講演にも多く参加・関与している。「念仏者九条の会」の呼びかけ人でもあり、憲法九条改正反対のための運動も行っている。


今まで私が本を読んだり、講演会にて話を聴いた宗教学者は戦後生まれの方たちだった。団塊世代の方が主だったが。
そして、どちらかと言えば左系だ。
この阿満先生は、戦前生まれであり、実家が浄土真宗寺院であることから、以前に読んでいた宗教学者の先生らとは違う視点であったので、私的には新鮮であった。
最後の方は、浄土真宗の広告というか、布教というか、それにページが割かれてしまったような気もするのだが。

まず、「宗教」とは何か?
宗教という言葉自体が明治維新後に出来た言葉なのだそうだ。そもそも、急いで欧米列強諸国に追いつかねば、アジア諸国の他の国と同じように植民地となりかねない中、明治政府の作りだした言葉だ。
士農工商が廃止され、明治憲法が発布された時に、国民ではなく「臣民」と言われていた。
実は、江戸時代の終わりまで、庶民の多くは天皇の存在など頭になかったのだ。明治政府は国を纏める為に、天皇を担ぎ出し、国民ではなく臣民と呼び、廃仏毀釈など行った。実際、その時代の廃仏毀釈により、寺のない町というのも全国にはあるようだ。

著者は頻繁に「創唱宗教」と言う言葉を使われる。これは初めて聴く言葉なので、著者の言い回しなのかもしれない。
日本人は無宗教と言うが、自然宗教というものを持っている。著者は言われる。
日本人が「自分は無宗教だ」と言うが、キリスト教圏で言う「無神論者」とは全く違うのだ。現に、多くの人は神社に初詣に行くであろう。

「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。教祖と教典、それに教団の三者によって成り立っている宗教と言い換えてよい。代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。(本書より)

そして、日本人の中には「宗教は怖い」という考えの人も多く、「無宗教です」と言った方が良いの結論に達する。
私の個人的な感覚なのであるが、仏教の場合、浄土真宗門徒は違うが、他は寺に生まれた人、出家した人は「仏教の何々宗です」と言っても構わないが、一般の檀家ごときは、失礼に当たるから「真言宗です」「曹洞宗です」などとはとても大手を振って言えないのだ。何しろ、般若心経を暗記していないし、座禅よりもテレビを観る方が好きとか、こりゃあ、「仏教徒です」なんて言ったら失礼に当たる、と思っている。

というか、多くの日本人が考える宗教とは、オウム真理教やら統一教会やら創価学会やらだと思う。必死に稼いだお金を献金し、自分は服も買えないのに教祖は肥え太ったりしているような、そんな感じだ。

自然宗教は古くから日本にあり、当たり前に神社が守られてきた。

明治政府は、国民を支配する為に国家神道を作り、天皇を利用したのだ。
天照大神の子孫である天皇の絶対性を強調し、昔からあった神社も振り分けをした。
大国主命を祀った神社などは排除される側であったのだ。
更に、当時の神主は官僚でもあったので、神社の数も減らすこととなった。
そして、廃仏毀釈も行われ、僧侶の職を奪われた者も多くいた。

日本人が昔から持っている「自然宗教」と、明治政府の作った国家神道は違うものだというのは、他の宗教学者も言うことであるし、私も思う。

著者の姿勢は、あくまでも「浄土真宗門徒」だ。親鸞聖人の教えを一番にする。
その視点で見ると、こうなのか!と納得するのだ。

私の個人的な意見では、昔からの村や町にある鎮守さま。観音菩薩、それらを拝み、「宗教はないです」でいいと思うのだ。
イスラム教徒やキリスト教徒のように排他性の強いものはゴメンだ。



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