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宗教のきほん なぜ「救い」を求めるのか~読書記録298~

2023年 宗教学者・島薗進先生による著書。


日本の宗教研究の第一人者が、宗教という営みの“核心”を明らかにする!
アンデルセンや宮沢賢治の物語をはじめ、文学や芸術における「救い」というテーマは、昔も今も人の心を打つ。この「救い」の教えは、キリスト教、仏教、イスラームなど世界中の宗教において教義の中心となってきた(そのような宗教を「救済宗教」と言う)。なぜ、宗教では「救い」が重要とされ、普遍的な教えとなってきたのか。
一方で、先進国、特に日本では、宗教への信頼が揺らいでいる。しかし、そんな現代社会においても、従来とは形を変えながら求められる“宗教性”があるのではないか。
宗教の起源から現在にまで通じるこのような問いに、救済宗教と文明の歴史をたどることで理解と考えを深め、宗教という営みそのものの核心に迫る。
(出版社紹介)


宗教とは何か。救いとは何か。この書ではその考察がなされている。
島薗進先生は、救いを求める宗教を「救済宗教」と呼び、キリスト教、仏教、イスラム教と3つを上げていた。

ここで、個人的に私は考えたのだが、何故に昔から人々は救いを求めたのか?
それは、生きている現状が苦しかったからではないだろうか。
だから、キリスト教やイスラム教いで言う天国、仏教で言う極楽浄土などを夢見ていたのかもしれない。

近代以降の科学の進歩により、宗教というものの意義がだいぶ違ってきたのは確かだろう。人の考えも変化してきた。

経済学者として有名なマックスウェーバーは、資本主義はキリスト教、プロテスタンティズムでこそ成り立ったとしている。
だが、その行きつく先を危惧していたようだ。

宗教が資本主義を発展させた果てに、宗教はそこから抜け落ちてしまう。そしてウェーバーは。「この巨大な発展」が進んだ末に、人間は虚無に直面するところに落ち込むのではないかという懸念を示します。発展の最後に現れるのは。皮肉なことに「精神のない専門人、心情のない享楽人」ではないかというのです。脱呪術化こそが合理化の一つの帰結ではあるのですが。それが果たして本当に人間の幸せにつながるのか、ウェーバーは疑問を呈したのです。ますます合理化を進めていく近代文明の行方に懐疑的だったウェーバーの本音がここに表現されています。(本書より)

この本が書かれた時代背景もあると思う。
コロナ禍の中、人々が孤独で自殺も増えて行った。又、この本の前年には、統一教会二世による安倍晋三元総理殺害という痛ましい事件もあった。
統一教会などの新興宗教も又、救いを求めるものだ。

今、時代の転換期なのかもしれない。


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