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いまをどう生きるのか~読書記録81~

平成20年(2008年)に発行された、五木寛之先生と、当時、港区・龍源寺住職であった松原泰道師の対談集である。

翌年の2009年に松原泰道師は亡くなられておられる


五木寛之先生も言われておられるが、この対談を読んだ者にも、松原泰道師の気取らない、誰に対しても平等な姿勢が窺えた。
松原泰道師の教えは、「易しく」「深く」「広く」だ。
又、死んでいる者ではなく生きている者に教えを伝える姿勢。

「おそらく釈尊(ブッダのこと)もこのように街や村の人々に語られ、教えを説かれたのだろう。仏の前にはすべての人間が平等であるという、当時としては衝撃的な思想は、理論として伝えられたのではあるまい。」
五木寛之先生のまえがきで書かれている。

仏教が生まれた頃のインドでは、バラモン教が主で、カースト制であった。
それをブッダは「人は全て平等」と言われたのであった。

今でもインドではカースト制度に苦しむ人は多いという。
下層部にいる人たちの自殺も増えているという。
司祭→士族・王族→庶民→奴隷
これが、カースト制度の主な階級だ。今でもそれはある。

現代人に釈尊の教えをわかりやすく伝えると
「厳粛」「敬虔」「邂逅」となる。
「ありがとう」
「すみません」
「はい」
だ。
「私は、釈尊の教えを現代人が日常生活に体得するには、この「ありがとう」「すみません」「はい」という挨拶言葉 通りに実行することだと思うんです。」松原泰道師

「1人で考える事と、考えた中身を相手に伝えるということは違います。どんなに素晴らしいことを考えていても、誰かに伝えない限り。それは幻想にすぎません。」五木寛之先生

バラモンの考えに基づけば、この世にはどうにもならないことがある。だから、この世はもう捨てちゃって、次の世を幸せにするために、この世で難行苦行をしなければならない。釈尊は、それは意味がないと気づいた。
次の世というものがあるかないかも誰も経験したことがないからわからない。そんな不確実なことを目標にして厳かに実在する現在を投げてしまうことは無意味だと気づいたのであった。

戦後は、嘆き悲しむという気持ちはマイナスであるとされてきた。プラス思考で行けと。けれども、悲しむのも嘆くのも悪い事ではなく、重要。
親鸞聖人は、親しい人の死に対して深く悲しむのは自然な理と言われた。
「ありのままに」だ。
悲しい時は、悲しいと心につぶやき、口に出してもいいのだ。

五木寛之先生は、ご自身を「ブッディスト」と言われておられる。
ブッダを信じる者の事だ。

近年、世界的に宗教離れが進んでいる。ヨーロッパなど、日曜日の教会が空っぽだという。
科学的に観て、イエス、仏陀の話は嘘だ、と論ずる人が増えている。
天国やら極楽やらはない。人は死んだら終わり。何も残らない、と。

ネットなどで知り合った方でも、「僧侶や牧師と挨拶するのは辞めなさい!」と親切にメールをくださり、いかに、仏教やキリスト教が嘘か、自分は頭がいいか言ってくる方がいた。
その方たちは、人をお金としか見ていない人が多かった。怪しい副業紹介だの、怪しいグッズを売りつけたり、投資話やら。ネットカウンセラーやら。

確かに、宗教は嘘が多いのかもしれない。誰でもが文字を読める時代の話ではないゆえ、真実はわからない。
けれども、親鸞聖人、法然上人、松原泰道師、私が世話になった外国人神父に、若い日本人牧師ら。
彼らの生き方を見ていると、「天国なんか、極楽なんかなくてもいい。あのように生きたい」と思わせるのだ。
やはり、信仰とは生き方なのだと思うのだった。


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