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万葉学者、墓をしまい母を送る~読書記録200~

2020年発行。奈良大学教授の上野誠先生の体験談である。

 冒頭に「これから私が語ろうとすることは、個人的体験記でもなければ、民俗誌でもない。評論でもないし、ましていわんや小説でもない。ひとりの古典学徒が体験した、死をめぐる儀礼や墓にたいする省察である」と書いた通りの本です。ひとことでいえば、個人が体験した小さな歴史を書きたかったのです。織田信長と豊臣秀吉と徳川家康を繋いだら歴史になるのか。史料に残らない小さな歴史というものもあるはずです。そういう小さな歴史を、一人称で語った実験的な本です。
 小さな歴史の発見は、日本では柳田国男、フランスではアナール学派の専売特許なのですが、私もいつか、こういう本を書いてみたかったのです。アナール学派のフィリップ・アリエスに対する極東からのオマージュです。
~著者談~


こちらが参考になるのだが、昭和の時代には、家や村でやっていたものが、平成、令和となると徐々に変わってきている。
そういえば、昔は死者の着替えとか、身体を洗うとか家でやっていたが、今の若い人は、病院で亡くなる親族しか知らない人が多いかと思う。

「先祖を大切にする家は栄える」というキャッチフレーズは、寺院でも霊園でも石材店でも聞かれるところであるが、実は逆なのである。家が栄えて、永続していないと、ご先祖さまの供養すらままならないのである。本書より

私は、宗教否定論者かといえば、そうではない。むしろ、宗教、崇高なるもの、聖なるものへの憧れは、人一倍強い方だ、と思う。そうでなくては、こういう文章を書こうとは思わないだろう。ただ、一方的な礼教の押し付けを良しとしないわけである。
ではn私が信奉する宗教は何かといえば、私と言う個人がその時々に感じて発見してゆく聖なるもの、尊いものへの崇敬ということが出来る。従って、それが神社であっても、寺であっても、山であっても、たとえ一木一草であっても構わない。グレゴリオ聖歌であってもよい。
私は、東京駅のホームで新幹線の各車両の清掃をしているクルーの姿を見ると、ふと合掌したくなることがある。乗車する人のために働いている姿を見ると、掌を合わせたくなる。限りなく神に近い求道者の姿だ。
こういう宗教観は、広く言えば「個人の宗教」ともいうべきものだろう。現代という時代は、国家や共同体の宗教から、個人に力点が移ってしまっているのである。1人1人が宗教をオーダーメイドする時代なのかもしれない。
~本書より~

今の私は、かなり著者の意見に近い所がある。キリスト教、仏教、神道のそれぞれ良い所を自分で勝手に選択している。1つの教会、共同体に所属したり、どこかの寺の檀家になったりなどもない。
五木寛之先生もよく書かれているが、全てのものに魂があり、尊いと思っている。人間だけが偉いと考えるキリスト教は私には縁遠い。

墓ということに関しては、現代日本人の中には頭を悩ましている人は多いのではないだろうか、と個人的に思っている。
江戸時代までは、村落の墓は村落が管理していたから家の墓はなかった。歴史的に有名な武将などの墓はある。
そういえば、先祖代々の墓と言っても、出来たのは明治以降だなと思う。
友人は、姉と2人、結婚するつもりはないので(恋人はいる)、既にロッカー形式の永代供養墓を用意したと言っていた。
遺された者がいない場合、そうなるであろう。
又、昔の先祖をいつまで?ともなるわけだ。

又、本書にあった長崎の墓の話も興味深かった。
キリシタンである事を疑われないようにするために、長崎は寺院との結びつきを強くして、墓を豪華にしたのだそうだ。
そんな事を考えると、長崎は面白い街とも言える。

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