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人生を励ます太宰治の言葉~読書記録115~

2011年に出版された童門冬二先生のエッセイ。

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童門冬二先生については、こちら↓に。
私が先生にお会いしたのは、この本が書かれた翌年であった。

先生は、「どうもすいません」からペンネームの話が相変わらず好きだな、の感想だ。
この本で初めて知ったのだが、先生は実の両親を知らないらしい。物心ついた時には義理の両親、育ててくれた人たちと暮らしていたのだ。
だから兄弟はいない。
太宰治が昭和8年に下宿していたのは杉並区天沼。なんと!その当時、その家から2、3軒離れた家に童門冬二先生は住んでいたらしい。なんとも不思議な結びつきを後で覚えたようだ。

先生の生き方の基本は「起承転結」ではなく、「起承転々」なのだそうだ。
「精一杯、手抜きをしないで生命を完全燃焼させる」という意味だ。

人間は誰でも「善い心」と「悪い心」を持っている。社会はこの2つの心の葛藤だ。みんなが「善い心」で生きようとしている。しかし、「悪い心」が人を傷つけたりするのだ。
けれども、太宰治の本の中から「自分にもまだ善い心があった」と想い出し、先生はほっとするという。

童門冬二先生は太宰治の内の善い部分をのみ上げているが、私はどうもひねくれているようで、何故かイライラしてしまう。

自分は神にさえおびえていました。神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の鞭を受ける為に、うなだれて審判の台に向かう事のような気がしているのでした。地獄は信じられても、天国の存在はどうしても信じられなかったのです。人間失格から

どうしても、太宰治というと、こんなイメージしかないからだ。

それに対して、童門冬二先生はぴったりの言葉を書かれている。
つまり、太宰治の生き方は「反面教師」なのだ。
酒、薬、借金、不倫、自殺未遂、自殺ほう助罪で検察に行き、、、と。

そんな太宰治の厭世的な生き方、著書の中で、「津軽」は素直な感慨に溢れた書である。
童門冬二先生は「津軽」の文章は、「一字一涙」と評している。

「一字一涙」は、米沢市にある真言宗のお寺にて、上杉鷹山と、その師である細井平洲と対談をした時に、その記念として「一字一涙」の石碑を建てのだった。

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私は悲しい事に、童門冬二先生と同じように太宰治に対して思い入れがない。
だが、津軽を再び読み、太宰治ゆかりの地に又行きたくなるのであった。

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2009年に訪れた太宰治ゆかりの、青森県浅虫温泉にて。
残念ながら、食事の写真しか撮影しなかった。。。


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