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国家主義を超える~読書記録391~

1994年 明治学院大学名誉教授・阿満利麿氏による著書。

国家神道が無条件に受け容れられた反面、普遍思想が生まれないのはなぜか。宗教の視点から近代日本の心の歴史を検証し、国家を相対化する道をさぐる。精神史からみた近代日本批判。

著者は、京都にある西本願寺派のお寺で生まれた浄土真宗門徒である。
今までの著作なども一貫した主張を持っている。
それは、明治維新直後の廃仏毀釈、仏像破壊に対する批判である。

日本近代の「信教の自由」論は、列強が、日本政府のキリシタン弾圧に対して強烈に批判を加えるという、いわば外圧を契機としていたことを見逃すわけにはいかない。祭政一致をスローガンとする初期の維新政府は、仏教を神道に隷属させて、神仏両者による一大国民教化運動をくりひろげたが、やがて仏教がその運動から離脱する過程において、神道を宗教にあらずと批判することによって、「信教の自由」を主張するに至ったということも、重要な問題をはらんでいる。伊藤博文ら憲法制定者たちが、「信教の自由」をどのように規定しようとしたのか、その思想も重要なポイントである。
第二次世界大戦の敗北に際して、折口信夫は、今度の敗戦は物質的な敗北と言うよりは、神への信仰心の敗北だと受け止めた。日本の神々が敗北したのは、日本人の神への信仰がいい加減であったのが原因であり、アメリカ人が日本との戦いに、エルサレム奪回の十字軍にも似た信仰心をもって臨んだことを想うと、日本の敗北は当然であった。
(本書より)

日本人は本来、名もない神を祀っていた。山の神、田の神、水の神、竈の神など。それらが国家神道により抹殺され統合されたという事実。
又、奈良県など、各地に寺のない自治体があるのだという。江戸時代まではあったのが、明治維新の時の廃仏毀釈によってだ。


国家神道、国家主義。昔からの日本の良さを奪ったような気がするのであった。

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