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キリスト神話 偶像はいかにして作られたか~読書記録134~

2004年カナダ人聖公会司祭トム・ハーパーの著である。宗教学者・島田裕巳氏による翻訳。

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本を手にした瞬間。読み進めていくところどころ、読み終わった時。

これほど、1冊の本に対しての感想が違う、というのは珍しい体験でもあった。

たとえば、井上洋治神父の著書や、日野原重明先生などの著書は、本当に申し訳ないのだが、タイトルを見ると、大体こういう内容だな、と想像でき、その期待を裏切らない。ほとんどの著書がそうである。更には、多くのブログもそんな感じだ。だからといって、読まないわけはないし、井上神父様の著書は落ち込んでいる時には、本当にありがたい。

一言で言ってしまうと、この著書の内容は、新約聖書に出てくる十字架に架けられたイエスと言う人物は、歴史上存在しなかったのだ、という検証、結論なのだ。

読む前、「ええ、聖公会の司祭がそんな事言っていいの?イエス様がいなかったら、誰に祈ったらいいの?イースターはどうしたらいいの?」と、思っていた。

新約聖書のマタイ、マルコ、ルカの伝承については、ほとんどの話がエジプトにある神話にも同じ内容のものがあるらしい。処女降誕、水の上を歩く、などである。

一番初めに書かれた新約聖書はパウロ書簡である。パウロ書簡の中には、このようなイエスの奇跡は出てこない。3世紀頃に、ローマカトリック教会が聖書を編纂するうえでの、大きな偽装が行われたのではないか、という結論にいきつく。

345年ローマ教皇ユリウス1世がイエスの誕生日を12月25日と制定。史実的に、イエスの誕生がわからない、純粋な神話でもある。聖書全体を通して、歴史はひとかけらもない。と、クーンは述べている。

福音書は、歴史書ではなく、信仰の書なのである。

有名なシュバイツアー博士も、今まで信じられていたナザレのイエスなるものは歴史的に存在しないという結論に至ったという。

今日の状況(2004年現在)、教会の超保守派が盲信の典型として、ブッシュを押している。彼の周りを固めているのは似た者同士のキリスト教徒の人々で、字義通り、聖書をとらえる原理主義者である。ユダヤ人、同性愛者、イスラム教徒などに向けられる憎悪は極端な聖書直解主義者(原理主義)たちによるものである。危険な解釈でもある。

キリストが千度ベツレヘムで生まれようとも、汝の内に生まれなければ、その魂はさまようことになるであろう。自身の内に再び十字架を立てなければ、ゴルゴダの丘の十字架を仰いでも無駄である。

救世主はわれわれの心にある飼い葉桶の中で生まれる。

今日、10億人を若干上回るローマ・カトリック教徒ーならびにそれを横目に見ている非教徒たちーにとって、現代に生きる神の中心的な聖像とは、苦悶の内に拷問具にはりつけにされ、苦しみ、痛みにあえぐ人の姿を象って(かたどって)いるものなのだ。こうした信仰体系が、不幸にも、自らの教えが原因で生じた苦しみに無頓着なまま、さらにひどい苦しみを与えているのは驚くべきことである。バチカンの、避妊や生命科学に関する布告が好例だ。宗教や精神性は生ー豊かで、向上し、変容し、最後は勝利をおさめる生ーのためにあるはずである。飾りのない十字架なら、それらすべてを伝えてくれる。しかし磔刑像はその反対を象徴している。ジェラルド・マッシーは、クーン同様、宗教一般、特にキリスト教教会に対して、何の敵意も持たずに研究を始めた人だが、この問題についてはいらだちを募らせている。マッシーは、自らも痛ましい児童就労と過酷な貧困の犠牲者だったがゆえに、表面的には信心深くて立派な正統派「中・上流階級」がしばしば露にする冷酷な無関心を肌身で経験した。

本当は、われわれ自身の意識の内にある、救世主としての神の存在と力とを感じる、という内なる体験こそ、真のキリスト教の真実性を最大限に証明するものであることに私は気づいた。

神が自分にとって有意義で実在するものであると納得するためにこそ、福音書の物語を寓話、メタファーとして解釈するのだ。

ここで、私の話になる。私は20代の頃は、非常に熱心なプロテスタント福音主義の信者であった。「あれ?なんか違うな」と思い始めたきっかけがあった。それは、父親のブッシュ大統領による湾岸戦争であった。彼は、「キリストの名によって」イスラム教徒を悪とみなしているのではないか?また、正しいクリスチャンがなぜ、多くの罪もない(キリスト教ではこういう言い方は許されないが)人々が戦争に巻き込まれねばならないのか。本当にしなくてはならない戦いなのか?という疑念があった。自分は、懸命に「湾岸戦争にならないように」祈っていた。

しかし、自分が尊敬していた1つ上の女性は実にアメリカ的なキリスト教徒であり、聖書をそのままとらえるような人であった。「ブッシュ大統領は正しいクリスチャン」と彼女は言うのだった。

なぜ、黒人が奴隷となったか?アメリカで長い事、参政権もなかったか?それは聖書によるものなのだ。有名なノアの箱舟。その続きは、助かったノアの家族。ある日、ノアが酔っ払って裸で寝ていた時に、それを他の2人の兄弟に告げた息子。それをノアは呪った。その子孫がアフリカの黒人であったとされている。これは、今思うと、ヨーロッパのキリスト教国の都合のいい解釈のようにも思う。それをそのまま理解し、黒人を平気で差別しているのだ。

カトリックであれ、プロテスタントであれ、内側にキリストを感じない、ただ上辺だけの人などわんさかいる。宗教を持たない立派な方も多い。

そして、今、自分が思うこととして、自らの内側に神を感じること。神の存在を有意義に感じること。歴史的ではなく、霊的に、自分の心で理解したいと思うのであった。


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