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心のやすらぎを求めて 日本人と仏教~読書記録228~

1983年に発行された書であるが、今はネットなどを探しても見つからない。


5人の執筆者がおられるが、さすが直木賞作家!寺内大吉先生の書かれた文章が面白かったのと、大吉寺の事や、滋賀県長浜にあった浅井長政の城とお寺の話やら歴史を知る事が出来た。

1983年は、寺内大吉先生は、世田谷区の大吉寺の住職をされていた。生まれもこちらである。

この大吉寺というのは、本来は、滋賀県の伊吹山の裏にある浅井という村にあった寺で、今はもうない。
平成時代に長浜市に合併された。

浅井村が浅井長政の出身地であった。
この大吉寺は、浅井長政の菩提寺で、奈良時代からの旧いお寺で、かなりの僧兵がいたようだ。織田信長が浅井長政を攻めた時に、その僧兵は浅井方につき、小谷城にて戦った。それゆえ、織田信長は大吉寺を焼き払えと命じたのであった。それを引き受けたのが、羽柴秀吉であった。
秀吉は、寺の半分だけ焼き、半分は残した。そこが秀吉の生き方なのだ。
主君の命令にも従い、僧侶たちにも恩を売っておく。何かあったら、大吉寺に逃げるようにと。しかも、地図の上では、なくなったことになっているのだ。
本音と建て前が半分。秀吉の生き方でもあり、日本人共通の美学かもしれない。

その浅井の大吉寺にて、政治的な動きをした偉い僧侶が東国に逃げ、北条氏を頼った。当時は、小田原に城を持つ北条氏康の時代であった。氏康は武田と手を組み、織田に対抗する連合軍を結成していた。
そんなわけで、近江にあった大吉寺を復興させようという政治的な配慮のもとに、世田谷に大吉寺が作られたのだ。

ネットを検索するも、寺内大吉先生が書かれている事は出ていない。

つまり!!ネットよりも、そこの寺の住職に話を聴いた方が深く味わえると私は思うのだ。
増上寺紹介も、五木寛之先生が当時の法主であった寺内大吉先生にお聴きし、それはネットの情報以上の深さがあった。


歴史というのは、なかなか複雑なもので、その当時の実情を把握するものは非常に難しい。例えば、織田信長の人間像をとらえることも容易ではない。

仏教の入り方は。たんなる思想信仰だけで入ったのではなく、経済社会というものに乗ったわけだ。日本人が思想として、宗教をとらえたのは、法然、道元が出現した鎌倉仏教からだと言われている。浄土教(浄土宗)が現れたことによって、単なる人間を裁く仏ではなく、どんなに煩悩の深い奴でも、悪いことをした者でも、阿弥陀様は救ってくれるということになったのだ。
その辺が、ユダヤ教からキリスト教への変化と同じだ。
裁く神から愛の神へとなった。

日本人は鎌倉仏教によって、初めて、人間にとって大事な生きることを考える宗教に目覚めたのではないだろうか。(寺内大吉先生)

深い、味わい深い書であった。

この本で紹介されていた詩がある。

花語らず  柴山全慶 

花は黙って咲き黙って散っていく 
そうして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に 
この世のすべてを託している
一輪の花の声であり 
一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命のよろこびが 悔なくそこに輝いている


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