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日曜日の午前中~読書記録66~

「日曜日午前中だけに集まる教会は終わる」
関野和寛先生の「天国なんてどこにもないよ」より

カトリックでも、プロテスタントでも、教会の中と外では人格の違う人が多い。イヤイヤ、それが当たり前なのだ。
司教と言う立派な人でもそうなのだと実感した経験もある。

キリストは好きだが、キリスト教会で嫌な思いをした人、又、教会と言う建物自体の敷居が高すぎて近づけない。という人の数はとても多い。
そもそも、仕事や家族サービスで疲れ切っている人々、心身の重い病気で立ち上がれなく本当に救いを求めている人々は、教会になど来られない。
「天国なんてどこにもないよ」より

そうなのだ。自分の罪深さ、カトリック教会で散々受けてきた虐め。それらを思い返しては、新しく通っていたプロテスタント教会に向かう途中、しばし、立ち止まり。。。
こんな自分は礼拝する資格はないんかな、と。。。
で、遅刻を続け、牧師から
「遅刻するならもう来るな!悔い改めて、もう二度と遅刻しないできちんと出来るなら来てもよい」
と言われ、
もう、教会には行かず、あちこちのオンライン礼拝をYou tubeで、となった。

教会でも虐めも理由があったのだ。
それは、私が神聖なカトリックを侮辱しているという信者たちの怒りからだと、数人の信者や司祭に言われた。
侮辱というよりも、無知であった為に怒りを買ってしまったのだ。
7つの秘跡ってなんですか?と質問したり、聖書に書かれていない聖人がわからなくて質問すると、怒られるだけで教えていただけなかった。
幼児洗礼が当たり前の彼らにとっては、知っていて当たり前。そんなのも知らないやつは教会に来るな、ということなのだろう。

そんな私であるから、関野先生の著書には救いを感じた。

イエスが十字架に架けられた時、隣にいた罪人の1人が感じた気持ち。これが救いだ。

本当に救いが必要な人々は教会になど来られない。日曜日の朝、疲れ切っていて起きたいけど、起きられない。引きこもっていて、家から出られない。電車に乗るのが怖い。人混みが怖い。人と話すのが嫌でたまらない。
自己嫌悪で苦しんでいる。そのような人が沢山いる。教会の中にも沢山いる。本当の孤独と痛みを誰にも語れず苦しんでいるものが沢山いる。めんどくさい事は一度リセットして、十字架の上で処刑されたイエス。その横で過ちを抱え、生きる痛みに苦しんでいる私たちがいる。まずはそれだけでいい。

多くの立派な司祭、牧師、信者らから「教会に来ないで♪」と言われた私の為に、今は牧師を辞した1人の元牧師が祈ってくださった。
絶望しきって、友人のいる千葉県にある教会に行った時のことだった。

こんな自分の為に、祈ってくれる人がいる。
日曜日の午前中以外に・・・
その方がいなかったら、もしかしたら、自分は今は本当に地獄にいて、呑気にキャスで朗読なんぞやっていられないなと思うのであった。


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