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開かれた禅寺・・・鎌倉市 臨済宗大本山円覚寺 私の百寺巡礼129

北鎌倉駅を降りると、目の前にあるのが円覚寺。
イヤイヤ。円覚寺の為に北鎌倉駅が出来た!の認識がある。
(個人の見解でということで)


北鎌倉駅の線路を挟んで、円覚寺と東慶寺がある。
横須賀線の設計上、改札が混み過ぎる。
多分、通勤用ではなく観光用の駅だからなのだろうな。

ここで、円覚寺について、簡単な一言。
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。(ホームページより)

私が、円覚寺が出来た由来について知ったのは、五木寛之先生と円覚寺管長・横田南嶺氏の対談を読んでの事だった。

横田南嶺氏は、若くして大本山円覚寺の管長になられたお方だが。お話しも実にわかりやすく、温和な表情が素敵だ。

北鎌倉駅前にある総門。立派な門だ。夏目漱石の「門」に登場する「門」は、ここのようだ。

コロナ禍の中、横田南嶺氏の法話など中止となり、You tube配信となっていった。1日も早く元にもどりますように・・・

と、ここで、私のつまらない文章なんぞよりも、五木寛之先生が書かれた円覚寺についての文章を一部だけ紹介したいと思う。

線路に迫るような巨木に迎えられ、駅に降り立った。北鎌倉駅のホームは、まるで山間の駅のようにのどかな印象だ。改札口を出るとすぐ左手に、線路に寄り添うようにしてひっそりと池があった。城鷺池(びゃくろち)という美しい名前だそうだ。
突然、目の前の踏切が下りて、行く手を遮られた。銀色の車体が横切っていく。昭和2年、円覚寺の寺域に北鎌倉駅が開業した。境内を横断して線路が作られたのだ。
線路が開通する以前は、線路を挟んで向かい合わせになっている東慶寺の方まで、寺領が続いていたらしい。
総門を抜けると真正面にもう1つ石段があって、その先に三門がある。奥には仏殿の屋根がかすかに見える。なんとも雰囲気のある、拡張高い建物だ。いかにも禅寺に来たという感じがする。
かつて夏目漱石もこの寺を訪れ、「門」という作品に次のように書いた。
「山門を入ると、左右に大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
この文章にある「山門」は、総門のことではないかと言われている。いずれにせよ、漱石もこの寺に足を踏み入れた時、格別の印章を持ったのに違いない。
亭々として屹立する杉木立。つつましやかに季節を彩る花々。静かな境内は確かに、漱石の言うように「世の中と寺の中との区別」を教えてくれるようだ。
円覚寺は正式な名称を「瑞鹿山円覚興聖禅寺」という。鎌倉五山の第二位であり、臨済宗円覚寺派の大本山だ。
開基は鎌倉幕府第八代執権、北条時宗。建長寺を建立した時よりの息子である。時宗は、中国・宋から新たに、高僧の誉れ高い無学祖元という僧を迎えて、円覚寺を建立した。
山号の「瑞鹿山」には、この祖元にまつわるエピソードがある。円覚寺を開く日、白い鹿が群れをなして無学の説法を聴きにきたのだという。そして、寺の土の中から「円覚経」という経典が掘り起こされたため、寺名を「円覚寺」としたらしい。
もっとも、白鹿の話は、釈迦が初めて説法を行った鹿野苑にちなんだ物語だろうとも言われている。また、円覚経という経典が、完全無欠の悟りを説いているために、その名を寺号にしたというのが通説だ。
そうであっても、高僧の教えに群れをなす白鹿の姿や地中から経典が現れると言う場面は、物語として心に残る。寺の縁起というものは、それで良いのだと思う。
こうした説話が豊富な寺には夢があり、それが寺の奥行きと陰影をなしているような気がする。
時宗は、この寺を建立するときに、いくつかの願いを抱いていた。一つは、他の権力者と同じように鎮護国家を願った。国家の安泰を祈願したわけだ。
そして、戦没者の鎮魂の祈りもこめた。「円覚を造りて、以て幽魂を救う」という時宗の言葉が残っている。二度に及ぶ蒙古襲来の際、戦死したり、溺死した数万の兵士を、敵味方関係なく、魂の救済を祈願して祀った。

三門を抜けて仏殿へ向かう。仏殿の正面に立った時、ああ、日本に出会ったなよいう思いが込み上げてきた。
中国から僧を招いて建立したこの寺に、古い中国に出会ったような印象を抱くならなんの不思議もない。だが、これぞ日本だなあという感じがするのはなぜだろうか。おそらく、外国から入ってきた文化が、長い時間を経て日本人の胃袋で消化され、日本の風土や文化とうまいぐあいに絡み合って醸成され、独特の雰囲気を作ってきたからだろう。
このように外国の文化と在来の文化や風土がミックスして出来上がってきた日本と言うものこそが、本当の日本ではあるまいか。

三門の南側にある、帰減院という塔頭を訪ねてみることにした。仏殿の脇の坂を登って行く。とても静かだ。カラスの声に混じって、都会ではもう聞かれなくなったトンビの鳴き声も聞こえる。
夏目漱石は、この帰源院に逗留して座禅の修行をしていた。庭の片隅に漱石が詠んだという句碑がある。

仏性は白き桔梗にこそあらめ

桔梗は、山地や草原に自生する雑草で、夏から秋にかけて茎の先端に可憐な花を咲かせる。紫の花を目にすることが多いが、白い花もとても美しい。

天気予報通りに、少し青空が顔を出した。しかし、早春の鎌倉は、やはり寒い。漱石がこの場所に逗留したのは12月の終わりから正月にかけてだそうだから、寒さはさらに厳しかったろう。
円覚寺に惹かれた文学者は、夏目漱石だけではない。島崎藤村、有島武郎から始まって、川端康成も足しげくこの寺に通っていた。
鎌倉と言う場所が、文化人を惹きつけたのはなぜだろうか。
漱石が円覚寺で参禅したのは27歳の頃だが、当時は神経衰弱気味だったという記録が残されている。いまでいえばノイローゼであろう。漱石が生きた時代を考えれば、その心境はわかるような気がする。
明治維新からの日本では、文明開化が嵐のように進んでいった。そして、日清、日露と立て続けに大戦争が起きる。多くの日本人が自分の足元に不安を感じたのも当然だ。
和魂洋才というキャッチフレーズのもとに、伝統文化をなにもかも捨ててしまったのだ。実際は、無魂洋才である。心のよりどころが何もない。
文化人や作家たちはそのことに思い悩んだだろう。そうした苦悩する文化人たちが、進むべき道を見出すための場所として鎌倉があったのではないかと思う。


舎利殿の前にあるのが、佛日庵だ。そこでは、北条時宗が祀られている。
又、抹茶を頂きながら、四季折々の樹々を観る事が出来る。


こちらは、カラタネオガタマの樹だ。開花時期は6月となっていたのだが、すでに終わっていた。
旧暦の6月であること、温暖化により、色々な植物の開花時期が早まっている事から4月の終わり頃に来たら間違いはない、とのことであった。
尚、果物のような甘い香りなのだそうだ。帰宅後に検索すると、バナナの香りとあった。
来年の楽しみが増えたかもしれない。



抹茶を飲みながら、静かに日本の季節を味わう。
五木寛之先生ではないが、本当に日本を感じる。
そういえば、お茶だって、中国だかインドだかから来たものではないのか?
それが、今では日本文化だ。

現代社会は、明治維新と同じくらい、グローバルだのなんだのと外国に真似をする傾向があるような気もする。LGBTしかり、外国人労働者受け入れしかり。
明治の人たちが円覚寺に救いを求めたように、開かれた禅寺を求める人が増えてくるかもしれない。

そして、1日も早く、オンラインではなく、お寺の中での参禅会、法話会を臨むのであった。


臨済宗円覚寺派大本山円覚寺
神奈川県鎌倉市山ノ内409
JR北鎌倉駅目の前

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