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シン・エヴァンゲリオンとフェミニスト

シン・エヴァンゲリオンがキリスト教的世界観で作られたなら、その世界を最後に壊すのはフェミニストだろう。

シン・エヴァンゲリオンの最後に波打ち際に、佇む碇シンジ。

ここで出てくる海は、創世記に出てくる始まりを意図していることに異論はないだろう。

「はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第三日である。」
‭‭創世記‬ ‭1:1-13‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/gen.1.1-13.口語訳   

世界が再構築され生まれ変わった。

そして、背景がカラーから、イラストに変わり、色も失われて、線だけの存在になる。それは、再度繰り返される世界を暗示する。

色が薄れ、消えていく碇シンジ。

だが、海の中からエヴァに乗った真希波・マリ・イラストリアスが登場する。

海に落ちるマリ。

マリがエヴァンゲリオンから落ちた瞬間に白黒からカラーになる。この瞬間が今まで世界線からの脱却なのだ。

マリのセリフの「間に合った。ギリギリセーフね。」とは、世界の復活前に間に合ったという意味なのであろう。

ちなみに、福音とはギリシャ語で「エウアンゲリオン」で、福音(エヴァンゲリオン)がマリを届け、そして、マリは「ご苦労さま。最後のエヴァンゲリオン」と言う。それは、福音からの決別で、二度とキリスト教的世界には戻らない事を暗示している。

救世主として復活する前のシンジに、マリが出会う。

場面は駅ホームに切り替わる。これは、碇ゲンドウと乗っていた電車からの下車、そして、そこで二人は再度出会い、マリの手を取る碇シンジ。

「さあ、行こう」「うん、行こう」

マリは劇中に冬月より「イスカリオテのマリア」と呼ばる。この元ネタは「イスカリオテのユダ」であることは間違いない。キリスト教的には許されないもの。

そう考えれば、真希波・マリ・イラストリアスとは、淑女規範から外れた女性像、規律を守らない、自由気ままなのはこの辺りが故だろう。

だが、そんなマリと手を取り合った碇シンジはキリスト的世界観を捨てた男性像。古い世界観からの脱却、フェミニストとして、生きていこうと決めた男性像なのだ。そのものと共に新しい世界を作る。ネオ・ジェネシス

シン・エヴァンゲリオンとはフェミニストの為の物語ともいえる。

アンチフェミニストとオタクにはわかるまいw




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