両親の離婚/父の虐待から姉妹で逃走/7歳から18歳まで児童養護施設で暮らす。ミスユニバース茨城県大会準グランプリ「児童養護出身モデル」の活動ののち、施設への世間のイメージを変えるために奮闘中!ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー田中れいかさん

この記事は、上記インタビュー動画の書き起こし記事です。

一般社団法人たすけあい・一般社団法人ゆめさぽ 代表理事 田中れいかさん
聞き手・撮影  山田英治(社会の広告社)

田中さん)
田中れいかです。現在は一般社団法人たすけあいと、一般社団法人ゆめさぽの2つの団体で代表理事を務めています。たすけあいの方では情報サイトたすけあいの運営と、講演活動といった啓発の活動を中心に行っています。ゆめさぽの方では近畿地方の社会的養護という、親と離れて暮らす高校3年生を対象にした受験料の助成事業をやっています。

私自身が7歳から18歳まで東京都内の児童養護施設で生活した経験がありました。社会に出たときに皆さんが想像する児童養護施設と、当事者として感じる児童養護施設との違いにギャップを感じるようになりました。自分の経験を通して、最初は施設のことを知ってほしいというところから始めました。

「児童養護施設」は非行少年少女がいっぱいいるとか、障害のあるお子さんがいるなど、「障害児入所施設」と勘違いされている方がいたりしました。児童養護施設はそういうお子さんもいるけれど、そうではない部分もあります。微妙な違いなのですけれど何か違うなと思いながら聞いていました。

今もそんなに啓発できているという自覚はないのですが、出会った人になるべく正しく知ってもらえたらいいなというところで、5年ほど(法人化して2年)活動を続けています。


【父からの暴言をきっかけに深夜にパジャマ姿で家出。小2から高卒まで過ごした施設の暮らし】


山田)
児童養護施設出身だということを、踏まえながら発信や活動をされていると思うのですが、いつ、どんなタイミングで児童養護施設に行かれたのでしょうか。

田中さん)
小学校1年生の7歳の時でした。当時、田中家は5人家族でお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、末っ子の私という5人家族でした。お父さんのお母さんに対する暴力や暴言のDVが始まって、お母さんが耐えきれなくて家を出ていってしまいました。

その後は、お父さんと3人兄弟の4人暮らしになりました。今でいうヤングケアラーみたいな感じで、お姉ちゃんがお母さんの代わりにお皿を洗うなどの家事をやる生活がどれくらい続いたか覚えていませんが始まりました。

お父さんがDVをすることは、いろいろムシャクシャした気持ちがあってそういった行為をしているので、お母さんが出ていったこともムシャクシャを余計再熱させる感じになり、それが子どもに向いてしまったというのがきっかけです。

私は当時、小学校1年生だったので記憶がないのですが、書籍を出すにあたってお姉ちゃんに聞いたら、お父さんは何か気にくわないことがあると「出て行け」と言っていて、当時団地に住んでいたのですが、家の前に立たされるというようなことをさせられていました。

自分が悪いことをしていないのに「出ていけ」と言われ、お父さんの感情次第で子どもたちにその矛先が向くことに、子どもながらに理不尽さを覚えていました。

何回も言われるから、いつか本当にこの家を出て行こうと思っていたということを本を出す時に(姉に)お話を聞いたら教えてくれました。その当時、お姉ちゃんがお皿洗いをしていました。平皿をキッチンの排水溝の水が流れる穴の部分に置かれたままジャブジャブ水洗いしていたので、気付かないうちに水が溢れて床にひいている絨毯が水浸しになってしまったのです。

お父さんがお仕事から帰ってきてそれを見て「お前何しているんだ、出ていけ」と言われた時にお姉ちゃんは今、本当に出て行こうと決心して、私とお兄ちゃんに「れいかも出ていく?お兄ちゃんも出て行く?」と聞いて、なぜか私だけお姉ちゃんについて行くとうなずいたので、お姉ちゃんが私を連れて出ていったという背景があります。

お姉ちゃんは当時、ガラケーと貯金していたお金を持っていました。家を出ていった時間が深夜0時とかで人も全然いなかったです。お姉ちゃんも出て行ったはいいのだけれども、どこに行ったらいいか分からないみたいなところで近くに歩道橋があるので、とりあえず人目につかないところで歩道橋の上でしゃがんだりしながら「これからどうする?」というようなことを聞いたんだよって言われたのですけれど、私は覚えてなかったです。

お姉ちゃんが自分の頭で考えて、近くにある交番に行こうとなり私を連れて交番に行きました。深夜0時過ぎた時に、小学校5年生と小学校1年生の女の子がパジャマ姿でいるというのはおかしいと警察の人も分かってくれ、そのままお家に帰ることなく緊急一時保護という対処で、すぐに児童相談所に連れて行かれました。

山田)
そうすると、小学校低学年あたりから児童養護施設というところで過ごされていたということですね。

田中さん)
小学校2年に上がった4月ですね。

山田)
児童養護施設は皆仲良く兄弟みたいな感じの暮らしが待っているのですか。

田中さん)
人によっては兄弟みたいって言いますけれど、私は兄弟がいるのでまた違います。友達だけど、友達とも違う人ですね。

山田)
そのうちに公立小学校に行くわけですよね。その時に私は他の子たちと違うのかな、みたいな自覚は出てくるのですか。

田中さん)
いや、ないです。あるとしたら保護者会くらいですかね。他の友達のお父さん、お母さんより若い職員が来るくらいで私は引け目に思ってなかったです。でも大人になってこういう活動をしてみて、(学校で)家族の授業とかがありますが、そうすると学校の友達に自分の家族について言えなかったり、お前は親がいないんだと言われたりして傷ついたという話は聞いたことはあります。

山田)
お父さん お母さんと離れて暮らしていたわけじゃないですか。お父さんには辛かった記憶があったと思うのですが、お母さんに会いたいという気持ちはどうだったのでしょうか。

田中さん)
幼少期はお母さんに会いたいという気持ちはありました。一方でお父さんは怖いので会いたくないという気持ちがあって、それは職員にも伝えていました。夏休みは暑中見舞いを書いて、お正月は年賀状を書いて、お父さん、お母さんが誕生日になったら手紙を書いていました。

職員が許せば面会ができたり、一緒にお出かけする事ができたり、お泊まりまでできたりとその子の家族状況によって何が今、交流としてできるか職員の仕事として考えてくれているので、段階を経て私も家族と交流を重ねていきました。

山田)
そんな環境の中でいざ卒業ですよね。養護施設は高校を卒業したら出なければいけないという決まりになっていると思うのですが、その後どういった形で自立されましたか。そして啓発などを自分のミッションとしてやっていこうと思ったきっかけはなんでしょうか。

田中さん)
今は児童福祉法の改正がされて、18歳を過ぎても施設にいることができるというルールになっています。私が18歳だった当時も国の通知で18歳を超えても施設にいていいルールはあったらしいのですが、当時の流れとしては18歳になったら施設を出るというのが通例でした。

高校1年生になった時点で、3年後に施設を出るからアルバイトをしてお金を貯めなさいという自立支援みたいなものが始まります。私は成績も中くらいでしたし、施設職員も今の実力なら大学とか短大進学できるから、チャレンジしてみたらということで、最初から就職は考えずに進学を希望していました。

子どもに関わる職に就きたいという思いがあったので、保育士や幼稚園免許が取れる学校を、学校の先生が選んでくれました。

山田)
保育士さんになりたいとか、子どもに関わるというのはやはり児童養護施設での経験があったのですか。

田中さん)
やはりどうしてもそこは影響しますね。縦割りで生活しているので、小学生が帰ってきたらおせっかいで勉強を教えてあげたり、誰かが喧嘩していたらお姉さんぶって仲裁したりというのが日常でした。これでお金をもらえるならいいじゃないか、というような浅はかな気持ちで志望しました。

山田)
そうか、本当に小さい子もいるわけですか。

田中さん)
そうですね。2歳、3歳とかは本当に可愛いです。抱っこをしたりご飯食べさせたりはたまにあります。

山田)
それで保育の道にということで学校も選び入学をしたのですね。その後はそのまま保育士になったのですか。

田中さん)
なってないです。女子の短期大学だったのですが、ここで初めて自分は他の友達と状況が違うのだというふうに感じ始めていた時期がありました。というのも、私は親はいるけれども学費、生活費を全部自分で賄わなければいけないです。

他の友達は学費は自分で賄っていたとしても家の固定費は無いとか、お家の固定費や学費を親から出してもらっている友達はバイト代を全部遊びに使えます。アーティストのライブやディズニー、旅行へ行くなど余暇活動を謳歌できている友達を見た時に、自分は生活費のためだけにバイトして、残ったお金も1万円とかで、遊びに使うほど余裕がなかったです。

お金が無くなったら生活できなくなり、生活ができなくなれば死ぬという短絡的な考え方でした。友達と一緒にいるとスマホのインスタグラムを見て、今度どこどこへ行こうとお金の減る話になるわけです。私からするとお金が減ると生活できなくなるため、あまりお金を減らしたくない気持ちが強かったです。

どこどこへ行こうという小集団のコミュニケーションの輪に入れないと話について行けなくなります。でも話について行けなくなってもいいほど、この場にいるのが辛いというか、友達と違いすぎる自分が分かってしまうから辛かったです。

学校内でも一人で行動するようになり、そうすると学校は自分の居場所じゃなくなるので学校をサボるようになってしまいました。もう一つの夢として当時、芸能の世界も憧れがあったので短大時代はそっちの方を頑張り始めていました。


【児童養護施設出身の肩書を“せこいやり方であざとく”使っていた】


山田)
本に書いてありました。小学校の時に事務所の人に声を掛けられて、モデルやタレントをやりませんかという感じですか。

田中さん)
お母さんと外出で池袋に遊びに行っている時に、名刺を何枚か受け取る経験がありました。お母さんも嬉しそうだったし、私も嬉しかったです。記憶が強かったので、自分もなれるのかなといううぬぼれもあり頑張っていたと思います。

ファッション誌を買って、いいなと憧れは持ちつつも施設にいる間は出来ないと言われていたので、その気持ちをふさぎ込みつつ成長したという感じです。 学校終わりにオーディションを受けに行ったり、リサーチしたり、エキストラのお仕事に出てみたりしていました。

山田)
どこか事務所入ったのですか。

田中さん)
入った時期もありましたが、他力本願だったので思ったのと違うというのがあって辞めました。でも自分一人じゃ何もできないと悶々とした成人でした。20歳くらいのときに、お母さんに勧められてコーチングというのを受けました。

山田)
コーチングとはカウンセリングみたいな感じですか。

田中さん)
カウンセリングはマイナスなものを0にするという効果があるらしいですが、コーチングは0の状態をプラスにするという対人セッションの仕方です。やりたいことがあったらその目標に向かって、どうやったら実現できるかということを一緒に横に寄り添いながら手伝ってくれるのがコーチです。

そのコーチの方が落語家の一家の息子さんで、ちょっとだけお笑い芸人をやっていた経歴があり、芸能に関係のあるコーチだったので、この人に相談して無理だったらあきらめようという気持ちでセッションを半年間やりました。

山田)
そんなに長くやられていたのですか。

田中さん)
みっちり受けさせてもらいました。最初は自分の趣旨をあまり言ってなかったのですが、自分が施設で育った事を少しネガティブに捉えていると言ったら、コーチが「それってすごく特別な経験じゃん」と言ってくれて、「えっ?」となりました。

自分のネガティブな経験。しかも友達よりたくさんバイトをしなくてはいけないこの状況が特別と思う考え方もあるんだ、となりました。では特別と思うようにするにはどういう考え方で生きれば、そう思えるのかと自分でノートに気持ちを書き出して整理し内省しました。

整理した時に、この経験は他の人よりプラスしかないなと初めて思え、そこからもう少し自分の過去をポジティブに捉えていこうと思いました。思考のトレーニングを日々生活しながら実践し、身に染みるまで落とし込んで生きられるようになったのがコーチングの成果かなと思っています。

山田)
それで児童養護出身モデルという肩書きを作られたのですね。

田中さん)
そうですね。

山田)
それからいろんなところで児童養護施設のことに触れていこうとなり、もっと知っていこうとなっていったのですか。

田中さん)
最初は施設の啓発をするとは考えていなかったです。ただ自分がモデルとして売れるために生い立ちを公開したという、せこいやり方です。

山田)
ぶっちゃけましたね。

田中さん)
最近はちゃんと昇華しているので言えるのですが、当時はせこいやり方であざとく使っていました。ミス・ユニバースに関してもせこい手法の中でエントリーして、施設出身でも夢は叶うということを伝えたいというスピーチをして、県大会準グランプリになりました。

そこから最初はソフトバンクニュースさんが、児童養護出身モデルの田中れいかさんと支援団体の代表が語るというような記事を作ってくれました。それを見た何人かの方から是非、施設のことを講演してくださいと言われ、そこからモデルよりも話す仕事が増えていきました。


―その後、田中さんは全国の施設を回るようになり、
児童養護施設をめぐる「課題」に気づく。

そして「児童養護施設」にもっと光が当たるような
「発信」をしたいと思うようになる。―


【大人が生き生きして自分の仕事に誇りを持つ気持ちが、施設の子どもとの関わりに表れる】


山田)
具体的にどういった内容をもっと世に広めていきたいと思っているのでしょうか。

田中さん)
例えば、世の中の人に施設出身者の語りという本を売ったとしても手に取らないと思います。ですから、世の中に合うような切り口で何か伝えるものを増やしていきたいという感じです。

例えばですが、現場の職員は生活を支援するお仕事です。洗濯物をする、歯磨きのやり方を教える、お風呂をキレイにするやり方を伝えるなどの生活支援のプロフェッショナルです。

その知識を子育てしているお母さん向けに、専門的な知識を一般化するような伝え方をしていく中で、児童養護施設の仕事の認知向上(をはかること)と、すごい仕事なのだと職員さんたちにも知ってほしい、誇りに思ってほしいということがあります。専門的なものを一般化することを、まだやれてないですけどやってみたいなと思います。

子どもに生き生きと、夢を思い描いてほしいと思いはありますが、そこに関わる大人が、まず生き生きしたり自分の仕事に誇りを持ったりという気持ちが、施設の子どもとの関わりに表れると思うので、児童養護施設の仕事はすごいとみんなに知ってほしいと思います。

この1年、こども家庭庁ができて、時代の流れの中で審議会の委員としていくつも会議に出させていただきました。そうなったときに、自分の発言が及ぼす影響とかを生意気ながら考えるようになり、これまでのように気軽に楽しく発信ができなくなった1年でした。やはり人間だなと思ったのは失言したらその席は無くなるなど、あまり思わないタイプだと思っていましたが何回かは思う節がありました。

では、その人たちが思う田中れいかとして発言した方がいいのじゃないかという心境になりました。そういった経験を経て、活動自体はしていたのですけれど発信もなかなかできなくなりました。そして1年経った今、私はあまり偉くなりたくないなと思うようになりました。

お仕事や活動としてそういったこと(審議会委員等のお仕事)はするけれども、自分の立ち位置を考え直したのです。私のスタンスは現場に足を運んで子供達と関わって先生たちと話して見聞きしたことを誰かに伝えるとか、この魅力をどうやったら他の人に分かってもらえるのだろうかという編集者的な視点から世の中に編みこんで伝えるといったことが私のできることなのかなと思いました。

だから、決して自分が偉いと思わず正解は現場にあるというスタンスのもと、足を動かして人と出会って、知識に触れて、それを誰かに伝えるということをし続けたいなと思っています。


―もっと現場に足を運び、編集者視点で、
  世間の「児童養護施設イメージ」をアップデートしたい―
  一般社団法人たすけあい 一般社団法人ゆめさぽ
   代表理事 田中れいか


一般社団法人たすけあい  https://tasukeai.co/

一般社団法人ゆめサポ  https://yume-sapo.com/


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