#112 敵よりも味方に厳しい新選組

新選組は、幕末の京都で治安維持にあたった組織である。最大時はおよそ200人にも及ぶ集団だった。
新選組の前身となる「浪士組」が江戸でつくられたのは1863年。上洛する徳川家茂の警護が設立目的だったが、浪士組が京都につくと中心の清河八郎の態度が一変。浪士組は天皇のための組織だと主張した。それに反旗を翻した近藤勇らが、当時京都守護職だった会津藩主松平容保(かたもり)の預かりとなってできたのが新選組である。

映画やドラマなどの影響で、新選組は維新志士たちと激しい戦いを繰り広げて斬り捨てまくっていたというイメージがあるかもしれないが、新選組が鳥羽伏見の戦いまでに殺害したとされる志士は26人。新選組は今で言う警察組織だったため、やたらめったら人を殺害することはなかったことが分かる(現代の感覚だとそれでも多いが)。よく映画やドラマで耳にする「御用改めである。手向かいすれば容赦なく斬り捨てる」という台詞は警察ならではの台詞で、今で言えば拳銃を向けて「手を挙げろ」と言っているようなものだ。現代では実際に拳銃を打つと大問題ではあるが。

一方、敵との戦闘で死亡したとされるのは7名である。そのうち3名は有名な池田谷事件の傷がもとで亡くなっている。この数を見ると、先頭集団としての新選組の優秀さが際立つ。
また、新選組は一部創作で「局中法度」とも呼ばれた鉄の掟が有名で、隊のルールに反した、規律を乱したという場合は容赦なく粛清が行われた。手討ちもあれば切腹もあり、内部抗争もあったが、すべて含めると40人が隊内で粛清された。一時は隊のNo2だった山南敬助や、参謀の伊藤甲子太郎、創設メンバーの1人である藤堂平助なども容赦なく粛清されている。

今の価値観ではその良し悪しを判断することはできないが、動乱の幕末に組織をまとめあげるためにはそれだけの覚悟が必要だったのかもしれない。

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【参考】


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