#10 田沼意次の政治はなぜ「改革」でない?

どの順番で誰がに何をしたのか、ごちゃごちゃになるランキングで常に上位に入る江戸時代の3大改革。享保の改革、寛政の改革、天保の改革である。そして、享保と寛政の間に田沼意次の政治が入る。なぜ田沼意次だけ仲間外れなのか。

そもそも、享保・寛政・天保の3つの改革は、江戸時代末期に「享保の治」「寛政の治」「天保の治」と呼ばれていた。「治」とはよく治まった良い政治という意味で、明治時代の学者が「改革」と訳したらしい。

しかし、中学校の教科書を読むと、これらの改革が良い政治だったかどうかひじょうにあやしいことが分かる。享保の改革こそ評価が高いが、寛政の改革は厳しすぎて失敗、天保の改革は時代遅れで失敗とけっこうボロクソに書いてあるのである。

では、なぜ3つの改革が江戸時代に評価されたのか。それは、江戸時代には「貴穀賤金」という価値観があったからである。読んで字のごとく、「穀物(農業)は貴く、お金(商業)は賤しい」という考え方である。現代人でも何となくわかる。

3大改革は…というか、寛政・天保の改革は享保の改革をお手本とした。享保の改革は一言で言うと米の収穫量を増やそうとした改革である。それに対して田沼意次は貿易や株仲間の奨励を通して幕府の現金収入を増やそうとした。つまり、3つの改革は貴く、田沼意次は賤しいという江戸時代の評価が今の教科書でも少なくとも名前上は残っているのである。

後の歴史を見れば分かるように、田沼意次がやろうとしたことは先見の明があったのだろう。「改革」という名前に注目すると賄賂政治が記憶に残りやすい田沼意次の違った側面が見えてくる。

参考


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?