#226 秀吉VS家康、直接対決の行方は?

豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康が争った「関ヶ原の戦い」は天下分け目の戦いとして教科書にも載っている。一般的にはあまり知られてはいないが、信長の死後、秀吉と家康が直接対決をした戦があった。1584年の「小牧・長久手の戦い」である。

小牧・長久手の戦いの発端は1582年の本能寺の変だ。
秀吉は謀反を起こした明智光秀を討つと、翌年には織田家の有力家臣だった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、信長の後継者の最有力候補となった。

賤ケ岳の戦いでは秀吉の味方をした信長の次男信雄(のぶかつ)は、権力を強めていく秀吉に対抗するようになり、反秀吉包囲網が築かれるこことなる。その筆頭が徳川家康だった。他にも、家康と同盟を結んでいた関東の北条氏、越中(現在の富山県)の佐々成政、四国の長宗我部元親らが反秀吉として結集し、事態は天下分け目の様相を呈した。

秀吉は美濃と尾張の国境にあった犬山城を攻めて奪取。
このことで主戦場は美濃と尾張になっていく。
家康は犬山城の南方にある小牧山城を本陣として秀吉と対峙する。

全国で秀吉派と反秀吉派の軍勢が衝突する中、美濃・尾張の主戦場は膠着状態となっていた。
秀吉は別動隊を編成して三河攻略を図った。しかし、別動隊の動きを察知した家康は背後から別動隊を攻撃し、主力の武将だった池田恒興(つねおき)や森長可(ながよし)を討ち取る大勝利を収めた。

小牧・長久手の戦場では優勢を保っていた家康だったが、織田信雄が秀吉と和睦を結ぶと、織田家を助けるという大義名分を失った家康も秀吉と講和する。

全国的に秀吉の勢力が拡大する中、家康も秀吉に臣従することになるが、小牧・長久手の戦いで優勢を保ったまま和睦をしたことで、家康は秀吉政権でのナンバー2の座を手にすることとなった。

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【参考】


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