#48 秀吉が朝鮮出兵をしたのに江戸時代やりとりできたのはなぜ?

安土桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって日本と朝鮮との国交はなくなった。しかし、江戸時代には鎖国政策を行っている中でも朝鮮通信使が来日して、朝鮮とのやりとりが行われた。一体なぜなのか。

秀吉の朝鮮出兵は1598年の秀吉の病死によって失敗に終わった。その後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して江戸幕府を開いた。徳川家康の許可を得た対馬の宗氏は、朝鮮との国交回復のために朝鮮と交渉を行い、朝鮮出兵の際に日本へ連行された捕虜の返還などを行った。
その結果、朝鮮から国交回復の2つの条件を出された。1つは、朝鮮出兵の際に陵墓(王族の墓)を荒らした犯人を差し出すこと、もう1つは江戸幕府から公式に国書を出すということだった。どちらも難しい条件だったが、とくに国書を先に出すということは先に頭を下げるということとなり、江戸幕府の説得は困難なことが予想された。
そこで、宗氏が行ったのが偽装工作である。まず、犯人は対馬藩で捕えていた囚人の喉を潰し、話せないようにして朝鮮に引き渡した。そして、あろうことか幕府の国書を偽装して(でっちあげて)朝鮮に渡したのである。

朝鮮はうすうす偽装に気付いていたらしいが、日本との関係改善の好機ととらえ、国書への返答という形で日本へ使者を送った。朝鮮の使者が持っていた国書は、幕府からの国書の返答という内容だったため、そのまま将軍に見せたのでは偽装がばれてしまう。そこで宗氏は朝鮮からの国書も偽装して矛盾のないようにしたのである。

晴れて幕府と朝鮮との国交が回復したものの、朝鮮から国書が届くたびに対馬藩では藩ぐるみで国書の偽装が行われた。しかし、1633年に対馬藩内での対立がきっかけとなり、家臣が今までの国書偽装を幕府に密告。将軍や旗本・大名などの前で対馬藩主宗義成と密告を行った柳川調興(しげおき)の申し開き(裁判のようなもの)行われたが、幕府は朝鮮との貿易は宗氏に任せた方が都合が良いとして政治的な判断を行い、柳川調興は津軽へ流罪となった。

この一連のできごとを「柳川一件」や「国書改竄(かいざん)事件」と呼ぶ。日本と朝鮮との国交は今では考えられない国書の改竄によって回復したのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?