#56 卑弥呼の墓はどこにある?

邪馬台国が北九州にあったのか畿内にあったのかというのはいまだに分かっていない。発掘調査によってあるものが見つかれば確定すると言われている。それは、卑弥呼の墓か魏から贈られた金印である。実は、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳が奈良県にある。
卑弥呼の墓ではないかと噂される「箸墓古墳(はしはかこふん)」は、奈良県の市街地から少し離れた、畑地の傍らにある。

箸墓古墳は、3世紀中ごろから後半につくられたと言われている前方後円墳である。その他の多くの古墳と同じように、今ではただの雑木林にしか見えないが、上空から見ると特徴的な鍵穴の形をしている。


宮内庁によると、箸墓古墳は第七代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓である。日本書紀によると、倭迹迹日百襲姫命は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻となるが、大物主神は夜しか姿を現さなかった。倭迹迹日百襲姫命が昼間も姿を見せてほしいと頼むと、「ぜったいに驚かないように」という条件で大物主神は姿を見せた。しかし、その姿は小さな蛇であったため、倭迹迹日百襲姫命は驚いて後ろに転んでしまう。その時、運悪く箸が陰部に突き刺さってしまい、倭迹迹日百襲姫命は命を落としてしまった。そのため、「箸墓(はしはか)」と呼ばれているという。

では、なぜ卑弥呼の墓だとする説があるのか。それは卑弥呼と倭迹迹日百襲姫命に数々の共通点があるからだ。例えば、次のようなものがある

・古墳が作られたとされう2世紀中ごろ~終り頃という年代が、卑弥呼の没 
 年と重なる
・倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼とおなじく巫女的な女性であったとする伝承が
 ある。
・魏志倭人伝に、卑弥呼は約150mくらいの大きな墓をつくったという記 
 述があるが、箸墓古墳の後円部がちょうどそのくらいの大きさである
・箸墓古墳を含む一体は3世紀に大規模な集落だった纏向遺跡(まきむくい 
 せき)となっているが、この集落が邪馬台国の中心都市だったのではない 
 かと言われている。

 このような理由から、箸墓古墳が卑弥呼の墓なのではないかと言われ、邪馬台国畿内説も有力になっている。もしこの説が正しいとすれば、邪馬台国はその後大和朝廷に発展した勢力だと考えられる。古墳の中を発掘すれば新たな事実が分かるかもしれないが、皇族の墓とされる箸墓古墳は宮内庁が管理しており、発掘を行うことができない。真相が明らかになる日はまだ遠いようだ。

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