#146 制限時間は8時間!?右側通行から左側通行への大転換

1972年に沖縄は本土復帰を果たし、アメリカの占領時代のルールが日本のルールに変更になった。
例えば、通貨がドルから円になり、距離の単位がマイルからkmになった。ルールの変更はさまざまな混乱を招いたが、中でも困難だったのが交通ルールの切り替えである。
アメリカは右側通行、日本は左側通行、単純なことだが、これを転換するには数年単位の準備期間を要した。切り替えが実現したのは1978年の7月30日。沖縄復帰から6年を経て行われた交通ルールの大転換は、「730(ナナサンマル)プロジェクト」と名付けられて大々的に宣伝された。

交通ルールを変えるには人々の意識だけではなく、膨大な道路標識や道路標示を変える必要がある。そのためには道路を一時的に通行止めにしなくてはならない。しかし、鉄道のない沖縄では、道路の閉鎖は物流や人流の停止を意味する。そこで、この大転換は一夜にして行われることが決定した。制限時間は夜10時から朝6時までの8時間である。

この8時間のために入念な準備がなされた。道路標識については、あらかじめ左側通行の標識を設置してカバーをかけておき、8時間の間にカバーを取るという形にした。作業員は迅速にカバーを取る訓練を行った。道路標示もあらかじめ表示を描いておき、その上からテープを貼り、当日はバーナーでテープを焼いて剝がすだけという方法がとられた。この方法は、沖縄県警交通規制班班長だった久高弘さんによって考案されたため、後に「久高方式」と呼ばれた。
切り替え作業は概ね順調に進んでいたものの、台風の接近による降雨の影響でバーナーによる道路標示のテープ剥がしの作業が遅れてしまった。しかし、タイムリミットの6時直前に作業が終了。歴史的な左側通行への切り替えの瞬間を見ようと沿道に集まった人々が集まる中、沖縄県での左側通行がスタートした。

交通の混乱が予想される中、全国から約3000人の警察官が招集され、沖縄県警と合わせて約4400人が警備にあたった。不慣れなドライバーによって渋滞や交通事故が起きたものの、キャンペーンが行われた切り替え後の一ヶ月間は交通事故による死亡者はゼロだったという。

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