パパを看取る
「吐血した」…の3回目の電話。すぐ病院へ向かった。あたしの方が一足先に病院に着いた。
パパは処置室のベッドにいた。背もたれが上がっていて、座っているような感じだった、そしてパジャマは真っ赤だった…パパはいつもあたし達がいない時に吐血するね…とお母さんと話した。そういう姿を見られたくないのかもね…と。
声を掛けたらとりあえず反応したが、目は閉じたままだった。医師は「今回は300〜400㎖なのでかなり多いです。もう危ないです。個室に入りますか?」と言った…もう長くはないんだ…
その日から個室に入った
鮮明に覚えていたのは、パパの様子だけで日にちの感覚はうろ覚えだったと、今になって思う。確かその日、お母さんはパパの病室に泊まった。
パパはもう、声を掛けても返事をしなかった。謂わゆる意識不明?昏睡状態ってやつなのか…それでも苦しいのか、痛いのか、顔を歪めてカニューレを触る…その度に声を掛けるけど反応はない
その翌々日だったか(もう記憶が曖昧)午前中、お母さんから「心拍が弱くなったと病院から電話きた」と連絡をもらい、急いで病院へ行った。家には家族がいたが、あたしは先にすぐ家を出た。そしてお母さんより先に病院に着いた。パパに付いていた機械が、ピッピッ…と心拍などを示していた。病室には医師と看護師数人いた。
「パパ…」と呼んでも返事はなかった。口元、カニューレ、鼻の辺りは血の塊が付いていた。
数分でお母さんが来た。表情と仕草で動揺している事はわかった。…それからすぐパパの心肺機能や脈が弱くなってきた。お母さんはパパの側で手を触っていたと思う。もうその辺の記憶はあまりない。現実味がまったくなかったから…
機械が何度も大きな警告音を出す。その度に看護師さんがその音を止める…これを何度も繰り返した。お母さんが来るのを待っていたかのように、お母さんが来た途端、みるみるうちにうちに脈が弱くなり、心電図のピッピッという音の間隔があき、直線のまま動かなくなった…
医師がパパに聴診器を当て「肺の機能…止まってます…」「心臓、止まっています…」「11時58分これをもって死亡確認とさせていただきます」と言って、皆で一礼した…その医師の言葉だけはよく覚えている。お母さんはずっとパパに寄り添っていた。お母さんもあたしも取り乱して大泣きする事は無かった。なぜなら後悔がなかったから…今でこそ、これを書いていて涙が止まらない…
でも最後の入院約1ヶ月、お母さんと一緒にパパをみる事が出来た。パパの死を覚悟しながらだけど、最後の1ヶ月間を過ごすことが出来た
痛くても苦しくても文句も言わず黙って目を瞑っていたパパ…きっと死ぬ事は分かっていただろうに、死への恐怖を言うことも、取り乱す事も一度もなかった。そして1番苦しい吐血の姿を見せる事もなかった…この全てにパパの優しさが詰まっていたのかなと思う
親を看取る…これほど辛い事はないなと思った何年経ってもお母さんと話すのは「パパが死んだのは悲しい、でも後悔はないよね」ということ
毎年、命日が近くなるとパパを思い出して泣く日が続く。
幼い頃から「パパにそっくりだね」とお店に来るお客さんに言われた事。すごく稀に保育園にバイクで迎えに来て、それに乗って家に帰った事(今では考えられないけど)。お酒に酔いベロベロのパパにキレた事。孫(娘と息子)をすごく可愛がってくれた事。看病してる時、頬をポンポンと触り「ありがとう」と伝えてくれた事…。お母さんが来るのが遅くて不安だったのか、あたしが病院に行ったら手を握ってきた事。お母さんが泊まった時、昏睡状態だったはずなのに、お母さんに「ありがとう」と掠れる声で言って手を握った事…お母さんはそれで全てが報われたと思う
波瀾万丈の人生を生き、自分の寿命を全うしたパパ。命日には好きだった花をたくさん飾るから
命をありがとう
長文読んでくださった方、ありがとうございました