女子高育ち、性嫌悪、自他境界。-恋愛は選択科目だ

 ノンバイナリー&Aセクの自分がなぜ恋愛をしようと思わないのかをひたすら書いてみる。


 時が過ぎるのは早いもので私がXジェンダーを自認し始めてから今夏で5年になる。自認してからも道中いろいろあって、中性→無性→性別概念ナシ?と迷いつつ今では「ノンバイナリー」が一番しっくりくるこの頃である。

 そしてAセク自認も自分の中ではすっかり定着してきた。その間、NHKでAセク当事者のドラマが放送される世の中になるなんて思いもしなかった。

 大学入学以来、私は自分自身について模索しながら再定義してきたが、依然として恋愛至上主義の社会には不適合者のままである。

 私はなぜ恋愛をしようとしないのか。頭の中でぐちゃぐちゃになっていたものを少し整理することにした。

 

[女子高育ち]

 私は高校の3年間を女子だけの空間で過ごしたが、とても居心地が良かった。この頃は自分の性別についてほぼ意識にのぼっていなかったが、周囲の人たちは私のことを「女性」としてというより「自分」として見てくれていたことが嬉しかった。ただ高校時代は日々の授業についていくことや、大学受験の勉強に精一杯だった。自慢ではないが私の頭の中は、勉強>>部活>趣味という感じだった。けれど男子高生が同じ教室にいない環境であったため異性関係のことを考えずに済んだので、自分のすべきことや、したいことに全力で集中できたのはとてもありがたかったと思う。

 あとは「男性に依存しないで自分の力で何でもする」とか「男性の目を気にしなくなる」「女性らしさよりも自分らしさを大事にする」など今の自分につながる要素がいくつか思いつくが、その源流は女子高育ちにあるのかもしれない。

 共学の大学に入って周囲が恋愛をしていても、私にとって恋愛をすることは人生におけるオプションの1つに過ぎなかった。極論、男性に依存しなくても人生楽しいのである。

 

[性嫌悪]

 最近ではだいぶ落ち着いてきた方だが、私は性嫌悪ありのAセクである。詳細なことは書きたくないが、男性からセクハラを受けてから、男性に触られること自体心が受け付けない。手が触れるのもダメ。では女性ならいいのかといわれたら、そういうわけでもなく、ボディタッチは全般的に無理な方だ。性的な目で見られることもダメ。自分のことを女性として見てくれない人の方が、私は安心する。

 フィクションの中の性については、リアルよりはまだマシだと思っている。あまりにも暴力的な性描写には抵抗があるが、限りなく透明に近いブルーを読めるぐらいに耐性はある。それよりかは、ストーリー性がしっかりしていて綺麗なBLの性描写の方が読みやすいと感じている。

 

[自他境界]

 やはり私が自然にすんなり恋愛できないのは、自他境界がガチガチで、心の最も奥にある扉に辿り着くまでに何重もの扉が存在するからなのだと思う。私の心には入り口があって、その先にもたくさんの扉がある。徐々に心の距離が近づいてきた人は扉を1つずつ開けることができる。しかし一番奥の扉は「KEEP OUT」のテープにより厳重に守られ、「自分以外立入禁止」なのである。自分でも何が入っているのか理解できていないが、開けたら大変なことになりそうなのは予測できる。

 ともかく他人に対して自分の中身を簡単に見せることはしないので、他人と深く関わろうと思わないし、友達も少ない。恋愛に対するモチベーションも湧いてこない。

 

[さいごに]

 恋愛しなければ人生損しているなんて気持ちも分からなくもないが、私にとって恋愛をするとは、極端に言うとペットを飼うとか煙草を吸うとか、そういう数多の選択の1つでしかない。

 地球の全員がしなければいけないものではないし、希望する人だけすればいい。そして希望しない人は無理にする必要はない。と考えている。