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月と崎山蒼志――“上京者の詩”が描いてきた都会の街について

音楽は、詩は、都会の街で育っていく。

喧噪の中ですれ違う人々の群れは都会らしさを声高に強調し、適度に保たれた人と人の距離感は都会の緊張感を浮き彫りにする。人の体温をまとった生ぬるい空気の香り、建物と建物の間をすり抜けてふわりと入ってくる風の感触、ふと窓に射す屈折した月の灯り。様々なものが都会を都会たらしめている。

「変わっていく世界を/変わらない寂しさを/月のように吹き抜けた明かりを/あの/自動販売機を/見ている」(「過剰/異常 with リーガルリリー」より)と歌う崎山蒼志の優しげな声を聴き、都会へ引っ越したことでの寂しさを伝えるインタビュー反芻しながら、私は“上京”について考えていた。

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歴史上の詩人がどのように東京を描写してきたかについて論じた、清岡智比古の『東京詩』(左右社)という書籍がある。本書では、“上京者の詩”の先駆け的存在である石川啄木が「天地を霧は隔てて、照りわたる月かげは天の夢地にそそがず」と綴った詩『眠れる都』について次のように言及している。

いわゆるJ-POPと呼ばれる若い歌手の作る歌が、どれほど啄木的であるか。上京というテーマが、どれほど変装され、どれほど受容されているか。(中略)そして忘れてはならないのは、このなにかしら「圧倒的なもの」こそが、今の東京を作り出してきたということだろう。彼ら「上京者」なしに、東京は生まれ変わることはできない。彼らの原点、それがこの「眠れる都」なのだ。

歴史的に、「月」は“上京者の詩”において非常に重要なモチーフを為しているのである。多くの詩人が東京への様々な想いを投影し描写してきたもの、それが「月」なのだ。著者は山元文弥の俳句「新宿や春月嘘っぽくありて」(『俳枕・東日本』)を引用しながら、むしろ人工的なネオンの方が自然に見えるくらいに都会の月が“嘘っぽい”存在であることを指摘している。続いて、宇多田ヒカルの曲「東京NIGHTS」(『DEEP RIVER』収録)を参照し、次のようにも述べるのだ。

そして宇多田はと言えば、彼女は山元よりさらに一歩進んでいるようだ。「東京NIGHTS」には驚くべき宣言が滑りこんでいる。彼女は言う。
月など要らない
かつて啄木は、「照りわたる月かげ」に包まれた東京を見おろしていた。あれから、ほぼ一世紀の時間が流れている。さらに宇多田は、東京を生きるものとしての「素直な気持ち」を、「ビルの隙間」に隠すという。そう、それはもう類型化した「ビルの谷間」でさえない。詩人が馴染んでいるのは、ビルとビルのわずかな「隙間」なのであり、俯瞰する、あるいは見上げる高度としての「谷間」ではないのだ。宇多田にとって、ビルはあらかじめ存在していた自然、特別扱いする必要のない環境の一部なのだ。ではこの、ガードレールに囲まれ、ネオンが輝き、ビルが佇む東京は、宇多田にとってなんでありえるのか。「言葉にした情景はすべて見ることができ」るという、若い詩人にとって。
お母さんみたいに優しい温もり
街の明かりに
母なる都市、母なる東京。そう宇多田は歌う。現代詩が東京と向き合って百年、今初めて、東京はわたしたちの「母」となったのだ。

崎山蒼志はインタビューで、「たまに月が見えると、夜風の中ですごく吹き抜けたように気持ちよく光っている気がして」と語った。鮮烈な視点である。それが、山元文弥の言う“嘘っぽい月”と近しいものとして崎山蒼志の目に映っているかは分からない。ただ、「過剰/異常withリーガルリリー」での「変わっていく世界を/変わらない寂しさを/月のように吹き抜けた明かりを/あの/自動販売機を/見ている」という歌詞で「月」と並列に描かれているのは「自動販売機」なのだ。あまりに機械的で、味気なく、人工的な自動販売機と月を並べ、崎山蒼志はそれらに「変わらない寂しさ」を託す。彼にとって、「夜風の中ですごく吹き抜けたように気持ちよく光っている気が」する都会の月は、いま、自然の懐かしさと人工的な神々しさの間で揺れ動いているのかもしれない。

そして、都会で何年も暮らしたのちに、崎山蒼志はいつか宇多田ヒカルのように「月などいらない」と断言し、東京を「お母さんみたいに優しい温もり」とまで言うのかもしれない。その頃には、私たちの想像もつかないような全く違った崎山蒼志が完成しているのだろう。「未完成さ」をコントロールしながら、相変わらず優しさと寂しさをまとったぞくぞくするような音楽を奏でているのだろう。それまで、友達との電話とパグの動画が、優しい温もりとして寄り添ってくれる。

音楽が完成するまで、月はずっと、彼を照らし続けてくれる。

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