2023/12/11の日記


折坂悠太の新曲が配信された。もう40回は聴いてる。

「ええよ 眠れなくても ええよええよ 明日もくるよ 血行 澱んだり流れたり 正常 生きてるよ」のところが特に良い。優しいし力強い。

なんとなく、ファーストアルバム『たむけ』の雰囲気に近い、牧歌的で生活的な曲調。サードアルバム『心理』の少し緊張感のある楽曲群もすごくよかったけど、個人的には今回の「人人」のような曲をもっと聴きたいと思った。

『心理』に収録されている楽曲は、名前の通り、人の「心理」の奥底にあるものを表現しようとしているように感じた。暗闇を進みながら、沈黙のなかの捉えがたい心理を掬おうとしているから、そこには緊迫した雰囲気が漂っている。しかし「人人」には、そういう潜水士のような緊迫感はなくて、もっと鳥瞰的で、ゆったりとしていて、人の生活とその中にある悲喜こもごもの全てをじんわりと肯定するような楽曲だと思う。とても朗らかだ。そして、この朗らかさは『心理』の緊張を通過して得られたものであるような気がするのだが、そう考えるのは少し物語的すぎるか。

私には、人間の生活をまるっと肯定したいという願望がある。それぞれが勝手なことを考えて、勝手なことをして、その結果傷つけあったり助け合ったりしている。そういうことすべてを尊んで肯定してみたい。
だけど、「我が事でないからそういうお気楽なことが言えるのだ」「現実の悲惨さから目を背けているだけだ」などと言われたらギクリとはなる。たしかに、自分も人間社会の渦中に入って、本気で苦しんだり楽しんだりしていたら、そういう「傍観者的」な態度ではいられないのかもしれない。直視できないような悲惨な現実とも、多分まだ向き合えていない。でも、だからといって、傍観を一切しない生粋の「介入者」として一生を終えることが、果たしていいことなのだろうか。

私はちゃんと現実に介入していたいと思う。でも、だからといって傍観者であることを止める気もない。どちらの視点も持っていたい。ある程度傍観していないと、人生を肯定することなんてできない気がする。人生や世界を肯定するということは、良いことも悪いこともひっくるめた私なりの物語をつくることだ。そのためには、傍観者的(観想者的ともいえるか)な態度が必要になる。もしも私のなかから傍観者がいなくなったら、この世界は地獄だ。

本気で現実に介入しようとする気持ちがないと物語から真実味が失われるし、介入するばかりで傍観・鳥瞰ができないと、大きな物語をつくることができない。どちらも大事なのだ。

また、そもそも現実とフィクションの境目なんて不確かだということも忘れてはいけない。SNSを見ていると、創作物の表現の自由を擁護する場面で、「フィクションと現実の区別さえつかない人はフィクションに触れないほうがいい」といった内容の批判をする人がたくさんいるが、彼らはフィクションが現実に与える力を舐めすぎているし、そもそもどういう基準で両者が区別されているのかも本当は分かっていない。彼らが言うような「現実」こそ虚構だ。こういう嘘くさい「現実」が巷には溢れているから、気を付けなければならない。

現実は曖昧で、自分でつくり上げるものでもあれば、勝手に生まれ、変化していくものでもあるし、どう捉えればいいのか、今のわたしにはわからない。しかし、分からないなりに明日が来て、いずれ自分は死ぬ、というところに何か不思議な、大きな物語の萌芽を感じる。現実は捉え切れないが、物語のなかでなら捉えられる。そして、物語はいずれ終わらせられる。

ちょっと規模の大きい話すぎて、頭が働かなくなってきた。

今日も明日がくる。明日がくるってすごい。明日と一緒にいろんなものがくる。良いことも悪いこともあるだろう。身を任すしかない。

明日は美容院に行く。遅刻しないようにしなければ。

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