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【小説】淵の王/舞城王太郎 読了


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2020年の1月から放映していたオリジナルアニメ、ID:INVADEDは大変面白いSFミステリでした。
「BDBOX上下セット合わせて3万円なんて、安い!」と私は叫び、即座にAmazonでカートに投げ込んだほどです。
そして4/25の土曜日。BDBOX上巻が届いてまずは特典冊子を確認しました。脚本である舞城王太郎の描き下ろし短編があることを知っていたからでした。
そして笑ってしまいました。
アニメを見ているときにも感じていたものでしたが、学生の頃、氏の作品に触れたときそのままの鮮明な感触がしたからです。
(大学生くらいのころに新本格やメフィスト賞作品に触れ、そのままのめり込む体験をしたのは、私だけではないでしょう、たぶん)

最後に読んだのはなんだっけ、九十九十九?
ジョジョノベライズ企画は乙一しか読まなかったんだよな。
煙か土か食い物が長編では一番好きだけど、短編だとピコーン!が一番好き。(露骨な性表現は本来あまり得意ではないのだけど。)
例に上げたサンプルが古い。あれ、煙か土か食い物って、19年前の小説なの!?
ディスコ探偵水曜日との関連をつぶやいてる人もいるからそれも気になるけど、もっと最近の小説も読んでみたい。

と、考えて調べてみた結果、この淵の王を4/25、土曜の読書に選んだのです。




未読の本、読みかけの本、いつか読みたいと思っている本を積み上げて横目に見ながら。こうした読書が一番捗るのですから、仕方がありませんね。

※ここから先は作品のネタバレを含む感想となります。
未読の方は読まないようご注意ください。

 


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この作品はいろんなことが説明されません。
タイトルが意味するのは何なのか。
主人公たちを見守る「私」「俺」は何者なのか。
黒い穴は何者なのか。
黒い穴から出てきた男は何だったのか。

しかし私はとても気持ちよくこの作品を読み終えました。

堀江果歩を見守る「俺」の抱いた激情を中村悟堂が晴らしてくれた。
やり遂げた、ハッピーだ! という気持ちで終える事ができました。

月並みな表現になりますが、舞城王太郎の作品はやはり愛に満ちているのだと噛み締めて。

わからないことばっかりだ、だけどそれでいい、ここで、今、私は幸せな気持ちだ。と。

だったらそれでいいじゃないか、こんなにぐだぐだとnoteに書き連ねることもないじゃないかとは思いましたが、色々と考えることはあったので、思いついた順に書いていこうと思います。

・3つの章で人称を担っていた「私」「俺」「私」とは何者だったのか?

これはかなり露骨に描写されていたように思います。

中島さおりの「私」は堀江果歩。
堀江果歩の「俺」は中村悟堂。
中村悟堂の「私」は中島さおりです。

中島さおりの「私」は、中島さおりの人生では文学やマンガにふれることがなかったはずなのにそれに堪能です。その上、さおりのことをベタベタに溺愛しています。ちょっと特殊な語彙も持っています。これは、堀江果歩の経歴や、女の子が好きかもしれないと悩んだことにも合致します。
堀江果歩の「俺」が彼女の魅力を語る時、好色さを含む目線を果歩に向けています。中村悟堂のパーソナリティを考えれば、納得の視線です。なによりラストで、「俺」は黒い穴に強烈な敵愾心を抱きながら消えていきます。それは、中村悟堂が最後に晴らしたあの激情に似ています。
中村悟堂の「私」がもっとも顕著で、黒い穴に飛び込んだあと、印象的な「光の道」というキーワードが出現しますし、中島さおりが男性にうっすらした忌避感を抱くのも、彼の女性へのだらしなさが関わっているようにも思います。
なにより、彼女が東京から福井までためらわずに飛んでいけたのは、彼の「ここで、今」を見たからではないでしょうか。

視点人物たちも、章の主人公たちも、自分たちが別の形で存在していたときの記憶自体は持っていないように見えます。
しかしそこで抱いた愛は確かに存在していて、彼らの人生に大きな力を与えた……と、私は解釈しました。

堀江果歩の姉が、「本読んで、本当に何にも残んないなんてことないって。」と語ったように。

しかしこうして並べてみると、はっきりとした違和感があります。
そう、時系列がめちゃくちゃなことです。
「私」「俺」「私」は章主人公だった時の性質を引き継いでいるように見えます。しかし、中島さおり、堀江果歩、中村悟堂は「私」「俺」「私」だったときに見聞きしたことをフィードバックしたような振る舞いをします。

これはどういうことでしょうか。

ここで出てくるのが(おそらく黒い穴に影響された)広瀬順です。

「過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在していて、何かが開いているページ、あるいはその何かが読んでる文字、そういうのが今ってこと」。

広瀬順のセリフを真とするなら、この作品において時系列は重要ではないことになります。
しかし章の登場人物たちの人生は丁寧に綴られていて、そこに時系列における記憶の混乱はないように見えます。

しかし、2つだけ例外があります。
まずは黒い穴によって差し込まれる怪異。
赤ん坊を押し付けようとする女や、不気味なものが閉じ込められたグルニエは章をまたいで登場します。
そして、登場人物たちを見つめる眼差しと、別の章の主人公の不思議なリンク。
中でも一番印象的な、「光の道を歩まねばならない」とつぶやいた中島さおりでしょう。

黒い穴と視点人物たちは物語の時系列をある程度無視することができる。
だから、黒い穴に影響された人物や、視点人物=章主人公たちは、時系列をある程度無視して物語の前後に登場する要素を認識することができる。

すると、この3人は時系列に囚われず、ぐるりと輪を描いていることになります。
眼差しによって得た愛を抱いて自分の正しさを貫いて生きぬいて、そしてその生き様があったことを確かに背景とした人格で、主人公となった彼・彼女を見つめている。

記憶は引き継がれず断絶していますが、きっとそれでいいのでしょう。堀江果歩の姉が言ったとおり、内容を忘れたとしても、本を読んだことに意味はあったのです。
忘れてしまった愛であっても、愛したことが彼らの人生において正しさを支え続けたのです。


届かない愛に意味はなく、悲しい。そうかもしれないけれど、その正しさを愛した私はその愛によって決断することができる。
愛したことすら覚えていないかもしれないけれど、だからといって意味がないわけではなく、愛が人を救うんだ、というお話と私は感じました。


さて、ここからは飛躍します。


悪い想像力が力を持つなら、良い想像力も力を持つのではないか。

それがつまり、中島さおりを見つめる「私」であり、堀江果歩を見つめる「俺」であり、中村悟堂を見つめる「私」なのではないか。ということです。

彼らはまだ誰にも見えない黒い穴を見ることができ、それに干渉することができます。
中島さおりの章のラストで「私」が食われるのは、つまり中島さおりをかばってのことであり、彼らはたしかにあの世界で、黒い穴と同じ階層に存在しています。

黒い穴が悪い想像力の産物ならば、この、同じ階層にいる「私」たちこそがいい想像力の産物なのでは? という考えです。

では、いい想像力とはなんでしょうか?
「私」たちは、黒い穴と違って、とても無力なように見えます。
なぜ「私」たちがいい想像力の産物なのか。

それは、この作品を読んで読者が思いを巡らせたことに深い関わりがあるんじゃないでしょうか。

中島さおりを見つめる「私」に堀江果歩を見出し、堀江果歩を見つめる「俺」に中村悟堂を見出し、中村悟堂を見つめる「私」に中島さおりを見出したこと。
見つめる相手から見出した光によって、生き方に正しさを求めたのではないかと考えたこと。

正しいもの、輝くものを見たからという理由で、3人の生者たちは自分に恥じない生き方を貫いた。それが悲劇を招いたこともあったけれど、それでも自分にとっての光の道を歩き続けた。
眼差しによって得た愛が、本の中でゆるやかに繋がって、愛の輪を描いたのではないかと想像したこと。

その結果、この作品で悪い想像力を退けることができた。

これがいい想像力であって、この作品の仕組みなのではないでしょうか。
(だって、明言はされていないのです。視点となった「私」たちが本当は何だったのかなんて。そこに因果関係を見出したのは私たち読者の方想像力に他なりません!)

 

さて、この作品最大の謎は、タイトルです。
淵の王。そんな単語、作品には出てきません。

黒い穴を通じてあちこちで悪さをしていたらしい傷だらけの全裸男のことかな? と最初は考えましたが、彼自身の存在はこの作品においてあまり重要ではないように思います。
(ピコーン!で主人公の彼氏を殺した犯人が大した人間ではなかったように。舞城王太郎は、犯人については少し興味が薄いように私は感じています)

もしくは、杉田浩輝、広瀬順、湯川虹色(主人公たちが好意を寄せ、告げることができなかった3人)の名前に共通した、水の要素に絡んでいる? これも確証が持てません。
(それでいうと堀江果歩も水に縁のある名前です。彼女と姉はグルニエの話がこぼれるなど、黒い穴とやや距離が近いようにも見えますから、無関係な概念ではない気もしますが。)

もっとじっくり読み込めばわかるかもしれませんが、正直なところ私の頭脳ではお手上げです。
なので好き勝手に想像力を働かせてみることにしました。

名前の音には意味がある。間は魔である、と中村悟堂の「私」は言いました。
冒頭で、中島さおりの「私」も、「さおり」という音にだけ意味があると言っています。
となれば淵の王という名前も、むしろ音に意味があるのではないでしょうか。

淵はフチ、縁。
王はオー、O。

この作品において、最終的に勝利を得たのは、私達が想像力を働かせて見出した愛の輪であると先程書きました。
つまり淵の王とはこのことです。
私達と作品世界を隔てる――その中間に位置する縁において、円環する因果の輪。
私達の働かせた、いい想像力のこと。

と、自分の中で決めつけて、この記事をおしまいにします。

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