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1997年香港返還前後~大陸熱に魅せらせて~

はじめに

どうも、はじめまして。現在Xにて上海での農村暮らしをゆるーく発信しております、上海農村おじさん🌾と申します。学生時代に北京で1年間の留学経験を経て、日本での社会人生活を半ばドロップアウトするかたちで2008年より上海に渡り、紆余曲折ありながらも、ずっと上海で暮らしております。

最近想うこと。

中国生活も長くなり、いろいろな中国を目にしてきた訳ですが、昨今の中国経済の低迷や不動産バブルの崩壊、そしてXを始めるようになり、今まで知らなかった有益な情報もあれば、自分にとって必要のない情報も入ってくるようになり、情報過多にうんざりしたり、モヤモヤしてみたり。そこで今一度、私が中国にハマったきっかけやその当時の時代を振り返りながら思い出話を綴ってみようかと思いますので、ご興味のある方はお付き合い下さい♪

念のため書いておきますが、これから書くことは昔の中国ウンチクひけらかし・マウント等ではなく、オッサンの単なる思い出話に過ぎません…

時は1996年に遡ります

当時、私はもともと洋楽好きで英語志望のミーハーな大学一年生、しかし受かったのはすべり止めに受けた第二希望の中国語学科のみだったのでした(泣)当時の中国語学科には三国志好きや漢詩好き等マニアックなタイプの学生が多く、私は「なんで俺が中国語なんだよ?」となかなかモチベーションが上がらずモンモンとした日々を過ごしていたのでした。

香港返還前辺りから始まりだしたアジアンカルチャー熱

しばらくモンモンとした私でしたが、たまたま暇つぶしに見た岩井俊二監督の映画「スワロウテイル」を見てから、だんだんとアジアンカルチャーにハマっていくのでした。

『スワロウテイル』

おぉ、Charaが中国語使ってるー!!と当時は感動したものです^^(YEN TOWN BAND:「上海ベイベ」より)

その後はレンタルビデオ屋でアジアンカルチャーを感じられる映画を探す日々。そこで出会ったのがウォン・カーワイ監督の「恋する惑星」だった。日本では1995年公開の作品。

『恋する惑星』

フェイ・ウォンって王菲(大陸名)っていうんだと知ったのは後になってから。ウォン・カーワイ監督の世界観とフェイ・ウォンの透き通るような歌声が映画と絶妙にマッチしていた。後に98年北京留学時に王菲のライブで「夢中人」を生で聴けたのは良き思い出です。

その後もウォン・カーワイ監督作品はずっとファンで見続けている。Xで少し書いたことがあったけれども、コロナ渦中2021年に上海で友人の伝手で大陸向けドラマ『繁花』の日本人エキストラとして参加して、生のウォン・カーワイ監督(大陸名:王家衛)を拝めたのも良き思い出。(残念ながら私のエキストラ参加部分は編集で全カットされていましたが…泣)

その頃には中国語に対するモチベーションも変わり興味が湧き始める。また、中国語学科内にも友人ができ、その友人の影響で今まで洋楽(ブラックミュージック全般)ばかり聴いていた私が、日本のハードコア・メロコア・パンクといわれるジャンルのバンドブームに引き込まれていく。その中でもアジアの民族風の独特な音で異彩を放っていたのが、まだインディーズで活動していた頃のBRAHMANだった。今でこそフジロックフェスの常連のバンドだけれども、バンド結成当初はまだ都内の小さなライブハウスでメンバーが自主製作CDを自分達で手売りをしていたいちバンドに過ぎなかったけど、あれよあれよという間に駆け上がりメジャーとなっていくのを目の当たりにしたのだった。

BRAHMAN

※このCDはすでに廃盤になっているけど、ファンの間で歴史的な名盤と言われているらしい

まだ多感な時期、今まで自分が聴いたことがないジャンルで新鮮であったのはもちろん、民族調の圧倒的なアジア熱を感じる音に私も熱狂したのであった。後の98年の長期留学先を北京の中央民族大学を選んだのも、この民族調の音楽も少なからず影響があった。また、その留学先で知り合った中国ロックオタクの友人から北京のインディーズバンドのライブに誘われるようになり、当時北京にあったライブハウスScream BarやKeep in Touchへも足を運ぶようになっていく…

1997年香港返還~初中国は北京への短期語学留学~

幼少時代を日本のバブル期にヌクヌクと育ったきた私にとって、初めて行った中国の印象はまるで昔の時代にタイムスリップしてしまったような、まず空港に降りてから何を言ってるのかよくわからない客引きの人の多さに圧倒されました。こ、これが大陸(中国)かと。

現在の中国の発展から考えると、まだまだ不便なところがたくさんありましたが、街から人から、これからの発展を匂わす何かふつふつとしたマグマのような圧倒的なパワー(大陸熱)を感じずにはいられませんでした。

また、当時から汚い・臭いをはじめとしたモラルやマナー的な問題はもちろんありましたが、私は絶対無理というタイプではなく、むしろ自分に正直な人間らしい生き方をしている人達だなぁと。まずは郷に入っては郷に従おうとカルチャーギャップを乗り越えてきたように思います。

当時の大陸の人が香港に対してどのように考えていたか、象徴的な歌があります。それが艾敬の歌う「我的1997」です。下の動画は字幕付きで聴きとりやすい歌なので学習用にもよい歌だと思います^^

『我的1997』

日本にいる頃からタワーレコードのアジアポップスコーナーに出入りしていた私は、確か当時ソニーミュージックレコーズ所属で日本でも香港返還時期に音楽雑誌等でレコメンドされていたことがあり、すでに艾敬の存在を知っていました。その艾敬とも98年留学時に北京のライブハウスで生の「我的1997」を聴くことができたのは良き思い出です。

1998年北京へ~一年間の長期留学~

すでに先に述べたエビソードや、今後細かい留学での思い出エピソードを書いていこうと思っているのでここでは簡単にまとめておきますが、1年間の北京生活はまさに心の故郷といったところだろうか、私の中国生活はここから始まったと言っても過言ではないほどの人生のターニングポイントとなった。

当時、漠然としてはいたけど、将来必ず中国へ戻って来ると決めて日本で就職し希望を胸に社会へ出たものの、この時すでに私は中国の大陸熱に冒されていたのです…(言い換えるならば、当時の中国の魅力の虜になってしまっていた…)その10年後、2008年から現在に至るまで私が上海で暮らしているとは、この時はまだ誰も知る由もなかったのであった・・・

《続》

最後までお読み下さり有難うございました!
また続編或いは他のエビソートを不定期で書いていこうと思っていますので
今後ともよろしくお願いします。

上海農村おじさん🌾

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