自己紹介という名の茶番劇

世界から『あ』を引けば

残像に口紅を

自己紹介。

それは、初対面の人間たちが、初対面なばかりに共通の話題がなく、何を話したらいいかが分からずに流れる特有の気まずさを、その場しのぎで乗り切る際に使われる有効打。その時間において得られる情報のその大半は、一定期間を過ぎると忘れ去られる。各々が、いかに自分は普通で、害のない人間かを証明するために、奇のてらわないことを話す。

それが自己紹介。

最近、自己紹介にて「好きな食べ物は、パンです。」と言う女性が増えてきたような気がしています。

僕にはどうもその女性が、「パン」の響きがかわいいが故に言っているのではないかと疑ってしまうのです。パンが好きな人間がいるか。寿司とか、焼肉とか、餃子とか、なんかもっと美味い飯が存在するはずなのに。その中でパンを特別に選ぶ意味が分からない。毎日の朝食で白米を用意する家庭に産まれた人間が、幼稚園〜小学生ぐらいのころに、「世には朝食にパンを食べる家庭も存在するらしい」ということを知って、それでパンを一時的に食べたくなるというのなら、自分も少しばかりは経験した気もするため理解できる。しかし。しかしだ。好きな食べ物はパンですなどと抜かす女の大抵は自立した立派な大人だ。だからこそ、心底理解できない。黙って豚汁を食え。

それくらい、僕は自己紹介に対して苦手意識を持っています。

また、その数分、いやその場面場面によっては数分にも満たない「自己紹介」と区切られたその時間で何を話したらいいのでしょう。

自分は、大した人間ではないが、それでも数分のうちに自分を紹介するなどということはいささか不可能だと思うのです。「いやいや。自己紹介は自分に興味を持ってもらうために少しずつかいつまんで話すものですよ。」などという人もいるでしょうけれど、その数分のうちに「こいつは面白くない人間だ。」などとラベリングされてしまってはたまったもんじゃない。たった数分で何がわかるというのか。

それくらい、僕は自己紹介に対して苦手意識を持っているのです。

それでも、このnoteを書く上で、「自己紹介」というコンテンツはお題に困る僕にとって都合が良すぎる。故に、多少違和感を感じる人もいるでしょうが、このまま自己紹介に入っていこうと思います。

僕は、東京の小さな制作会社で働く24歳の男。「24歳」というと、どの程度の人間が若いと思い、どの程度の人間が大人だと思うのか、多少興味が湧く。というのも、自分が高校生の頃は24歳の人間をはるか大人のように感じていたし、一瞬だけ経験した就職活動で、新卒1年目と名乗る、目をギラギラと輝かせる採用担当の人間にもやはり「大人だ」と感じたためだ。そんな自分も、今や24歳。そして今年中には25歳となるのです。時の流れとは恐ろしい。

東京に来る前は、大阪在住の関西人でした。とはいっても、出身は北海道なので、現在は、北海道出身のエセ関西弁を喋る東京人、ということになる。いや、厳密には、東京には住んでいないので関東人が正しいか。ややこしい。自己紹介はやはり苦手だ。

今から5年前。僕は北海道から大学に行くために大阪に移り住んだ。大学名は、きっと大学受験を経験した人間ならば誰もが知っているだろう名の知れた大学。時々、自分の出身大学の名前を言ってもピンとこない人間に出くわすのですが、そういった人間は学がない可哀想な人間だと思うようにしている。そうやってプライドを守って生きていくのがやっとなのです。

noteを書くようになったきっかけは様々ですが、わかりやすいものを言うと「小説家」というものに興味が湧いたから。厳密には、「文章を書く人間」という肩書きが欲しかったから、が近いような気がします。「小説家」に対しての解像度がすこぶる低く、簡単に小説家などと具体的な言葉を使うことに多少の嫌悪感を感じてしまったためにこのような漠然とした言葉を使っているのです。

それはそうと、「小説家志望」を名乗る人間に少しばかり違和感を感じるのは、僕だけでしょうか。「少しばかりの違和感」といってもそれは、自己紹介の際に「好きな食べ物はパンです」と名乗る女性に対する違和感と比較したら大した違和感でもないですし、きっと、サウナに入っていてふとした瞬間に鼻に感じる違和感。加齢臭の臭い。その程度の違和感です。

小説家とは。

「小説家」で辞書を引くと「物語を創作し、小説を執筆する人」と書かれていました。

僕の解釈が正しければ、小説を書けばそれが収益になろうとならなかろうと、たとえそれで食えなくとも一応、小説家を名乗れるわけで、それを何とも壮大な夢かのように「小説家志望です」と公言してしまうことに、大阪の街を歩いているとふと感じる下水の臭い程度の違和感を感じてしまうのです。

とはいいつつも。

自分を小説家ですなどと公言するのは大変烏滸がましいことだと自分も感じています。故に「文章を書く人間」という肩書きが欲しかったからなどと濁した表現を使っているのです。許してほしい。

最後に、なぜ「文章を書く人間」という肩書きが欲しかったのかについても書こうと思うのですが、もうすぐ3000字に到達しかねないのでさくっと書いてやろうと思います。

最近、僕は『残像に口紅を』という小説を読んでいまして、この小説はかなり面白い小説でして、最近TikTokでも紹介されている小説なのですが、この小説は、「音とともに、その音によって表現される言葉と、その言葉が意味するものが消えていく世界」を書いた小説でして、例えば『あ』がこの世の中から消えるとそれに伴って『愛』や『あなた』などの言葉が消え、実際に小説を構成している文章からも『あ』が消える。そんな小説を読んでいるのですが、その小説の世界観の自由さに、同じ日本語を使っているなどとは到底思えぬほどの自由さに、かなり感銘を受けてしまって、僕もそういった文章を書いてみたいと思い、こうやって文章を書いているのです。


そして、この自己紹介でも実は『あ』を使用せずに書いているのですが、お気づきの方はいらっしゃいますでしょうか。

どうぞこれからもこの馬鹿を、末長く見守っていただければと思います。

2024年2月3日


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