見出し画像

5年ぶりの友人はどこか変わってしまっていた。

 友達とは、増えては消えていくものだというように最近感じます。

 先日、数年ぶりに高校時代の部活の友人に会う機会がありました。

 僕は高校3年間の大半を彼らと一緒に過ごしました。僕らはバスケ部に所属していて、バスケ部には小さな部室が一部屋、割り当てられていました。僕らは朝練のあるなしに関わらず一旦その小さな部室に集まっては、朝のクラスルームが始まるギリギリまでをそこで暇潰ししていました。放課後も、部活のあるなしに関わらず一旦部室に寄っては、誰かしらは絶対に部室にいたのでそいつとダラダラ話していました。話す内容は本当にしょうもなくて、テストの話とか、顧問の悪口とか、最近ハマってる漫画とか。なんか、そんなこと。時には女バレの太ももが何故あんなにも魅惑的なのかについて熱弁したり、時には学年一の美女の可愛かったシーン報告会が突如始まったり。そんな感じで高校の3年間を共にふざけ合いながら過ごしていました。

 僕にとっての彼らはきっと、もしかしたら彼らにとっての僕もきっと、人生における生涯を通して仲良くする人達なんだろうなと思っていました。高校を卒業して大学は別々になっても、帰省のタイミングでは必ず集まって、高校の時と同じようにふざけては馬鹿笑いをする。いつまでも可愛い女の子の話をして、女バレの太ももについて熱く語って。どんなに辛いことがあっても彼らにあえば、昔のように笑い合うことができて、どんなに辛いことでも忘れてしまう。そんな関係になるだろうなと思っていました。

 先日、実に5年ぶりに彼らと会う機会がありました。高校を卒業してから、大学に通っている間も何度かは会う機会がありましたが、お互いが大学でのサークルや研究室、就活の関係で忙しくなってきたために次第にその機会も減ってきていました。そんな中、みんなが就活もひと段落して、また奇跡的に就職先が全員東京だったということもあって、東京で飲もうぜという話になり、再集結したのでした。

 しかし、その5年ぶりの再会は、思い描いていたものとはなにかが違いました。もうかつてのような悪ふざけをする人間も、女バレの太ももについて熱く語る人間もいませんでした。かつての顧問のモノマネをしても、あの時の面白さは全くなくて。みんな、口を開けば仕事の話や、将来の話。今どんな仕事してるんだっけ。コンサルだよ。めっちゃブラックって聞くけど。まあ年収600万初任給でもらえるからいいんだけどね。世の中結局金だと思うし。まあ仕方ないよね。ははは。そうだ、みんなNISA始めた?銀行に預けててもお金増えないよね。はじめてない奴。まあ好きにすればいいと思うんだけど。アホだよなーとは思うよね。この時代。それな。俺とか早々にFIREして、遊んで暮らしたいな。最近、仮想通貨始めて。

 —— ああ。もうあの頃の楽しさは失われたのだな。と、そう思ってしまった自分に気づいてしまいました。

 このような出来事は、僕の中では今回に限った話ではなく、たびたび起こりました。その度に、会っているその時間と、自分の中での楽しかった頃の記憶とのギャップに辛くなってしまって、なんだか友達を失っていく感覚に陥ってしまって。そして次第に、こんなことならいっそのこと会わない方が辛くならずに済むのだろうなと思い始めました。楽しかった記憶は楽しかった記憶そのままに、心のうちに収めておけば、勝手にその記憶は自分の中で徐々に美化されていくだろうし、その美化された記憶の蓋を開けてしまって、目の前の現実との差に辛くなることもないのだろうと。そう思うようになってしまいました。

 しかし、同時にそうなってしまうことに悲しさも感じます。なぜ、かつては仲が良かった友人と次第に価値観が合わなくなってしまうのだろう。あの時は面白いと思ってたことがつまらなくなる。かつては共感し合えたのに気づけば相手に対して軽蔑さえも感じてしまうようになる。

 これは、仕方のないことなのでしょうか。人生とは、そういうものなのでしょうか。

 アメリカのかつてのお偉いさんが以下のようなことを言っています。

You are the average of the five People you spend the most time with.
あなたは、最も一緒に過ごす時間の長い5人の友達の平均になる。

Jim Rphn

 つまりは、人間というのは他人からの影響を受けやすいということ。自分の価値観は、自分の周りの5人によって構成される。ネガティブな人間5人に囲まれて過ごせばきっと自分はネガティブな人間になるだろうし、安定思考の人間5人に囲まれて過ごせばおそらく自分もそうなる。そして、人間にはそれぞれコンフォートゾーンというものがあって、それゆえに、あまりにも自分の価値観と違う人間と一緒にいると、居心地の悪さを感じてしまう。

 僕のかつての友人達も、顔を合わさなかった5年の間にそれぞれ一緒に過ごす人間の種類も大きく変わり、それに伴って彼らの価値観までも大きく変わってしまった。そして自分も同様にして気付かぬ間に変わっている。

 きっと人間という生き物はその繰り返しによって、様々な価値観に触れ、様々な経験をして、変化していくのだろうなと思います。そういう生き物と割り切るしかないような気もします。そしてその繰り返しが、その人の人間性をより深みのあるものにし、人間として面白みのある人間になっていくのかなと思います。だから、きっと仕方のないことなのでしょう。

 それでもやっぱり、寂しさを感じてしまう。

 今仲良くしている友人達も、きっと10年後には、間違いなく今ほど楽しい時間は過ごせないでしょうし、かつての高校時代の友人達と同様、気まずささえも感じているでしょう。

 やはりそれでは寂しすぎる。

 今の僕の乏しい人生経験では、このどうしようもなく無慈悲で、けれどもどうすることもできないこの宿命に抗うことすらも許されないような気がします。

 ただ僕は、時間の流れに身を任せ、新しい友人との出会いに伴って、かつての友人達が友人ではなくなっていくのを、ただ仕方のないこととしてそのまま見過ごすしかないのでしょうか。

 せめて、今仲良くしてくれている友人達との楽しい時間は、永遠には続かないものとして、一瞬一瞬を大切にしていきたいなと思うしかないのかなと。なんとも心のうちに漂うモヤモヤを晴らしきれない終わり方でこの駄文を閉じたいと思います。


この記事が参加している募集

スキしてみて

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?