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6月考えていたこと - 環境問題はなぜ解決できないか?

1. はじめに

今年も気が付けば半分終了。つい最近までコロナ禍での2回目の春を迎えた、と言っていましたが、2回目の梅雨、2回目の夏、2回目の秋となりそうですね。

先月の6月はなんだかんだで何度かお話しさせていただく機会がありました。特に6月最終週は打席に4回も立たせていただきました。内容はそれぞれ異なりましたが、この4打席とその他の打席を一つの物語りにしてみました。キーワードは、「開発途上国における廃棄物管理、循環経済、サステナビリティ、プラスチックごみ、環境問題はなぜ解決できないのか、それを哲学的に考えてみよう」、と言った内容です。

6月はひたすら、「環境問題なぜ解決できないのか?」という問いを考えてみました。単純な質問だけど単純には答えが出ない問い、わかっているようでその本質はわかっていない問題、何かできそうだけど普段の生活で何をしていいかわからない事実、であること。

こういう場合は、身近なことから改めて考えてみるとヒントが見えています。例えば、去年は酷暑と豪雨の夏だった、今年は大阪では梅雨が5月中旬に始まった、気候変動問題かな?そう言えば1年ぐらい前からレジ袋が有料化になった、ごみ問題かな?この2つは地球規模環境問題を代表するものです。でもここで皆さんに考えてもらいたいのは、地球というのは46億年の歴史があって、この46億年の時間軸を1年にぎゅっと縮めて考える地球カレンダーだと、日本人平均寿命の80年はわずか瞬き1回分、その一瞬で変化を感じてしまうぐらいの大激変が今まさに私たちの地球上で起こっているということです。

2. ごみの話し

2.1 廃棄物管理の世界標準:日本は例外

世界の問題を身近な問題と照らし合わせて考えることが必要です。例えば、これは、アフリカのケニアの首都ナイロビ近郊の処分場で撮った写真です。

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ケニアの廃棄物管理の現状はひどいな。やはり開発途上国の現実はこうなんだろう。ごみの分別はできていないし、全てのごみはそのまま処分場に捨てられている。そこで貧しい人たちがごみを拾って生活をしている。そう思われた方が多いと思います。日本はこんなに進んでいるのにと言う優越感を感じると思います。それは、当たり前の反応です、ここ日本に住んでいれば誰も思う感想でしょう。でも、ここに重要なキーワードが隠れています。それはunconscious biass、無意識の自覚です。皆さんがこの写真を見て思った感想が、実は人工が作り出している差を生み出し続けています。これに関しては、後ほど議論したいと思います。

日本もほんの100年前は明らかにこれと同じ状況であり、公衆衛生はひどかったはず。日本は色々な事実が組み合わさった結果として、たまたま今の状況となっているにしか過ぎないではないでしょうか?

100年という時間軸は、人間の人生では3世代分と長いかもしれませんが、分母を地球1個で考えた場合、それは一瞬の出来事です。人類の進化で考えれば、ケニアと日本は五十歩百歩ではないでしょうか?日本は多少先に進んでいますが、その差は人間が作り出した人工的な差でしかありません。見た目上、日本はごみの分別が行われて、リサイクルも高度化されていますが、ポイ捨てや不法投棄はゼロにはなりません。ということは、多少なりとも環境汚染をし続けている、それは地球にとってケニアも日本も同じではないでしょうか?

一番身近なごみ問題、特にプラスチックごみ問題から地球環境を考えてみたいと思います。問いは「環境問題はなぜ解決できないか?」。これを考えていきましょう。

2.2 ごみは生活習慣

普段の生活で一番身近なのは、ごみ問題。人は生きている限り毎日何らかのごみを出し続けます。大阪市の人口は約270万人、一日当たりの日本人の平均ごみの出す量は約920グラム、これを計算すると、大阪市では一日約2500トンもの廃棄物が排出されています。ざっくり例えると25メートルプール約9杯分、あっそんなもんか、と思われるかもしれません。でもこれが大阪府の人口約880万人の場合、日本の人口約1億2500万人の場合、そして地球の全人口約76億人の場合を考えるとどうでしょうか?ざっくり計算で地球上で排出される一般ごみは一日当たり大阪ドーム4杯分となります。これが365日毎日です。

この膨大な廃棄物の行方はどこでしょうか?大阪の場合は、詳しくは大阪市さんに聞いてもらいたいのですが、まずは各御家庭で、普通ごみ、プラスチックごみ、ペットボトル、段ボール、紙など分別して、大阪市が世界に誇る最新の廃棄物発電施設や徹底した分別により高品質のリサイクル資源として世の中でぐるぐる回っている、ことになっています。大阪に住んでいる限りはゴミ問題はないと感じるでしょうか。

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2.3 ごみの今昔物語 – 昔も今も同じ? 

ここでごみの昔ばなしをしたいと思います。昔々、と言っても今から70年前のここ大阪では、ごみはまだ大八車で回収している世の中でした。その当時、ごみはごみという一つの単語しかなく、各家庭から出たごみを大八車で集めて、道頓堀川や運河を使ってごみ紫谷処分場や北港処分場に運んでいました。

そして時代が進み、1970年代、日本は高度成長期を満喫し、物があふれた生活を目指すのが幸せを感じる日々の暮らし、あこがれる生活でした。一方、公害問題が表面化し、経済発展には公害問題がつきものという考え方に少し変化が見られ始めたころ。その時は、ごみという単語にも変化が生まれ、燃えるごみと燃えないごみ、または燃やすごみという二つに分かれ、各家庭でも燃えるごみと燃えないごみを分別する習慣が始まりました。

そして今、2020年代。言い換えるとSDGs時代。私たちは毎日約920グラムのごみを出しています。使い終わったら分別するのが当たり前の私たちの日々。ちょうど1年前にレジ袋有料化されてから皆さんの心境や行動は変わりましたか?なるべくごみを出さないような買い物を心掛けている、と言う人が増えてきています。今まで必要だと思っていた物が、実は要らなかったと認識された方も多いと思います。マイバッグを使うのが当たり前、ということは私たちのごみに関する知識も増えていています。

そして今、全世界が脱炭素化・カーボンニュートラルとして目指している2050年。未来のごみ事情はどうなっているのでしょうか?今の素材別の分別に代わり、二酸化炭素排出量別分別とか、になっているかもしれませんね、私の勝手な予想ですが。

以下のグラフはあくまでも概念です。昔はシンプルに、「ごみ」という単語しか使っていませんでした。その後、環境汚染が拡大するにつれ、その対策として、燃えるごみ、燃えないごみ、一般ごみ、各種資源ごみ、とごみの種類が徐々に細分化されています。例えば、今まで燃えるごみだったのが、いつからかプラスチックごみやPETボトルごみと分類され、それぞれが分別回収の対象となりました。その結果何が起きているのでしょうか?

確かに一人当たりの普通ごみの排出量は年々少しづつ減ってきています。でも、昔は普通ごみだったのが資源ごみとして回収されるようになっただけ、かもしれません。今後もおそらくより高度な分別回収へと進むでしょう。昔はシンプルだったのが今は複雑。言い換えると、それだけ分母としてみるべき環境汚染対策が増えてきているということです。分子を頑張って減らしたとしても分母が増えていけば、永遠とその問題は解決しません。これが今日の問い、「環境問題はなぜ解決できないのか」への一つの答え、環境問題は解決できない、なぜなら対応するべき対策が増えていく一方なので。

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2.4 プラスチックごみ問題とは?

2.4.1 アップデート:プラスチックごみ

「環境問題はなぜ解決できないか?」の問いに対してプラスチックごみから考えてみたいと思います。

ここ1年でプラスチックを取り巻く私たちの生活が変わりました。なんといっても劇的に変わったのが、世の中から無料のレジ袋が消えた、ということです。一部、生分解性プラスチックのレジ袋は無料で配布されていますが、街中を歩いていてもマイバックでお買い物されている人の方が圧倒的に多くなりました。でもここでみなさん、めでたしめでたし、と思ってはいけません。プラスチックごみ問題とはごみ問題のほんのわずかな部分でしかありません。

レジ袋有料化対策、プラスチック管理に関する法制度、リサイクル技術の開発が加速度的に進んできていますが、これはあくまでも小手先の技。根本的な問題を解決していません。本質的な問題とは何でしょうか?

そうです、私たちです。レジ袋有料化は単にレジ袋を有料化にし、その使用量を減らすことが目的ですが、真の目的は別にあります。真の目的とは、レジ袋の使用について改めて皆さんに考えてもらい、そこからライフスタイルの見直しをしてもらうこと。プラスチック問題を他人事ではなく自分事として考え、そして環境問題全体に対して意識をつなげていくことが本質的な目的です。

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2.4.2 世界におけるプラスチックごみの現状

データを見てみましょう。2020年に排出されたプラスチックごみの排出源と排出経路です。排出源を見ると、使い捨てレジ袋が16%、PETボトルが4%、残り80%はその他となります。ここ最近では使い捨てレジ袋の有料化や配布禁止、PETボトルの代わりにマイボトルを持つべし、というのが世界の潮流になってきていますが、ここにも「木を見て森を見ず」、すなわち「使いしてレジ袋を見て、プラスチックごみの山を見ず」といった傾向が見られます。

では最後のデータ、プラスチックごみはどうなったかです。海に流れ出ているのは約3%・年間800万トン程度、リサイクルは約9%・年間約2200万トン程度。約90%は埋立処分です。ここにも「気を見て森を見ず」に気を付けなければなりません。つまり「海洋ごみ問題をみてプラごみ問題を見ず」です。

海洋プラスチック問題の原因である陸上のプラスチックごみ問題を解決することは重要ですが、その根本的な問題を解決に導くためには、「森」全体を管理しなければなりません。「森」全体を適正に管理できないと、一本一本の木も適正に管理することはできないでしょう。つまり、プラスチックごみ問題だけに特化しすぎると、本当に問うべき問題を解いていません。プラスチックごみ問題は、ごみ問題全体の一部であること、ごみ問題は、地球規模3大危機の気候危機・自然危機・化学物質廃棄物汚染危機の一部であることを認識しなければなりません。私たちが捨てているごみはこの地球三大危機とつながっている、その根本的な原因は私たち人間であるということを正しく理解しないといけません。

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2.4.3 世界における一般ごみ処理予想

2020年の排出された一般ごみは約21億トン、最初に話しましたように、一日の量が大阪ドーム4杯分。そのうちリサイクルされているのは約22%。50%は埋立処分場に単純に捨てられているだけ。これが世界の現状です。では今後30年でどうなるのでしょうか?左端の2020年と右端の2050年では何か劇的に変わっていますか?単純埋立処分の割合は50%から42%まで下がっていますが、一般ごみの全体量が21億トンから25億トンに増えるため、単純埋立の総量はほぼ変わりありません。法制度や管理技術の小手先の対策に加えて、環境問題の根本的な問題、つまり私たちの行動や社会を変えない限り、2050年も今日と同じような話しをしている事でしょう。

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2.4.4 一般ごみ処理形態(所得別、2020年)

ではもう一つのデータを見てみましょう。これは2020年における所得階別一般ごみの排出形態です。単純埋立、管理型処分場への埋立、リサイクル、廃棄物発電、単純焼却の5種類の排出形態を、一人当たりの国民総所得分類の低所得国、低位中所得国、高位中所得国、高所得国別にみているグラフです。ちなみに日本は約4.2万ドル、年間の460万円程度となっています。

さてみなさん、このグラフからどのような情報を得られましたか?低所得国で排出されている一般ごみの約90%は単純埋立処分のみ、低位中所得国は約65%と、一般廃棄物処分形態の世界標準は、日本もかつてそうであった単純埋立処分です。これが世界の現状です。日本の廃棄物管理は世界の最先端を行っておりますが、環境汚染を起こさないためには日本のような管理体制が世界標準にならなければなりません。でも現実は、日本のような廃棄物管理体制がごく少数派にしかすぎず、環境汚染に直結する単純埋立処分が世界的な大多数の現状です。単純埋立というのが、最初に見たケニアのあの処分場です。

現実は、残念ながら、あの処分場が世界標準です。世界的に見ると、ここ日本で私たちが普通に実践している廃棄物管理は異常なぐらいの特殊なものとなります。SDGsやカーボンニュートラルを目指すのであれば、日本のような取組が世界標準にならなければなりませんが、その差は果てしなくかけ離れています。

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2.4.5 資源採掘・使用・廃棄・リサイクルの関係(世界)

さらに目線を広げましょう。このグラフは年間・世界ベースによる、天然資源採掘量、天然資源使用量、廃棄物量とリサイクル量を比較しています。例えば、2020年、私達は約1000億トンの天然資源を採掘し、約850億トンの天然資源を使用し、約530億トンもの廃棄物を排出しました。

天然資源使用量850億トンは、地球が自然に生成する天然資源量の約1.75倍、つまり私たちは資源を使いすぎていることを意味します。しかもリサイクル率はたったの22%。明らかに地球上はサステナブルではない、つまり持続可能性を完全に失っています。私たち人間のせいで。世の中、SDGsだの、2050年カーボンニュートラルや循環社会と清らかな目標を掲げていますが、本気で取り組んでいるのでしょうか。このまま行くと、私たちは地球を破滅することは目に見えています。

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3. 環境問題の本質は?

3.1 はじめに

今、私たちは何の世界を生きているのでしょうか?平和な世界?安定している社会?経済的に豊かな世界?心も豊かな世界?皆さん幸せですか?残念ながらこのどれにもYesと自信を持って答えられる人はいないかもしれません。なぜでしょうか?

経済社会が進むほど、少なくとも高所得国の一つである日本では、世界的にも恵まれている豊かな国です。豊かな国のはずだが、と言うのが正確な言い方かもしれませんね。たくさんの物があふれる日本社会、ありとあらゆる物がいつでも買える日本社会、新鮮な食品がいつでも買える日本社会。外国から見れば絶対に裕福であるはずの日本社会。どこで間違えて、日本社会には閉塞感が充満してしまったのでしょうか?

経済的に豊かになるに連れ私達の心を虜にしたのが、物質主義。物が豊かになるのが資本主義社会の勝者である、と思われた時代がありました。今でもそうかもしれません。資本主義は一度走り出すと自転車操業に止めることはできません。常に何か新しいモノやサービスを作り出して、経済をどんどん膨らませて、言い換える二酸化炭素とゴミをどんどん出し続ける、そして裕福になるはずだった、けれどもそうではないと言うのは皮肉ではないでしょうか?

福沢諭吉は学問のすゝめの中で「物が人を使って物を求めさせ、人間は物の支配を受けてその奴隷になっている」言っています。1872年、明治5年の言葉ですが、私たちの心にグサッと突き刺さりませんか?追い求めた結果、人間は求めていた未来像とは全く違う結果を手にしてしまいました。物の奴隷となった私達。その結果、皮肉なことに私達の母なる大地、地球環境に破滅的な影響を及ぼしました。私たちは何かの声を聴きそびれています。

つまり、人間は自然をコントロールしようとしてきたが、その試みを行うたびに、自然が人間に及ぼす力は増してきている事を認識しなければなりません。

新型コロナウイルスが世界的大流行となって2度目の夏を迎えようとしています。日本でもワクチン接種が始まり、年内の接種完了を目指しいます。この一年半で世界は大幅に変わりました。2019年12月に手にしていたあの社会はもう二度と戻ってきません。例え世界中の76億人がワクチンを打ち終わったとしても。今回の新型コロナウイルスは絶滅はしないでしょう。ワクチンも今後毎年打たなければならないとも言われています。新型コロナウイルスは何のために人間に攻撃をしているのでしょうか?

新型コロナウイルスは私たちが聞きそびれていた何かを、私たちの母なる地球から届けているかもしれません。それは、地球の声を無視し続けてきた人間への警告と考えた方が良いでしょう。これは科学的な根拠ではありませんが、国連事務総長が「地球は燃えている」と発言しているように、この自然のメッセージを直感で認識するべきです。自然が人間に対して「以前は共にしてきましたが、あなたは私達を搾取してきました、そして私達を破壊してきました。何度も警告をしましたが、あなたは無視してきました。私達の今回のメッセージはラストコールです。本当にそれでいいのですか?」とメッセージを伝えているのでしょう。

「環境問題なぜ解決できないのか?」は哲学的な問いになります。それと正面から正直に向き合うのは今しかないのではないでしょうか?もししなかったら?その答えは簡単です。

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3.2 歴史は語る

歴史を振り返ってみましょう。皆さんは歴史は好きですか?私の住んでいるここ大阪では、593年に聖徳太子が四天王寺を建立し、豊臣秀吉が1583年に大阪城を築城し、そして今の大阪があります。環境と言うキーワードで日本の歴史を振り返ると、至る所で環境とともに生きる難しさが伺えるお話しが出てきます。例えば、古事記や古い伝説でよく出てくる八岐の大蛇や大蛇は大洪水を表していると言われています。近代社会以前はなんとか自然の驚異を人間や神の力でコントロールする事はできないか、と言う事が様々なアプローチが古典に描かれています。日本では日本書紀や八百万神の話しによく出てきます。当時は、人間も自然の一部だが、自然の脅威と共に暮らす難しさを感じていたと思います。

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3.3 かつては存在していた

ではゴミはいつ頃から社会的問題とされてきたでしょうか?諸説ありますが、その一つとしては、様々な産業が爆発的に開発さて始めた今から約270年前の第一次産業革命の頃。産業革命が進むとともに、ごみは社会問題となってきたとされています。でもその産業革命が起こる前の人間社会は、人間の社会も完全に自然界の一部であり、そこには循環社会があしました。当時、人間が出していたゴミの主成分は植物性、例えばわらとか野菜の切れ端とか、麻でできた漁網とかです。ちなみに江戸時代までは照明までも全て植物性、言い換えると一年前の太陽エネルギーで育った植物から取り出した植物油。つまり人間が使っていたものは全て植物性。いらなくなったものを、とりあえず目先からなくしてしまい、業者がどこかに運んでポイ捨て、つまり自然に戻すという、2021年の私たちが目指している循環型社会はそこにありました。

約2500年前の中国の哲学者、老子は、自給自足をする農民の暮らしぶりに理想型を見ていたようです。農家の生活には無駄が一切ありません。刈り取った稲は、米を収穫した後には藁としても使われるし、農耕馬や牛の糞は肥料として利用されます。穫れたものをむやみやたらに捨てることなく、すべてを使い切ることが農民の暮らしの原則です。 現代でもエコな生活が提唱されていますが、よく耳にするようになった「もったいない」の発想に、老子は2500年前の昔からすでに注目していたのです。

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3.4 自然界からの脱出:現実か錯覚か?

1750年頃から始まった第一次産業革命は、人間の歴史に大変革をもたらしました。その影響は、20万年前に私たちの人間の祖先と言われるホモサピエンスがアフリカ大陸に現れ、10万年前に移動をはじめ、1万年前に農耕をはじめた歴史的な進化のどれよりも勝るものです。大変革という意味は、そう、人間は地球の自然環境から脱出した瞬間をついに迎えたということです。それまでは、ダーウィンの進化論に沿って地球環境に適応してきた生物のみが生き残ってきた時代です。しかし、1750年以降、人間はダーウィンの自然進化論を晴れて卒業し地球の自然を離れ、人工進化論としてその自然を科学技術でコントロールを試み、人間社会に邪魔になるものは排除していました。その結果として、この270年間の間に世界の総生産力は110倍に膨れ上がり、過去30年間の間に約30か国が所得倍増を遂げ、世界平均のGDPは60年前の欧州レベルに達しています。世界の極貧生活の人口比率も90%から10%程度まで下落し、世界は中流階級に移行しています。世界平均的に見ると、日本から半世紀ほど遅れて、豊かな生活を手にしつつあります。2021年、私たちの社会は人間の欲望の上に成り立っている資本主義社会です。これは近代社会270年間の歴史の結果ではありますが、本当にこの結果でよかったのでしょうか?自然界から脱出した、というのは錯覚ではないでしょうか?

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3.5 エネルギー変換

みなさん、質量保存の法則は覚えていますでしょうか?中学校の理科の時間で習うのですが、一言でいうと、ありとあらゆる地球上の物質は化学変化前と後の質量は同じということです。身近な例で言うと、皆さん今日お昼ご飯は何を食べましたか?食べ過ぎでおなか一杯になった方もおられると思います。それが質量保存の法則です。目の前のお皿から食べ物はなくなったが、それはおなかの中にある。そこで消化され、一部はエネルギー源となり、一部は水と二酸化炭素に分解され、ということです。これを現在の経済社会に置き換えると、地球が数億年かけて蓄積していた化石燃料をエネルギー変換し、その結果として富を生み出した。その富と引き換えに、二酸化炭素と廃棄物を出し続けているのが私たちとなります。つまり、時間軸に沿って人間の経済が進むごとに富も増えてきていますが、それと引き換えにごみも出続けているのが現状です。しかも、これらの廃棄物はもはや植物性ではありません。人間が新たに作り出した自然には存在しない有機化合物質。もはや自然も受け付けません。

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3.6 環境問題の本質

人間社会は完全に自然の外に出てしまいました。私たちの行動は、環境問題を生じさせている事実と正面から向き合いませんでした。天然資源は見つけた者勝ち、掘り出した者勝ち、しかも天然資源は無料なので、最低限の投資で最大級の富を生み出すため、私達の欲望、特に物質主義的価値観を満たすための源泉とだけしか見らてませんでした。それが200年余続いた結果、何を引き起こしたでしょうか?環境とともに生きる事が更に困難となってきました、生活は豊かになったのに。なぜ?昔も今も同じ環境問題と言う言葉を使っていますが、その意味は完全に異なります。古典で使われている言い伝えは、雄大な自然の驚異の結果として環境とともに生きるのが難しいと言っていますが、今は私達人間が引き起こし自然破壊の上の環境とともに生きるのが難しい言っています。「環境問題とは私達人間の問題である」、と言う事です。つまり、様々な環境問題に対して法制度や技術開発による様々な対策が進んでいますが、これらは根本的な問題を解決していない事になります。本質的な問題は私たち自身である。これを解決しない限り何も解決することはできません。

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3.7 自然の理

本質的な問題、それは私たち人間である。自然の立場から人間をみるとどう思われるのだろうか?邪魔な存在、少しからかってやれ、新型コロナウイルスで、かもしれません。少なくともここ270年間は、人間中心的で地球上の資源はすべで人間たちのモノである、という考えの人間社会を作ってきました。少なくとも私はその恩恵を受けている一人です。消費を基本として経済を発展する社会、それは一時的にはよかったかもしれません。でもそれは、地球の46億年の歴史から見ればほんのわずかな時間、その時間でここまで地球環境を破滅的に追いやっています。

人間にとっては人間が一番大切ですが、自然にとっては人間が一番大切ではないでしょう。人間も含めた自然全体が一番大切です。少なくとも今から270年前までは人間社会は自然の一部でした。しかし人間が持つその英知を高度化させ、見た目は自然界を脱出しました。そして例えば物質資源である天然素材を人間の好き勝手に浪費すると、ごみを排出するだけになります。それが一般化すると、人間は自然環境を支配下に置き、人間の都合の良いように使い続ける人間中心社会を構築してきました。

この人間の開発は、理性を持つ人間のフロンティア精神が導いたものでしょう。ゆえに、人間は人間の英知を高度化させ、自然界を脱出したと錯覚を起こしていました。その間違った錯覚のまま突き進むにつれ、私たちは大切なことを忘れてしまいました。それは「人間が英知をフル活用したとしても自然には足元にも及ばない」ということ。さらに「自然をコントロールしようとすると、自然もそれに反応し人間が破壊しただけ自然環境も悪化する」、という教訓を学んでいるはずです。人間が変えていった自然環境に適合できない動植物は消えていき、究極のバランスを保っていた大気・水・土壌のバランスも人間影響を受けその姿を変えていき、そして、昨年、新型コロナウイルスが発生した、その新型コロナウイルスは地球の声である、と考えた方が良いでしょう。地球が人間の愚かさを鼻で笑っているのかもしれません。「自然をコントロールできるというのは妄想である、自覚しなさい」、と言いながら。

SF的な考え方ではありますが、言い換えると、地球が人間をなくそうとしているのかもしれません。「もはや人間は地球にとって脅威の存在である。奴らの暴走を止めなければいけない。最初は200年ほどじわじわ気温を挙げてきたけど気が付かない。ここ10年ほどは巨大な台風やハリケーンを起こしてきたけど、人間は復興しかしない。ついに堪忍袋が切れてしまったので、新型コロナウイルスを発生させたところ、人間たちが考え方を変え始めてきているので、多少効果はある。しかしこれでは十分ではない、今回人間が本気で本質の問題を変えない場合は、次の手を打たなければならない。」

私たちは自然に勝てない。自然を尊敬しなければならない。日本人はこの考えをかつては持っていました。日本人には「和のこころ」がありますが、もう一つの「環のこころ」もあります。人間界の「環」だけではなく、自然界の中での「環」も入っています。だから環境、環をもって共に生きることを改めて認識しなければなりません。人間が作り出した近代化の動きは行き詰っています。人間がすべてを支配するのではなく、自然の摂理こそが最大の原理であって、人間はそれを自覚して自然に添って生きていかなければなりません。

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3.8 1990年の誓い

2025年大阪・関西万博、テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」楽しみですね。大阪では3回目の万博となります。2025年の万博でも環境や持続可能な開発が当たり前の未来を見ることができるでしょう。私も万博会場に行くことが今から楽しみです。

私たちは未来を考えることが大好きです。私も世の中の隅に散らばっている小さな未来を一つずつ組み合わせて、自分なりに未来を想像しています。未来を創造することは重要ですが、本日考えたように過去を振り返るのも重要です。未来はこれから創らないといけませんが、過去はそこにあります。

大阪で開催された2回目の万博は、1990年に開催された国際花と緑の万博でした。そのレガシーとして、私が今勤務している国連環境計画国際環境技術センターが跡地の鶴見緑地公園に1992年に設立されました。ここにひとつ重要な歴史があります。

それは1990年の国際花と緑の万博は「花は緑の精、緑は生命の象徴、そして地球の自然と人間の共生を願ったいのちの祭典である」の思いで開催されました。「自然と人間の共生」そして「いのち」、2025年の万博とどこか似ていませんか?1990年からの31年間、私たちは何をしてきたのでしょうか?自然との「環のこころ」を培ったのでしょうか?正直に自分の心を除くとその答えはすぐわかります、「人間は何も変わっていない」ということを。

この間、人間は自然界、つまり自然界の「環のこころ」からさらに離れていきました。私たちは過ちを繰り返しています。今後も世代を超えてこの過ちを繰り返し、自然をコントロールしようとし続けるかもしれません。1990年の31年後の未来にいる私達。31年前の皆さんに何か伝えることはできるでしょうか?その一つは「すみません」かもしれませんね。

30年後の2050年、未来世代は私たちに対して何を言うのでしょうか?今私たちがするべきことをしっかりして、未来世代が私たちに「ありがとう」と言ってもらうようにしなければなりません。

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4. 国際協力について考えてみる

4.1 SDGsについて 

SDGs、教科書的に言うと17のゴールと169のターゲットで、、、となりますが、別の角度からSDGsを見たいと思います。ひとつの理由は、過去の歴史を紐解くと、人間は必ず何かの困難にぶち当たったときに、宗教や神に祈り、何とかその状況を克服してこようとしてきました。中世になると宗教に加えて哲学的な思考も加わり、その問題に対する問いを立てて哲学的に検証をするようになりました。その後科学技術の高度化に伴い、自然環境の科学的知識が身につくほど、今度は科学的な根拠から地球規模課題に対応するようになりました。

ではSDGsは?分母を丸ごと一個として、科学者ではなく普通の市民が自分事として地球規模課題を解決するための共通的な考え方と行動の最大公約数と言えます。でもここでSDGsをそのまま読んで、わかった、と思ってはいけません。そこに隠れている思考を自分なりに深く考えていかなければなりません。つまり、SDGsのゴールやターゲットはなぜそうなのか、という問いを立てて自分で考えてみることが重要です。

私はSDGsは最新の哲学であると考えます、もしSDGsに文字として書かれていない問いを立てて考えていけばの話しですが。SDGsに問いを立てて自分の考えを深めていく、というのが、ここ高所得国に住んでいる日本人の役割で、そこから出てきた自分の問いの答えを、皆さんの未来において、開発途上国のために活用していくことが重要になります。

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4.2 私達の役割とは?

SDGs時代における私たちの役割とは何でしょうか?高所得国に住んでいる私たちの国際的な役割とは何でしょうか?ここ日本でもコロナ禍の状況で2度目の夏を迎えようとしています。オンライン授業が当たり前になり将来が不安になる日々、エッセンシャルワーカーなのでいつコロナ感染するかおびえる日々、経済に大打撃を与え飲食や観光業を破滅的な状況にもたらし明日の仕事やバイトがないかもしれないと心が落ち着かない日々、など。普段の生活では閉塞感を感じている人が増えてきています。この状況は世界中で同じですが、世界を比較するとそれでもなお日本は恵まれています。

私は、それでもなお日本は恵まれている、と思います。そもそも日本で生まれた、日本に住んでいるというだけで、多くの国が持っていないアドバンテージがあります。アドバンテージという言い方は正確ではないかもしれません。過去人間が作り出してきたこの人工社会において、ほんのわずかな人が得ることのできる人工的な裕福さを手にしているのが、日本に住んでいる人です。世界人口で言えばわずか1.6%。日本と同じく一人当たりの国民総所得が12536ドル以上の高所得国の住人は77か国に約12億人、世界人口の16%です。逆に一人当たりの国民総所得が1035ドル以下の低所得国は29か国に約6.8億人、世界人口の約9%。日本の一人当たりの国民総所得は43,880ドル、低所得国の約42倍、数値上は裕福であるはずなのですが。

皆さんおそらく、「数値は裕福かもしれないけど、現実とかけ離れている」と思っているかもしれません。その思いを掘り下げていくと国際協力における日本の役割を明確に見ることができます。では、ここから国際協力について考えてみたいと思います。

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4.3 国際協力とは?

国際協力はなぜするのか?先進国から開発途上国の支援の本質とは?基本的な問いではありますが、ここから考えてみたいと思います。国際協力とは?日本に住んでいると日頃からニュースやなどで国際協力をよく目にすると思います。国際的なアプローチに興味を持っている方も多いと思います。若い世代では、将来国際協力の仕事につきたいという方も多くいるでしょう。私も国連職員なので、当たり前ですが、国際協力とSDGsのど真ん中で仕事しています。

改めて聞きます。国際協力とは何ですか?あのカラフルなSDGs17色の奥に隠されている国際協力の本質とは何ですか?

少なくとも今日この日を高所得国の日本で迎えている私達には、unconsious bias、つまり無意識の自覚があります。先ほどのナイロビの処分場の写真を見たときのあの感想。正直に何となく感じている高所得国に住んでいるだけで感じる優越感。言い換えると、私達が支援をする側にいると考えること。高所得国で生まれ育った人間が持っている共通の価値観、豊かな国が貧しい国を支援しなくてはならない、と思うこと。もちろんこの思いは素晴らしいことで、それを実際のアクションにすることが重要です。でももう少し深く考えてみませんか?この場合、私たちが持っているテーゼは、「自分たちが高所得国の住人だから低所得国に住んでいる貧しい人たちを支援しなくてはならない」。このテーゼは正しいでしょうか?

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4. 4 国際協力の本質

ここで必要な考え方は、やはり古典に学ぶこと。国際協力とSDGsを議論しているのに古典?と思われるかもしれません。でも国際協力とSDGsに隠れている無意識の自覚、そして国際協力の本質を考えるためには古典、特に哲学的な考え方が重要になります。SDGsにはゴールとターゲットしか書かれていませんが、その本質を考えると哲学的な思考になります。つまり今の世の中に必要なSDGs思考の大元をたどっていくと、その起源は孔子の論語に始まる古典や哲学に行きつきます。言い換えると、少なくとも2500年間読みつがれてきている古典や哲学の最先端がSDGsになります。

そこから得られる問いは「地球上のすべての生命に共通するべきことは何か?」です。それは命の差はないということです。人間社会ももちろん同じです。高所得国の人間も低所得国の人間も何も差はない、ただあるのは人工的に作り上げた経済的な違いや文化的な違い、人間社会の最先端を手に入れている高所得国、経済的利益を手に入れにくい低所得国という人が作り出した差があるだけで、人間としての差は全くありません。現実的には、人は教育、学習によって違いは出るのは事実、でも、生まれつきによる類別、差などはありません。少なくとも人間の祖先とされるホモサピエンスが地球上に現れた約20万年前からの長い歴史を経て、その結果として人間社会の差、人工が作り出した経済社会の差があるのは事実です。その人工的な人間社会の格差を埋めるために、国際協力・支援というのが必要になるのではないでしょうか?その差がなければ、そもそも高所得国や低所得国と分類を分ける必要はなく、高所得国だから低所得国を支援するという発想は生まれません。

でもここが重要です、人間が人工的に作り出した差が人間同士にひずみを作り、一方には優越感、片方には劣等感を生んでしまっています。最初はものすごく小さな差だったかもしれませんが、人が作り出した人工の社会が高度になるたびに、一部の国が経済的に裕福になるにつれて、人間の心が壊れていっています。ここでもう一度皆さんに問います、「自分たちが高所得国の住人だから低所得国に住んでいる貧しい人たちを支援しなくてはならない」、というテーゼは正しいですか?表向きには正しいかもしれませんが、本質的には違います。国際協力の本質とは、人間が作り出した社会的な差の影響による格差や不平等をなくすこと。その格差や不平等によって困っている人を助けること。自分が持っていることを差し出して、困っている人に使ってもらうこと、困っている人を支えてあげること。人工が作り出した格差や不平等は一人では解決できません。だからこそ国際協力が必要なのです。

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4. 5 反省と価値観

先ほどもお話ししましたが、「環境問題とは私達人間の問題である」のです。少なくとも第一次産業革命以前は人も自然の一部として生きてきました。しかし、人間が文明を発展させ、科学技術や政策、経済を基盤とした人工社会を作り上げて行く途中で、そこから排出されるごみも多様化し、大多数のごみは適正に管理・処理されない場合は環境汚染源となります。

今でこそ日本は世界をリードする廃棄物管理先進国となり、残念ながらポイ捨ては完全になくなりませんが、日本全国にごみの分別の習慣があります。またごみのリサイクルや処分の関連業者だけではなく、商品を作る製造メーカーや物量業者、小売業者などの多くの関係者が一緒になってごみの削減に取組んでいます。最近のプラスチックごみ問題関連は、皆さんも身近に感じることでしょう。

では日本はなぜここまで廃棄物管理を高度化することができたのでしょうか?今から100年前の日本の廃棄物管理の状況は、今の開発途上国と同じレベルでした。つまり、ごみの種類は一つ、全てのごみをそのまま集めて郊外の空き地に処分と野焼き。1950年代にごみの焼却が始まり、ようやく環境技術開発というのが始まりました。しかし、1950年代から70年代は公害時代、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息が発生し、人々の健康を苦しめていました。その時代は明らかに人工的な人間活動が原因である公害に対して、当事者や関係者は正面から正直に向き合おうとはしませんでした。そして、そこには、残念ながら、公害差別がありました。

開発途上国の中でも低所得国は、日本の1950年代から1970年代の状況と似ています。その姿は経済を優先した人間社会。それは、日本や欧米諸国が過去に通過していた歴史的背景があります。ここにSDGs哲学を語る上で重要なポイントがあります。現在の高所得国の歴史において、環境問題を後回しにして経済発展を遂げた事実がある事です。その当時はそういう社会状況であった、という言い訳は環境倫理的に通用しません。正直に「環境問題とは私達人間の問題である」と世代を超えて認め、だからこそ、今経済発展を遂げる場合には、環境やサステナビリティをど真ん中に置き、それを中心とした循環経済を構築しなければならない、というメッセージを伝える必要があります。その上で国際協力を実施するのが日本の役割です。

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4.6  SDGs哲学

国連や日本が国際協力として各国政府に見合った様々なプロジェクトを実施していくことは重要です。例えば、日本の成功事例を基に、各国が必要としているニーズや、各国の政策や技術開発レベルに合わせて、政府関係者と各種プロジェクトを実施していくのが、私達国連の役割です。でも国連と各国政府が100個のプロジェクトを実施するのも重要ですが、市民100人の皆さんが環境対策やサステナビリティに関するアクションを毎日実施することが重要です。それが1万人、100万人、1億人、そして76億人となることが、2030年のSDGs目標達成、それを通過点として2050年のカーボンニュートラル・循環社会構築に一番重要なことです。

私達の毎日ゴミを出す生活は、今後もずっと変わらないでしょう。それを環境上適正な管理下においてリサイクルや最終処分をすることは当たり前ですが、それが当たり前なのは世界中でほんのわずかな国です。低所得国等の開発途上国では、昔日本がそうであったように、経済発展を優先としているため、環境上不適正管理が続いています。私達の目線からすると可能な限り分別をして、可能な限りリサイクルして、どうしてもリサイクルできないのは最終処分するという考え方です。でもこの現実は、世界ではいまだにマイノリティです。世界のマジョリティは、かつて日本がそうであったように、甚大な環境汚染・健康被害を及ぼしている単純埋立と野焼きです。

この現状をSDGsという最新哲学のレンズを通して正直に見つめなければなりません。基本的に人間が作り出す人工社会と自然は対象となるもの。だからこそ、人間がそれを意識して自然とともに生きる事をしなければなりません。

SDGsレンズを通してこのようなことを哲学的に考えられないでしょうか

「人間が捨てたものから何かを創り出すことは、誰にもできるかもしれない。ここから天地の恵みを感じられないだろうか?宇宙全体からすれば、人間が人工的に何を作ろうが、それは進化の過程にしか過ぎないのではないだろうか?自然・人工素材に関わらず、人が捨てたものは全て自然の恵と感じ、それを再び使うことが当たり前である、という社会が本当の姿ではないだろうか?それが未来の世代のためにするべきことではないだろうか?」

これを伝えていくためには、日本で生活している私達自身もSDGs的に襟を正さないといけません。例えばゴミの分別はしっかりする、資源を大切に使う、ジェンダー問題等の社会的課題に対して学びそして自分の考えを持つこと、など、自分自身の生活自体がSDG生活のお手本となるように日々の努力が重要となります。

これができて初めて国際協力や国際支援を確実に実施することができます。UNEPとしては各国の政府関係者に対して、政策面や技術面の様々なプロジェクト活動を実施しています。でもその中心となっているのが今日お話ししたSDGs哲学的な思考、それを世界に伝えながら、人間が作り出した格差や不平等を埋めるために、国際協力・支援が必要です。そして支援を受ける側に支援をする側が寄り添い、最終的には支援を受ける側が独立して、例えば廃棄物管理対策を実施することを目指さなければなりません。

先ほども申しましたが、4年後の2025年には、大阪・関西万博、テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」が開催されます。その未来社会のデザインは本物でしょうか?実現しそうでしょうか?2050年の未来の未来世代が30年前の私たちに何を言うのでしょうか?

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5. おわりに

環境問題はなぜ解決できないのか?今回は廃棄物管理の理想と現実、国際協力の本質、環境問題の本質、そして日本、日本人としての役割を哲学的に考えてきました。

人間が人工的な力で進化続けていく過程で、人間は自然界を卒業し、そして人間の力で自然をコントロールすることが人間社会の道であると錯覚をし続けてきました。人間が人工の力で自然をコントロールし続けるごとに、自然はより人間に対して驚異的な存在となりました。なぜなら、その人間の行為は自然にとっての脅威であり、何とかその脅威を抑え込まなければならないからです。自然の驚異は、人工の力の結果として生み出した気候危機、自然危機、汚染危機として私たち人間を抑え込みに来ています。

しかし、私達はその自然の声を聴かずに、錯覚している事さえ気が付きませんでした。そして、自然は新型コロナウイルスを通して別の手を打ってきています。

これらすべての本質的な問題は何でしょうか?私達人間です。この本質的な問題、私達そして人間社会の問題点を、正直に正面からとらえて、私達を変えていかなければ、何も解決しないでしょう。その他の課題も全て同じです。表面的な問題に隠れている本質を捕らえ、自分で問いを立てていき、その解決方法を模索していくことが重要です。

私たち一人一人が変わらなければ何も解決できません。国連が100個のことをするよりも、100人の皆さんが、毎日ひとつづつ環境にやさしい行動、サステナビリティアクションを行うことが重要です。

それでも地球環境問題は1年や2年で解決するものではありません。1世代や2世代で解決するものでもないでしょう。環境問題を解決するミラクルな魔法はありません。世代を超えて起こしてしまった問題は、世代を超えて地道に解決していかなければなりません。それがヒトとしての責任、そして道です。今こそ、鍛錬の意味を改めて理解し、地球環境のために私達は世代を超えた鍛錬をしていかなければなりません。

日本人は、日本人ということだけで既に恵まれています。経済的にはそうですが、日本人が培ってきた日本文化の中には「環のこころ」があります。自然と共に生きるのが当たり前、自然の恵みを感じながら暮らす生活、残念ながら現代の私達の生活にはそれが失われています。しかし、日本人の心に中にそれは在り続けています。その心を自分の生活の中で実践し、地球規模課題解決に向けて、世界のみんなと一緒になって様々な行動を世代を超えて実施していかなければなりません。

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