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環境問題を改めて考えると、人間の本質本質が見えてくる...

今回の記事も、毎度おなじみの講義準備ノートです。今回は関西にある某私立大学における国際学部において、グローバルイシューやSDGsに関して、僕の仕事の観点から切り込んでいく内容の授業です。国際学部の学生さんたちは、もちろん、国際的な仕事に就くことを目指している、視野を広く持っている皆さんです。「最近の若い人は外に出たがらない」と言う声は聞こえてはきますが、その日本社会でも、志の高い学生さんは多くいます。その学生さんの未来に少しでも足しになるような授業を考えています。

語学力と専門知識を掛け合わせて仕事するのが、国際関係の仕事をする私たちの土台。僕の場合は先に専門知識を深めていきましたが、いずれにしてもこの両刃を掛け算することで、社会が自分に求めている「するべき事」の守備範囲が深くしかも横にも色がっていきます。日本社会は、理系だ、文系だ、と区分けしがちですが、掛け算をすることで、わざわざ本来は区別することのないそのおかしな壁を完全にぶち壊すことができます。そんな思いを皆さんに伝えたいなぁ、と思い講義をしてきました。

1.なぜ君は国連職員になりたいの?

国際学部で学んでいらっしゃる皆さん。あとの頃の大学生活をこう過ごして、社会に出た瞬間に国際舞台に立って仕事を使用ということを考えられていると思います。すばらしいですね。ぜひその夢をつかんでください。
でもなんで国際舞台に立ちたいのですか?皆さんの中には国連職員を目指している方もいると思います。なぜ国連職員なのですか?
私は今、国連職員として仕事しておりますが、こんな質問を頻繁に受けます。「国連職員を目指していますが、どのようにしたら国連職員になることができますか?」。皆さんも同じような質問を持っているかもしれませんね。

ここでこの文章を紹介したいと思います。ドイツ人で裕福な家庭に育ちそして自らも志が高く、1951年にノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァーの言葉です。

「ある晴れた夏の朝、目がさめたとき、〝私はこの幸福をあたりまえのこととして受け取ってはいけない。そのお返しとして何か与えなくてはいけない〟という考えが浮かんだ。30歳までは学問と芸術のために生きてよいことにするが、それ以後は〝人類への直接奉仕に身を捧げよう〟と自分に対して約束した。その将来に計画された仕事の性質がどんなものであるかは、まだ私には明らかではないが、それは事の成り行きが導いてくれるに任せた」。その後シュバイツァーは、生涯をアフリカで医療活動に従事しました。

シュバイツァーは言っています。「自分の仕事で世の中に貢献することは非常に大事です。しかし、もう一つ上のことを考えると、いつも〝直接に奉仕したい〟という思いを持っていることがもっと大事なんです」。

何か気がついましたか?人間としての大原則を彼は言っています、他人のために自分をささげよう、です。この仕事に就きたい、国連職員になりたい、ではその目的は利己的なんです、つまり自分中心の自己満足の世界。それでは、厳しい社会で生き残っていけません。自分はこの問題を解決したいから国連職員にならないといけない、そういう意思を持つことが重要です。

知行合一が自己のためだけに展開されるなら、その先にあるものも私だけのためのものかもしれない。未来の社会を明るくするためには、他人に対して自分を奉仕しなければならない。

来月の国連セミナーではもっと深くこのあたりを考えていきたいと考えています。

2.国際社会における日本の役割とは?

それともう一つ、今日の講義のタイトルの最後「日本の役割」も重要なキーワードです。少なくとも日本人の皆さんまたは日本に留学している皆さん、それだけでなんと幸せな人生を送れているのでしょうか?それに気が付いていますか?皆さんは、同年代で1/4しか通う事の出来ない大学で勉強していて、1/8人しか生活を送れていない高所得国に住んでいて、その中で国際的な社会貢献を目指している、1人/80億人の貴重な存在なんです。だからこそ、社会に出た時に自分の能力で何を解決することができるか、どのようなことを他人に対して支えることができるか、と考えることのできる立場にいるのです。なんと素晴らしことでしょう。そんな存在、世界でもわずかしかいません。

ぜひ、みなさんも、社会が皆さんに求めていることをつかみ取って、それを自分自身のど真ん中において、自分を磨き、国際社会と言う舞台で他人のために自分をささげてください。その一つが国連職員と言うのは間違いありません。

ちなみに、私の場合は、もともと、いわゆる理系人間だったのですが、ちょうど今から20年前に環境科学の博士号を取得した時に、自分の専門分野で開発途上国の支援ができる分野に進んだのがきっかけで、今に至ります。自分の分野で思いっきり仕事しているので、なんだかんだありますが、毎日楽しいです。

そのなんだかんだの一番ど真ん中にあるのが、地球三大危機(気候危機、自然危機、汚染危機)。気候変動や気候問題と言う言葉遣いを既に通り越して、国連では危機と言う単語を用いています。それほど切羽詰まっているのです。では、なぜこのような状態に私たちの地球はなってしまったのでしょうか?それを考えるためには、時計の針を今から50年前の1972年に戻したいと思います。

3.かけがえのない地球

今日は一冊本を持っていました。これがその本、今からちょうど50年前の1972年に出版された「かけがえのない地球」です。1972年と言うと、皆さんのご両親が皆さんの年齢だったころでしょうか?その当時の日本はいわゆる高度経済系長期に沸いていました。物を作ればどんどん売れる、毎日頑張ればどんどんお給料も増える、なんでもポジティブだった時代。でも今から考えれば、おかしな時代ですよね。なんせ、本来であれば最も高いはずの天然資源を、先進国と言う立場で「先に」天然資源を搾取し、それを富に経済変換していた時代、しかもその負の影響なんぞ誰も気が付かない、気にしない、公害と言われていたとしても。多少空気が汚れていようが、多少水が汚れていようがお構いなし、「目の前」の経済成長が一番大切、今後もそう続くに違いないと言う近視眼的価値観で突き抜けていた時代です。

でも1972年にはもうそれが起きていたんです。日本では、あの水俣病、水俣病事件と言った方が良いと思いますが、公式に発生が確認されてから15年余り、その問題にようやく正直に正面から見つめだしたのが1972年です。世界でも、ようやく「環境汚染」と言う言葉が出てきた時代です。

そんな時代で、環境問題を国連でもようやく人間環境問題として取扱いだしたのが1972年。58か国の当時権威ある152人の先生方の知識を集めたのがこの本です。50年前の本ですが、今のでも心に突き刺さる言葉が書いてあります。例えば:

「現在の環境問題が、自然への誤った人間の接近の仕方によって生じていることは厳然たる事実である。われわれは、往々にして、地球の住人の一部である事を忘れ、地球の主人であると認識しがちである。人類の進歩とは、人間を取り囲む外界の環境を改造、征服することに追って達成されると認識する。すなわち、人間の利益に反すると考えられる環境部分を破壊してでも、人間の利益を優先させようとする悪しき態度である。高級な知能を持つ人類は、自然を破壊し、劣悪化することによってもあるいは生物の一種として存在することは可能であるかもしれない。しかし、そんな環境のなかで、人間として尊厳を保った形の生存ができるものであろうか?」

50年後の今の現状はどうでしょうか?より悪化していないでしょうか?さらにこの本にはこうも書かれています。
「われわれは現在、様々な経済上の問題をかかえている。例えば、環境の問題、高い消費性向、消費者運動、資源利用の問題、都市部への過度の人口集中の問題等である。政治の分野では、外部不経済、資源不足、都市化の減少問題について、場当たりの解決で済ませようとする悪しき傾向がみられる。従って満足すべき成果はあがっていない。目下、様々の問題、都市化や技術発展に伴って生ずる諸矛盾は著しく増大しており、相互間の緩衝作用も増大してきている。科学思想において事実を総合的に理解する必要が認識されているのと同様に、経済学の分野でも人間の工業生産活動と都市生活感の独立性および相互関連性について総合的に解決すようとする動きが生まれてきた」。

つまり、年々資源を使えば使うほど、それが富に変換して経済が発展する。それ捨てれば捨てるほど、新たに物が必要になるので、さらに生産を続けることができる。この革命的な大量生産大量消費産業に国が育てられている、大量生産大量消費が国民を豊かにしている、大量生産大量消費こそが経済発展にとって最重要項目である、と言うのが社会の隅々まで浸透していた信念であった。今思えば完全に間違った大革命だったのですが。

さらに、この本には地球環境問題の解決策も書かれています。
「望ましい人間環境を生みだすということは、単に自然の調和を保ち、天然資源を経済的に管理し、生物、人間の健康をおびやかす脅威を取り除くことだけでは達成されない(つまりDoingだけでは解決しない)。自然の力と人間の意志のたえまない交流によって実現しなければならない(人間と環境のBeingをシンクロさせる)ということです。」

でも、残念ながら私たち種としての人間は、50年前から一歩も進んでいないのではないでしょうか?

一つだけ言えることがあります。それは、この本に書かれてある英知を基に1972年にストックホルムで開催されたのが、国連初となる環境系の会議、国連人間環境会議です。この会議の結果を踏まえて、同年9月の国連環境総会で設立が決まったのが、私の勤務している国連環境計画です。

4.国連環境計画

1972年に国連環境計画が設立されてから50年経ちます。その記念すべき年に私自身が国連環境計画の職員として仕事していることに、なんだか運命を感じます。国連環境計画は環境問題対策を実施するために設立された国連機関です。ケニアの首都、ナイロビに本部を構え、世界43カ国に事務所があり約850名の職員が働いています。その中で日本人専門職は15名程度です。私は経済局に属し大阪にある国際環境技術センターに勤務しています。国際環境技術センターは、1990年に大阪で開催された花と緑の国際万博のレガシーとして日本政府が誘致し、1992年に設立されました。現在は、UNEPの廃棄物担当チームとして、分母を地球丸ごと一個として、世界中、特に開発途上国における廃棄物管理支援の仕事をしています。

5.地球三大危機



過去2年間、人類は未曾有の状況に直面しました。人と直接会うことができない日々、外出も最低限、それまでの普通の社会がどんでん返しとなり、私たちの生活の中でありとあらゆることが変わりました。人間の目では直接見ることのできない透明なそいつ、コロナウィルスにより社会がすべて変わりました。今はまだアフターコロナとは言えませんが、少なくとも人類はコロナウィルスと共に生きていかなければなりません。

この原因は何ですか?科学的には色々な説明の仕方があると思いますが、一言で言うと、全て人間が悪い。

2022年の現在、私たちは環境問題を通り過ぎて地球三大危機、気候危機、自然危機、汚染危機に直面しています。問題ではなく、危機なんです。皆さんも実感しますよね、たった2週間しかなかった梅雨、実際雨が降ったのは数日程度、昨年の夏は覚えていますか?昨年も酷暑でした、でも8月中旬はほぼ毎日雨だったと記憶しています。熱海での自滑り、豪雨が原因でしたが、産業廃棄物処分問題も浮上しました。部分的には人災だったかもしれません。また、地球上には約800万種類もの動植物がかつて存在していました。気候危機と汚染危機が原因で今世紀末までに100万種類もの動植物が絶滅に至るとも言われています。現在は第6次大量絶滅期の渦中です。確実に人間のせいで自然界のバランスが完全に崩壊しました。

でも崩壊と言うのは人間から見た姿であって、地球にとってはこの状況でもバランスを取ろうとしている事には間違いありません。そのバランスを取ろうとしている結果として、地球上の平均気温が上昇しているということをちゃんと理解しておかなければなりません。

1990年に開催され国連環境計画の大阪への誘致に導いた花と緑の国際万博のテーマは、自然と人類の共存でした。これは人間の宿命であり、過去数多くの哲学者や宗教学者が言葉が違うにしても、同じことを繰り返し述べてきています。でも人間は勘違いをしている場合が多いです。人間は自然を管理できるのだと。

気候危機、自然危機、汚染危機、の中で、私は三つ目の汚染危機、特に廃棄物問題からこの地球三大危機対策に関する仕事をしています。一言で言うと、国連職員のごみ屋さんです。この50年前の本には既にごみ問題に関してこう記してあります。

「人間は自然を無料の浄化装置や無料の処分場としか見ていなかった。目の前の豊かさを得ることに目をくらみ、その長期的な結果がどうなるか見て見ぬふりをしてきた。」

例えば、水俣病。今から60年から80年前、あの企業が1億円かけて排水処理施設を建設しちゃんと排水を処理していれば、患者さんへの補償金や水俣湾浚渫工事なので約4000億円払わなくて済んだのです。

例えば、気候変動。気候変動対策を実施するために、今20年間で約8000兆円、年間400兆円が必要と言われています。年間地球の人口一人あたり5万円。そもそも排出が多い先進国が負担するとなると、先進国の住民一人当たり年間40万円必要となります。これは過去250年間のつけです、外部不経済としてきた経済的損失ということです。ちなみに、250年前から気候変動対策を取っていた、と仮定した場合の、年間一人当たりの対策費負担額は、わずか200円。その200円をケチったために、今では年間人口一人当たり5万円の対策費が必要なんです。

6.我々は本当のごみ問題を見ているのか?


このビデオはなアフリカのナイロビの首都ケニア近郊の東アフリカ最大の埋立処分場です。 これを見てどう思いましたか?やっぱり開発途上国のごみ問題は悲惨、ひどい、何も対策ができていない、開発途上国はそんなもんだろう、と言う感想をお持ちかと思います。日本に住んでいればそう思うのは当たり前です。日本のごみ実態は、進みすぎている管理です。

このビデオの途中で、処分場でごみをそのまま燃やしているシーンがあったと思います。これは開発途上国でよくみられる最終処分方法です。つまり、有機物であれば燃やせば消えてしまう、ということ。原理的には日本の焼却施設と同じです。しかし、ここにも同じ問題が隠れています。日本のような焼却場の建設には数百億円単位の環境対策投資が必要です。開発途上国はそんな巨額のお金があれば経済への投資に隔てるのが当たり前です。なんせ、全てのごみを処分場に運んでそこで野焼きすれば、かかるコストはせいぜい1トン当たり数ドル程度。開発途上国はお金がないので、これしかできません、と言うのが良く聞かれる説明です。本当にそうでしょうか?

計算してみました。単純埋立と野焼き処分の運用コストはごみ1トン当たり約2ドルから3ドルです。それと比較して、日本のような管理された最終処分場の運用コストは1トン当たり25ドルから30ドル、つまり10倍も高くなります。ほら見たか、と思われた皆さん、ちょっと待ってください、ここに環境汚染コスト、外部不経済を計算しなければなりません。

単純埋立と野焼き処分の環境汚染健康被害コストは、1トン当たり約100ドルから120ドル程度、管理型処分場の汚染コストは1ドル未満、100倍もの差があるんです。つまり、ここにも同じ原理があります。一番運用コストが安い単純埋立と野焼きは確かにその処分する時には一番安いコストなんですが、全体的に見ると一番高いコストになるのです。

つまり、この50年前のこの本に書かれてある通りです、「人間は自然を無料の浄化装置や無料の処分場としか見ていなかった。目の前の豊かさを得ることに目をくらみ、その長期的な結果がどうなるか見て見ぬふりをしてきた。」

現実は50年前と全く変わっていません…。

さて、これを踏まえて、改めて現実を見ていきたいと思います。皆さん、ここでクイズです。皆さん家では何種類ごみを分別しますか?私は大阪市内に住んでいますが、一般ごみ、プラスチックごみ、PETボトル、アルミ缶、スチール缶、瓶、紙類、段ボールが日常分けているごみの代表です。では世界の状況を見てみましょう。

世界のごみ処理はどうなる?


この図は2020年から2050年までの一般ごみの発生量とその処理量を予想したグラフです。まず基本情報として、2020年の一般ごみの発生総量は約21億トン、東京スカイツリー約5.8万機分の重さに匹敵します。このグラフは、単純埋立、その他埋立、リサイクル、廃棄物発電、単純焼却の5個のデータが積みあがっています。一番目立つのが赤色の単純埋立。これは先ほどのビデオのような埋立処分のことを示しています。なんだかんだ言ってこれが主要な処分方法。マジョリティーなんです。つまり世界標準。別な言い方をすると、日本のようにしっかり分別してリサイクルを徹底している方がマイノリティーなんです。でも日本も50年もさかのぼれば同じ状態でした。世界的に見れば単純埋立が約50%、リサイクルは22%程度。リサイクルを目指している世の中ではありますが、現時点ではまだ限定的です。

では2050年になったらさぞかし状況は改善されているだろう、と思われているかもしれませんが、実はほぼ変わらないという予想が出ています。2050年、皆さんが社会を率いて晩年を迎えている頃、未来のごみは、まだ40%強が単純埋立処分場に廃棄され、リサイクル率は微増の24%。2050年のこの授業でも、未来の国連職員と未来の学生さんが同じ話をしているかもしれません。世界で排出されるごみの半分は単純埋立処分場に捨てられている。50年前と変わらない、と。

所得別一般ごみ処理形態はどうなっているのか?


では次のグラフを見たいと思います。これは所得別一般ごみ処理形態です。高所得国、中位高所得国、低位中所得国、低所得国と4つに分けつつ、処理形態を単純埋立、管理型埋立、リサイクル、廃棄物発電、単純焼却に分けています。経済レベルが低いと、目先のコストが一番安い単純埋立に依存しているのが顕著にみられます。ということは、結果的には環境汚染を引き起こしている、経済的に言えば、外部不経済を拡大させている、と言うのが現状です。

リサイクル率も高所得国でも25%程度と思ったほど高くないのが現実です。日本の数値は、表向きには約80%!!、とすごいのですが、実際は約20%程度。60%は廃棄物発電のエネルギー回収でのリサイクルなのですが、国際的にはこれはカウントしない、と言うのが通例です。廃棄物を燃やして熱を回収するというのは、一回しかできないので、リサイクル、と言うよりかはリカバリーと言うのが国際的な共通認識です。

日本も、2年前、前菅首相が「2050年までにはカーボンニュートラルを目指す」と言う宣言をしており、その中でも重要な項目が、リサイクルをど真ん中に置いた廃棄鬱管理、経済用語を使うと、循環型経済社会を構築するということになっています。そこに向けた流れはあるにはありますが、現実的にはまだまだいばらの道が待ち受けています。日本もSDGsやら、カーボンニュートラルやら、グリーン経済やら、と言う社会をグリーンにしていくための手立てを打ってきていますが、大量生産・大量消費にしっかりと根の生えた現在経済社会の根本を変えていくには、全く至っていません。

所得別ごみ排出量 - 今後30年間でどうなる?

もう一つデータを見たいと思います。所得別でどれだけ一般ごみの排出量が違うかと言うデータです。先ずは円グラフ。高所得国の住人が圧倒的に多くのごみを排出しているのは明らかです。一人当たりの平均が約2.1㎏。上位中所得国と比べても1.7倍ほど多く、低所得国と比べると2.5倍も多い、と言うデータです。世界人口の1/8程度が高所得国に住んでいますが、この約10億人の人間だけで世界の一般ごみの排出の1/3を占めています。私たちもここに分類される一人の人間ですが、皆さんどう感じますか?マイバックやマイボトルを持つなどの日々の努力を実施している人も多いと思いますが、大量生産・大量消費が基盤となっている社会がまだ表面的にしか変わっていない、と言うのが現状かもしれませんね。皆さん、今日一つ宿題です。今日帰りにコンビニかスーパーに行くと思うのですが、そこで、リサイクル素材を使っている商品を探してみてください。結構難しいと思います。この建物にあるセブンイレブンやスターバックスは、多くの企業の中でもかなりがんばっている企業なので、その努力を見ることができると思います。でも、普通のスーパーに行くと、見つけるのは難しいと思います。ぜひ見つけてみてください、これが今日の宿題です。

上位中所得国と低位中所得国も、高所得国と排出総量はあまり変わりません。それぞれ人口が約30億人ですが、今後、ここに分類される国がどれほど経済力を伸ばし、今の高所得国が過去してきたように、環境を無料のごみ箱と言う社会で進むのか、それともSDGs時代に沿った環境優先型の経済システムを構築して実施していくのか、と言うのが、今後非常に重要なポイントとなるでしょう。

約10億人が住んでいる低所得国。ごみの排出量は他と比べると非常に少ない状態です。しかし、今日、映像で見たように、環境汚染に直結する方法でしか廃棄物を管理できない、と言うのがここに分類される多くの国が直面している問題です。廃棄物発生量が少ないから、経済発展を優先にしなければならない、と言うのはもはや理由になりません。環境を無料のごみ箱としてしまう事、環境問題を無視すること・先送りにすることは、先ほどの経済との議論でも明らかなように、後で大きな落とし穴に落ちてしまいます。環境問題のコストが一番高いのです。

では、だれが何をするべきでしょうか?少なくとも高所得国の日本に住んでいる私たちは何をするべきでしょうか?そして、その中でも高所得国に住んでいて、将来は国際貢献に人生をささげていきたい貴重な存在である皆さんは何をするべきでしょうか?

ここで皆さんの出番です。皆さんはこのような環境問題を包括的かつ国際的に見ることができる立場にいます。ここで重要なのがこのキーワード、「誰もが被害者でもあり誰もが加害者である。環境汚染に第三者はいない」。世界的に見ても非常に恵まれた立場にいる皆さんでも、環境問題に対しては加害者でもあり被害者でもあるのです。どちらかと言うと加害者かもしれません、日本に住んでいるだけで。

では、これから、一つの環境問題を取り上げて、私たちが何をするべきか、何を考えるべきか、と検討したいと思います。

7.プラスチック汚染問題:私たちが本当に解決しなければならない問題は何か?

私たちは本当の人間社会を見ているか?

環境問題の中でも一番最新の国際問題となったのがプラスチック汚染問題。5年前にはだれもプラスチック汚染問題など国際問題だ、なんて言っていませんでした。しかし、ものすごい勢いで、その問題が国際的にも一般化され、今後2年間かけてプラスチック汚染対策の国際条約が作られるに至りました。気候変動も含め、今までは地球規模の環境問題に対しては、国が主導で外交政策・交渉と言う筋書きで進んできましたが、今回は全く違うアプローチで世の中が動いた初のケースとなります。

それは一体何かと言うと、これです、スマホ+SNSです。ストローが鼻に刺さった亀、海を泳いでいる亀やイルカがレジ袋を突っつくシーン、ビニール袋や漁網が絡まった魚やオットセイ、レジ袋を食べて死んでしまった奈良公園の鹿、など、これらの悲しいストーリーがスマホ+SNSで瞬く間に広がり、世界中の人たちの心に突き刺さった、その結果として、ボトムアップアプローチとして世界が動いたのが、このプラスチック汚染問題です。

でもここで、この問いを考えてみたいと思います。我々は本当の人間社会を見ているのか?そして循環型社会は成り立つのであろうか?

世界のデータを見てみると…

ではプラスチックのデータを見てみましょう。1970年のプラスチック製造量は約3500万トン、現在は約4億トン、2050年には約。5.9億トンにもなることが予想されています。プラスチックの製造量は右肩借り、プラスチック汚染と言おうが何だろうか、プラスチックは私たちの社会生活にとって必要不可欠です。プラスチックがあるからこそ、安全で新鮮な食料品が世界中にいきわたり、冷凍施設がないような場所にも対応できる。また、ペットボトル飲料水があるからこそ、インフラが整っていない開発途上国の田舎町に、安心で安全な水を届けることができる、と言うのが現状です。

加えて、プラスチック素材の包装があるからこそ、賞味期限を延ばすことができ、その分物流コストを抑えることができる、つまり輸送に関わる二酸化炭素排出量を抑えることができています。言い換えると、SDGsを達成するために必要な素材である、ということになります。

でも、残念ながら、先ほどの映像で見たように、プラスチック汚染を引き起こしています。プラスチック汚染が地球規模の喫緊の課題となった今、みんなのつながりに基づく国際的な対策を打たなければなりません。

プラスチック管理の国際条約化:それだけで大丈夫か?

このビデオは、今年3月に開催された国連加盟国が国際的な環境対策について意思決定をする国連環境総会の一シーン。プラスチック管理に対する国際条約を作る決議をした瞬間です。採択がされた瞬間、UNEPのインガー事務局長は若干フライング気味でしたが、ケニア・ナイロビのUNEP本部の会議場内はスタンディングオベーション、それは感動できな瞬間でした。

でも、ちょっと待ってください。プラスチック汚染問題は今に始まったことではなく、その課題の一つの海ごみ問題も今に始まったことではありません。そもそも海洋ごみ問題は、既に50年前から問題視されています。

「我々は自然そのものも、そして海洋を無料のごみ箱として使用している。海洋が恒久的に受けているごみの被害についても考慮しなければならない。なぜなら工業部門の汚物の廃棄は無神経に行われている。都市廃棄物を海に流し去ってしまいすれば、それらは海の果てのいずこかへ消え去るものと錯覚しがちである。1970年にノルウェーのある水産省関係の役人が気付くまでは、ヨーロッパ各国全てのプラスチック製造工場は有毒物質を平気で北海に流し続けていたのである。」

人間以外の動植物からすれば、「人類はいまさら何を言っているのか?こんなに既に汚染しやがって。一人でかっこつけるな」、と言っているかもしれません。

プラスチック管理の国際条約に向けた動きは、今まさしくスタートを切ったところです。1ヶ月ほど前にセネガルのダカールで準備会合を開催し、交渉会議のルールや方向性の議論が行われました。今年後半に第一回政府間交渉会議をウルグアイで開催し、2024年末までに全部で政府間交渉会議を5回開催し、条約を取りまとめる予定です。通例ですと、条約につけられる名前の場所でその後外交会議が開催され、条約を採択し、条約への著名が開始されます。

今年3月の国産環境総会の決議には、条約の交渉の柱となる要素が明記されています。その中でもプラスチックの包括的なライフサイクルアプローチの導入、リオ宣言の原則、つまり「共通だが差異のある責任」が注目されるところです。科学的な観点から重要なライフサイクルアプローチと外交政策上重要な共通だがサイのある責任がどこまで融合するのかが、交渉上の重要なポイントとなるでしょう。

また、具体的な対策事項の中で注目されるのが、いわゆる国際条約上の背骨となる三位一体構造、①条約本文に法的拘束力を持たせるか?、②独立予算制度を設けるか?、③遵守システムを条約内部に組み込むか?、がどうなるかという事です。参考までに10年前に交渉が行われた水俣条約は①条約本文に法的拘束力を持たせ、③遵守システムを条約内部に組み込みました。予算に関しては、自主的な財源による予算システムを条約内に入れ込みましたが、基本的には地球環境ファシリティーの予算を使うことになっています。今後の交渉を注視していきたいと思います。

私個人的にですが、プラスチック汚染問題のニュース報道や雑誌、記事などを読んでいると、どうしても私は腑に落ちないことがあるんです。これらの記事のほぼすべてのトーンとして、「プラスチックが悪い説」なんです。私たちはプラスチックに依存した社会で暮らしていて、プラスチックがあるからこそ、こんなに便利で豊かな生活を送れています。本当に悪いのはプラスチックでしょうか?

本当に悪いのは何ですか?全ての環境問題に共通する事、それは、全ては私たち人間が悪いのです。プラスチックは悪くありません。それをポイ捨てする、ちゃんと管理しない私たちが悪いのです。

今日の講義の最後の部分として、この本当の問題を考えてみたいと思います。

その前に、ちょっと休憩。今日色々とお話ししましたが、国連職員と言うと、やはりお高く堅いイメージですかね?基本的には公務員の仕事なので、お役所イメージ化と思います。でも、最近、こんな仕事もしています。

8.我々は本当の地球の姿を見ているのか?

さて、本日最後のパートに来ました。「我々は本当の地球の姿を見ているのか?」について考えてみたいと思います。

私個人的な話しになりますが、社会に出てから20年弱、環境省で10年弱働き、国連勤務が7年経ち、ふと気が付いたんです。今まで難しいことをたくさん実施してきたが、果たしてどこまで環境問題の改善に貢献しているんだろうか?と。今思えば、多国間環境条約、例えば、バーゼル条約や水俣条約、国連環境総会決議、国連職員として、地球規模の環境対策の最前線でありとあらゆることを実施していました。

でも、昨年の8月の暑い日、こんな風景を目撃したのです。在宅勤務のお昼休みの日課となった散歩をしているとき、運河の横の遊歩道を歩いていました。前方10メートルぐらいに、多分70代のご夫婦が炎天下にもかかわらず散歩されていました。旦那さんの方が持っていたPETボトルドリンクを飲み干し他その次の瞬間、PETボトルを運河に投げ捨てたのです!!「えっ゛ーーーー」、と目を疑った瞬間でした。

でもこれが現状でしょう。日本でもポイ捨てはなくならないし、そもそも環境って、特にごみの分別はめんどくさいし、いつも心苦しいのは、コンビニのごみ箱に無造作に捨てられたごみ、街中の自動販売機の横にあるドリンク空き容器専用のごみ箱に無造作に突っ込んであるその他のごみ、日本でもこれが現状であるということです。

私はこういう仕事していますので、基本的にはお会いする人は、SDGsに向けて頑張っている人たちや、地球環境問題、ごみ問題やリサイクルなど、一生懸命活動を実施している方々です。でも、街中を歩いているとよく気が付くのです、私のいる環境こそが特殊であって、日本でも環境管理対策はどちらかと言うと毛嫌いされていることが多く、環境はめんどくさい、と言うイメージがある事。

それを払拭するための一つとして、ファーストリテイリングのユニクロチーム、そして綾瀬はるかさんと挑戦しているのが、このJOINと言う取組みです。目の前の環境問題対策を実施するための一つのアプローチですが、多くの皆さんに「誰もが被害者でもあり誰もが加害者である。環境汚染に第三者はいない」、ということを理解いただいて、環境への取組はかっこいいぞ、と思っていただきたいと思います。

でもここに一つのキーワードが隠れています。ここで、一度紹介したこの本のこの部分をもう一度読みたいと思います。

「望ましい人間環境を生みだすということは、単に自然の調和を保ち、天然資源を経済的に管理し、生物、人間の健康をおびやかす脅威を取り除くことだけでは達成されない(つまりDoingだけでは解決しない)。自然の力と人間の意志のたえまない交流によって実現しなければならない(人間と環境のBeingをシンクロさせる)ということです。」

9.環境管理の歴史:その対策で良いのか?

多国間環境条約は1857年のスイス・ドイツ・オーストリアの水資源管理協定からスタートし、現在は環境対策を中心として約250もの多国間環境条約が乱立しています。最初は環境管理問題、1970年代から環境汚染問題対策になり、その後は環境問題と外交問題がセットになって政治的案件となりつつも、ここ最近は環境問題の市民化、ボトムアップアプローチになってきています。また、化学物質の観点から言えば、ここ最近は、化学物質の低濃度による管理形態、物質ごとの細分化の傾向がみられます。例えば、先ほど話したプラスチック問題に関して言えば、普段私たちが使っているプラスチックに関しては化学物質的には非有害性物質に分類されますが、それが地球環境中に何百年も残存し続け、しかも食物連鎖に乗ってしまい、結果として動植物全てが低濃度長期暴露する、と言う新たな化学物質汚染を引き起こしています。

その対策を実施するために、化学物質・廃棄物に関する多国間条約があります。一番新しいのは5年前に発行した国際的な水銀に管理に関する水俣条約、そして今後作っていくプラスチック条約。また2030年目標のSDGsの後の、Beyond SDGs、など、私たちはこれからも条約を作る・実施する、国際的な枠組みを作る・実施する、それに基づいて各国が国内法を作る・実施する、それに基づいて私たち市民が自分なりに理解し実施する、といういわゆるDoingが繰り返されていく事でしょう。

でも私たちは既に、少なくとも最初の多国間環境条約が作られた1857年以降、つねにDoingを繰り返してきました。繰り返してきた結果が今の現状です。対策を講じて管理してそれを継続することで、少なくともここ日本では豊かで幸せで安心で、環境管理された社会で暮らすことができています。でも、今回のプラスチック問題、Beyond SDGs、私たちが今予想できない未来の新たな問題に対して、今後もそれらの対策を作って実施していく、Doingを繰り返していく事でしょう。

もちろんDoingは重要です。目の前の問題に対して確実に対策を取るためには、Doingを実施していかなければなりません。でも、Doingだけでは、本当に私たちが問わなければならない本質の問題に向き合っていないのかもしれません。どのようにしたら「人間は自然と共に生きることができるか」?

ドイツの有名な哲学者、カントがその哲学書の中で「人間は生まれながらにして悪である、自然と共に生きる善に向かうことが人間の使命である」と言っているように、数多くの哲学者も長年訴えつつけている哲学的思考の重要な一つです。これは、キリスト教の聖書・旧約聖書の神や天を環境と読み替えると「人間と自然の関係」がわかるようになったり、仏教の般若心境も空を環境や自然と解釈して読み込むと「人間と自然の関係」が良く理解できます。言葉は違いますが、ここに人としての問わなければならない本質があります。つまり、自然に対する人としてのbeingを正さない限り、人間が引き起した全ての問題は解決することはない、ということです。

私は典型的な日本人で、無宗教な人の一人で、社会に出てから科学的な知見を基に様々な活動を実施していましたが、最近よく考えることは、自然に対するBeingをどのように改善していくか、多くの人が目の前の利益に目をくらませることなく、どのように自然と共に生きていくためのBeing を身に着けていくか、ということが非常に重要であると認識するようになりました。

本質的な問題とは、人間に与えられている使命、それは人間は自然と共に生きていかなければならないこと。つまり人間のBeing自然のBeingをシンクロさせること、正確に言えば自然のBeing に人間のBeingを合わせていく事です。

10.日本の役割とは?


さて、講義の最初でも議論しましたが「日本の役割」、これを最後にもう一度考えてみたいと思います。

皆さんは貴重な存在。国際的な問題を包括的に見る立場にいる。
日本の歴史、特に環境に対する歴史を学ぶと、国際的な貢献が見えてくる。
特に日本の負の教訓を生かして、それを開発途上国で起こさないようにしなければならない。
それができるのは、皆さんしかいない。

11.おわりに

誰もが被害者でもあり誰もが加害者である。環境汚染に第三者はいない」、これが地球環境問題の現状です。目の前の対策を実施するためにDoingを続けていく事は重要ですが、人間の本質のBeingを自然のBeingとシンクロさせない限りは、地球環境問題を解決することはできない。私たち人間はこの一個しかない地球に生かされている、beingが大切である、doingも大切であるがbeing を見つめなおすことが、地球三大危機を解決するための本質ではないでしょうか?


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