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世の中は不平等、という前提に立つ

今日はとても面白いイベントに参加しました。
ハーバードとHTHの教育大学院でそれぞれ学び、教育事業のアントレプレナーとしても活躍されているお二人のトークイベントです。

話の内容の要約はしませんが、このイベントの中でアメリカは「多様性への寛容性が高い」という話があり、そのことについて考えました。ここ数年の私のテーマの一つが教育現場におけるequity(公平性)なので、そこにも共通します。(イベントの中ではequityの話も出ました)

学校現場で相談員をやっているとき、ディスクレシア傾向の児童がいたのですが、本来は必要なサポートについて、他の児童に「特別扱いだ」「不平等だ」と言われるのでは、という懸念を示されました。それは結局、人は多様であり、それに対して受けられるサポートに違いが出て当たり前である、という前提が共有されていないからなのではないか、と思うのです。

もっと言えば、何となく日本では「みんな平等に機会や才能(人ぞれぞれ違いはあっても)を与えられている」という前提があるように思います。しかし本当は不平等です。
だからこそ、その不平等の解消のためにequity(公平性)があると考えます。不平等の上に平等を重ねても不平等は解消しません。

多様性が前提にないので、日本の学校(教育)の多様性も少ないのだと感じます。多様な教育機関や教育手法が話題になるようになってきましたが、保育園・幼稚園の多様性を見ているとまだ小学校以降は画一的だなと思ってしまいます。

もう一つ。逆に受け取る側の施しを受ける抵抗感、というのもあるように思います。子ども食堂には本当に支援が必要な子どもや家庭は来ない、と言われる理由の一つでもあります。

与える側の優越感、受け取る側の劣等感みたいな感じでしょうか。上手くまとまりませんが、夜も遅くなってきたのでこの辺で。

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