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夢に続きを

 黒いワンピースの中で背中につーっと汗が伝った。
別れ話の最中だ。いや、別れ話とは言わない。何故なら恋人関係でも婚姻関係でもないからだ。彼と私はセフレの関係だ。別れるとか別れないとかではない。
「最近さ、距離感バグってたじゃん。」
「そうかな。」
「だって俺のことすきでしょ?」
面倒くさそうな態度の男に怒りと悲しみが込み上げてくる。
「私はあなたに、すきとも付き合いたいとも一度も言ってないよ。だからあなたの勘違い。」
「いや、勘違いじゃないね」
その態度が最早勘違い野郎の態度だ。
「俺はすきとかそういうのないから。ただのセフレ。ね?」
いや、だから私はすきとも付き合いたいとも言ってないんだからその言い方は間違ってるだろう。と思っても私は口には出さないでいた。


私が他の女に売られた喧嘩を買ったことでこうなった。友人に唆され、女にしか分からない方法で喧嘩を買ったのだが、男にバレて今こうして責め立てられている。
自業自得である。本心ではなかったとは言え、すべては後の祭り。実行した私が悪い。言い訳も毛頭する気はありませんと、会った途端男に告げた。
正直男が怒るとは思わなくて、戸惑っている。怒るとかイラつくとかそういう態度をこの一年見たことがなかったのだ。めんどくせぇと顔に書いてあることはよくあったが。

「もうさ、長いじゃん、俺ら。だからもういいかなーって。」
腹の立つ言い草だ。生意気だし何様だ。
埃が気になると小さな声でいいつつ棚の上を指でなぞる男に対して私は俯いて、彼に伝えたい言葉を胸の奥から懸命に引き出していた。

恋は、落ちた方が負けだ。惚れたほうの負け。
つまり、これは私の不戦敗である。

「一つ、聞いてほしいことがあるの。」
男に貸していたゲーム機の入った紙袋の紐を握る手が震える。
「いやー、今日はいいや。俺、すんってなっちゃってるし、今聞いてもねー、」
「でももう会うつもりないでしょ?」
「それは分かんない。別に嫌いになったわけじゃないからさ、ラインもブロックとかしないし。何ヶ月かしてさ、また一緒に飲んでもいいかなーってなったらさ、」
ずるい。
私の愚行に対して「キモい」と言い放ったくせに「嫌いになったわけではない」だなんて都合が良すぎる。
ただ、その僅かな一抹の希望にかけている私もいるのだ。相変わらず私は顔を上げられないで、口から逃げ出してしまいそうな脈打つ心臓を抑え込むように息を整えることしか出来なかった。
「聞いて、お願い。」
「いや、今日はもう帰ろ?」
男は私の肩を掴んで押す。私は抗って男の腕を掴んで男は「痛い」と言って、私は手を話した。
「いつも聞いてくれないんだから、今日くらいは聞いてよ。」
思わず声を荒らげそうになり、頑張って堪えて尻すぼみになる。
「何、いつもちゃんと聞いてるよ。」
「違うの、言い訳とかそういうんじゃないから、聞いて。」
たくさんの言葉が駆け巡っていた。彼に伝えたい言葉は山ほどあって、次会ったら話したいと思っていたエピソードトークすらも浮かんでは消えて、ただ冷静さを保つのに必死で浮かんだ言葉は何一つ口から出てはこなかった。
そっと荷物を置いて、両手でそっと男の両手を握って訝しげに私を見る男の目を見つめて、それからまた視線を落とした。
「…私ね、あなたのことが羨ましかったの。」
「羨ましい?」
「自分のしたいことをして自由にしてるのが羨ましかった。それに、私の夢を笑わずに聞いてくれて、すごく嬉しかった。」
手を握り返しこそしなかったけれど、その手は抵抗することもなく、ただそこにいつもの彼のぬくもりを感じていた。
「だからね、私、転職だって引越しだって出来たの。あなたとお酒を飲んでくだらないことを喋って、じゃれて、すごく楽しかった。いっぱい元気ももらったの。だからね、」
ゆっくりと顔を上げた。男は言葉の続きを求めるように私を見た。
長いまつげを纏った大きな瞳をじっと見つめて
「ありがとう」
と言った。
苛立っていた男の表情が和らいだ。
「…応援してるよ。頑張ってよ。」
「思ってもないこと言わなくていいよ。」
「思ってるよ。」
「あなたもね、ほどほどに。」
「一言余計なんだよな」
「それは、お互い様でしょ。」
知っている空気だった。いつも2人の間にあった空気だった。柔らかいと思って触れてしまったグラスウールが刺さったような空気だったのに、いつもの私たちの、誰も知らない私たちの間だけに流れる空気になった。
ドアを開けるのに手間どう私を彼はくすくす笑って、これが終わりだとは到底思えなかった。ドアの向こうから彼を覗いて、彼が手を振った。私もそっと笑って手を振った。ドアを閉めれば終わる。
いや、終わりではない。一区切りだ。そう思った。


なかなか終わらない夏に、私はひとつ、終わらせた。
ここからまた始まる。期待とも希望とも違うけれど、何かが待っているということが、私を嗾けている。走り出したら止まらない。止まれない。ここまで来て引くに引けない。進むには十分な理由だ。

健康に楽しく幸せに生きてほしい。
そう願うのが私が彼に渡せる愛情の全てだ。

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