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2020年、春。95日間、毎日娘とサッカーした話。

2020年、春。
ステイホーム。
娘と初めて過ごした、長い長い休み。

母親である私は現在47歳。
娘が生まれる20日前まで仕事をし、生まれて8週が過ぎた日からフルタイムで仕事に戻った。
当時35歳、初産だった。

なぜそんなに早く仕事に復帰したのか。
理由はただ一つ。
娘の父親が働かなかったからだ。

娘の父親は外国人で、日本語は堪能だったけど、それだけだった。
母国での就職経験もほとんどない。そんな若者が日本ですぐに働けるほど、日本は好景気でもなかった。その上彼はプライドが高く、コンビニやスーパーで働くことを断固拒否した。その気持ちがわからなくもなかった。だから強く言えなかった。私は滴る母乳をトイレで絞りながら、ただ3人の生活を守るために無心で働くしかなかった。それもこれも娘のため。それだけを考えて、あとは無だった。

しばらくして娘の父親は働きに出たが、とても家族を養える給料を持ってかえってはこなかった。
私は黙々と働き続けた。その間、娘はずっと保育園に預けていた。延長保育もお願いした。0歳で延長保育に預けられているのは娘だけだった。
ただただかわいい時期だったのに、わたしはほとんど一緒にいることができなかった。

彼女が初めて立ったときも、
初めてことばを話したときも、
私はその場にいなかった。すべて保育園の先生に教えられた。

片手で抱えられるほどの小さい赤ちゃんを保育園に預け、朝から晩まで働かなければいけなかった日々に何度も絶望したけど、小さい娘を抱いて帰宅するときはいつも笑顔だったと思う。かわいいだけの小さい生き物に、寝不足でふらふらな35歳の私は生かされていた。


結局働いても長く続かない配偶者に愛想をつかした私は、娘を連れて家をでた。
娘が小学校に上がる、10日前のことだった。


ステイホームの期間中、毎日娘と一緒に19時にアパートの隣にある公園に行き、30分間サッカーをした。風のない日はバトミントンをしたり、終わってからブランコに乗ったりした。
娘は毎日18時を過ぎると「7時からサッカーね」と私に念を押した。空気がなくなってきたからと新しいサッカーボールが欲しがった。自転車用の空気入れを使ってパンパンに入れたら「おおー」と喜んでいた。古いボールだったから、毎日空気を入れなければいけなかったけど、毎日空気を入れて、そのたびに娘は「おおー」といってボールの感触を確かめていた。帰りはふにゃふにゃになったボールを抱えて帰った。
そしてアパートに戻り、一緒にごはんをつくった。
そしてまた翌日は昼頃に「こんにちは〜」と起きてくる娘と家の中で過ごす。
娘とこんなに長く一緒にいたのは、初めてだった。

それまでも娘とはいろんなところに出掛けた。
ひとり親で寂しい思いをさせたくなくて、休みの日には私の友達家族と一緒に旅行にいったり、音楽会を聴きに行ったり、映画や美術館、博物館にも行った。ちょっと高いホテルのランチビュッフェにおしゃれをして出かけたりした。そして去年は一緒に海外旅行にも行った。たくさん思い出がある。見たことのない景色、初めての場所。彼女はとても喜んでくれた。

だけど。
私が死んだあと、娘が在りし日のわたしを想い出すことがあるとするなら。
それはきっと、母娘になって12年目の春に過ごした、べこべこのサッカーボールを蹴って走り回った2020年の春の姿なんだろうなと思うのだ。


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